0-01 落星/序
「もう一度、瞬きをした時。君は、君ではなくなる」
白髪の女性は、少し寂しげにそう言った。
呼応するように、頭上に煌めく四重の光輪がカランと甲高く鳴る。
「けれど、不安がらないで」
光輪の最も外側の輪に、ひびが入った。ヤタガラスが寂しそうに微笑んで手を伸ばしたのと同時に、パキッと音を立てて砕け散った。
その伸ばされた手を、彼は優しく握り返す。
「大丈夫、私はここにいるから」
そうして、彼──“クロガネ”は、静かに目を閉じる。
刹那、彼の魂は流星の如く煌めき、呆気なくこの世から消えた。
一つの魂が永劫輪廻の円環から解き放たれたのだ。
◆ 星火の導く夜明け前の世界で ◆
序幕 遥か未来の君へ捧ぐ
夜空をピッと横切る一筋の光。流れ星。
クロガネが目を覚ましたまさにその時、彼の視界をその光が横切った。
「流れ星……」
ざあっ、と風が吹き抜ける。随分と深く眠っていたらしい。
身体をよじると、背中にチクチクとした感触。手で周囲を探ると、そこが芝生のような場所であることが分かる。当然ながらそれは屋外ということであり、視線の先には暗闇で視認は出来ないが、木々が生い茂っているのが分かった。
風に揺れる木の葉の、その更に先には星空が広がり、屋外であることは疑いようもない。
────とても、長い夢を見ていた気がした。
自分であるようで、けれど自分ではない。そんな誰かの記憶を、ぼんやりと辿っていたような、そんな感覚。
身体を起こしながらそれまでのことを思い出そうとして、けれど頭の中には自身に関する記憶が存在しないことに気が付いた。
自分の名前は分かる。クロガネ。だが、それだけだ。
何も思い出せない。そして、その感覚を言葉として言い表すことも出来ない。
あまりにも奇妙な感覚だった。
知識はあり、言葉も理解できる。常識もある。
けれど、それらに付随して存在しているはずの“自分”が、まるで霧の中に隠れてしまったかのように、そこには存在しない。
いや。
霧の中などという表現は的確ではない。
寧ろ──世界から消されてしまったかのようだ。
『白』ではなく『透明』。
『1』ではなく『0』。
ゾッとするような感覚に襲われた。自分が存在しない。じゃあ、今この身体は何なんだ。思考するこの頭は何なんだ。自分は一体何者なんだ。
夜の闇の中で、クロガネは頭を抱えて震えた。
ズン──。
その時だった。どこか遠くで地響きのような音がした。
何かの聞き間違いかと思ったが、断続的に地響きのような音が続いている。
……とても、嫌な予感。
直感ではあったが、クロガネはそれがいいものではないことをすぐに悟った。
クロガネの自身に対する恐怖を上回る、何か漠然とした違和感、あるいは不安感が彼の全身を包み込んだ。
思わず立ち上り周囲を見回すも、夜の暗闇は深く、何も情報を与えてはくれない。
ズン──、ズン──と、地響きのような音は次第に大きくなっていく。近付いてきているようでもあり、だが何かが少し違う。
巨大な何かがゆっくりと歩いてきている……の、ではなく。
何か、“壁”を壊そうとしているような──。
「……うわ!?」そんなことを考えたまさに次の瞬間だ。やけに甲高い音が響き渡った。「え……? 空が……」
ふと見上げた空に、異変が起きていることに気が付いた。
それまで漆黒に染まっていた夜空一面に、まるでガラスが割れるかのような無数の亀裂が走った。暗闇でも視認できるその淡く光る亀裂は次第に大きくなり、間もなく轟音と共に砕け散った。
空が割れたのだと思ったが、少し違う。
クロガネの居るこの空間を覆う“何か”が、壊れたのだ。
巨大なガラス片でも落下してくるのかと身構えるも、だが予想に反して空で砕け散ったそれは宙で霧散して消えてしまった。
「なん、だ? あれ……」
ズキ。ズキ。……頭痛。
知っている。クロガネはまさに今、空で砕け散ったその何かを知っている。
「……? 魔法……?」
言葉に出して、やけにしっくり来た。そうだ。あれは、魔法だ。
──だから、なんだ!?
魔法なんて知らないし、ましてや使えもしない。分かったところで、クロガネには何もできない。
そんなクロガネを嘲笑うかのように、カッと空が一瞬だけ明るくなった。“何だ?”と考える間もなく、クロガネの僅か十数メートルほど離れた地点を閃光が通り抜け、間を開けずに爆発した。
唐突な衝撃と風圧が襲いかかる。呆気なくクロガネは吹き飛ばされ、受け身を取ることも出来ないまま地面に叩きつけられた。
「が……っ、ぅ……」
痛い。
気が付いた時には地面を転がっている。
訳も分からないまま視線を向ければ、地面が溶解し、木々は燃え盛っているのが見えた。
赤く炎に照らされたことで周囲の景色がはっきりと見える。
ゾッと、背筋を悪寒が走り抜けた。光線のような一撃が、あの辺り一帯を焼き尽くしているのだ。もしそれがクロガネの方に逸れていたらと思うと、途端にクロガネの身体が震え出した。
死。
あまりにも明確な死の想像。
何が起きているんだ。
自分のことも分からないのに、こんなことまで起きて。
いい加減にしてくれ。
バクバクと激しく脈打つ心臓を押さえながらクロガネは立ち上がり、光線とは反対方向へと走り出した。
何度も振り返っては、燃え盛る炎を確認する。あの場から離れなければ。その一心で走るクロガネの、だが前方数メートル先を再度光線が横切った。
「──っ、!?」
先程よりも近い。
突然の閃光に目を焼かれ、直後の爆発──轟音。誘発される耳鳴り。紙屑のように吹き飛ばされ、木の幹に激突して地面に落ちた。
「────……っ、ぅあ……」
考える必要すらなく分かる。あの殺人的な攻撃を行う何者かに、クロガネは狙われている可能性がある。
いや、そうであるに違いない。
……俺が、何をしたっていうんだ。
木の根元でうずくまり、クロガネは震えた。背中を始点に、身体中に染み渡る痛みと恐怖。どうすればいいのか分からないまま、けれどこの世界は無情に進んでいく。
次にあの光線が飛んできたら、今度こそ死んでしまう。そんな感覚がクロガネを更に追い詰めた。
今、出来ることはなんだ。
生きるために、やらねばならないことはなんだ。
……逃げる、ことだ。
それしかない。ああ、とクロガネは肩を落とす。なんて無様で、なんて惨めなことか。
ふと雫が垂れた。何かと思って、手の甲で拭う。涙だ。悔しさと情けなさで、クロガネは泣いていた。
なんで、こんな目に合わなくちゃならないんだ。
なんで。
なんで……。
ズキ。ズキ。
頭痛。
ズキ。ズキ。ズギ。ズギ。
ぎっ、とクロガネは歯を食いしばった。なんだ? なんだこれ? そんなことを考えている間に、頭痛は益々酷くなっていく。
目の奥まで、痛い。うなじの辺りまで、痛い。頭全体が、痛い。
まるで、見えない何かが頭をがっしりと掴んで、締め付けているような。
そんな中で、空が徐々に明るくなっていくのが分かった。光に焼かれた目で見ても分かるほどだ。
すぐに分かった。また、来る。あの光線が、来るのだと。
──が、痛みというよりもはや激痛と呼ぶほかないその頭痛が、クロガネの思考を阻害する。
「う、ああ、あああ……! あ゛あ゛…………っ!!」
両手で頭を抱え、クロガネは呻き声を上げた。
頭が破裂しそうだ。
『■■■■?』
声だ。
声が、聞こえた。
『■■■。■■■、“■■”■■■』
聞き取れる。だが、その言葉を理解できない。
であるはずなのに、クロガネの脳内には、それまで存在しなかった知識が流れ込んできた。
『■■、■■■■。■■■■■』
何も分からないはずなのに、分かる。使える。そんな感覚。
『■■、■■■■■■■■■■■■』
ハッと、クロガネは目を見開いた。頭痛は嘘のように消え去り、思考は鮮明。
そして身体を流れる力の流れが、不思議と理解できた。
それが、『魔力』と呼ばれるものであるということも。
バッとクロガネは手を前に突き出した。
その手の平に向けて、魔力を収束させていくイメージ。
原理も仕組みも、分からない。
けれど、頭の中に存在した知らない誰かが、教えてくれた。
『魔力』は、不可視の物質。人間の思考によって流動し、形を成す。
そうして扱われる事象を、こう呼ぶ。
『魔法』と。
「ショット──」
頭の中に思い浮かんだその単語を発したのと、空が再び閃光に包まれたのは、ほぼ同時だった。
次の瞬間には、高速で迫りくる光線。
だが、クロガネはもう怖くなかった。
光線がクロガネに到達するよりも早く、魔法──ショットは放たれた。
途端、クロガネの視界はやけに鮮明にその瞬間を映し出す。
光線とショットが、空中で衝突した。一瞬の衝撃と閃光。次の瞬間には光線に丸く穴が空き、次いで真っ二つに裂ける。
そうしてクロガネを避けるように光線は二股に分かれ、両側に逸れた。
それから間を開けず、炸裂音と爆風が襲いかかる。
爆風にあおられるも、背後の木の幹に背中を預けることで何とか耐えることが出来た。
「…………」
自分が放った魔法であるのに、クロガネは目の前で起きたその出来事をどうにも信じることが出来なかった。
可笑しな話に聞こえるかもしれないが、実際そうなのだから何とも言えない。
クロガネはゆっくりと、立ち上がる。
視界の先には、二股に分かれた光線の通った跡と──真っ直ぐに続く溶解した地面。
そうしてその先に、巨大な影を見た。
炎に照らされてぼんやりと見えるその姿は、明らかに人間ではないことは確かだった。
もっと大きく、もっと恐ろしい。
“目が合った”。
分かる。アレは、もう一度あの光線を放とうとしているのだと。
咄嗟に手を前に突き出す──が、魔力の流れが感じられない。というより、魔力が出てこない。
ダメだ、とすぐに分かった。もう魔法は放てない。どうにもできない。
逃げるしかない。
まだ痛む身体に鞭打って、駆け出そうとした、その時だった。
ぶあ、と濃密な魔力の流れがクロガネの身体を包み込んだ。
「……!?」
その魔力と共に現れたのは、白髪の女性だ。
初めて──ではない。クロガネは彼女のことを、知っている。
「ごめんね、遅れちゃって……!」その女性は駆け足でクロガネに近付き、そのままクロガネを抱きしめた。「でも、すごいね……! 目覚めてすぐに魔法を使えるなんて!」
「え? え? ……ええ?」
何が何だか分からない。が、不快ではない。
不思議なほどに、心が安らいでいくのが分かる。
……というか、大きくて、柔らかい。
恥ずかしげもなく女性はクロガネの顔を胸に埋めさせるものだから、どうすればいいか分からない。
本来は恥ずかしがるべきなのかもしれないが、恐怖と混乱の中で追い詰められていたクロガネにとっては安心感が勝っていた。
「……クロガネ君を狙っているのは、アイツだね」
ピリ、と空気が確かに張り詰めた。女性の周囲に湧き上がる魔力は、クロガネのそれとは比べ物にならないほど強大なものだ。
女性の視線が、真っ直ぐに“巨大な影”を捉えた。
すぅ、と流れるような動作で、女性は手を前に突き出す。
「──雷閃」
そう言うや否や、雷が空気を乱雑に切り裂きながら突き進んだ。
雷が空気中を通り抜け、急激に熱された空気が膨張する。
ズガァン──と、空気を震わせる轟音。
思わず目を閉じたその一瞬で、巨大な影は跡形もなく消え去っていた。
そして。
光線が通り抜けた跡とは比較にならないほどの広範囲を焼き尽くした景色が、視界の先に悠然と広がっていた。
「…………!」
思わず口を半開きにして、クロガネはその光景に見入った。
あれほどの破壊力を持つ魔法を、女性はたった一人で放ったのだ。
信じられないといった表情で、クロガネは女性を見ると。
「……へへ。すごいでしょ」
屈託なく女性は笑っていた。
クロガネはその笑顔に、気が抜けた。
「……はい。めちゃめちゃ、すごいです」
こうして、真っ赤に燃え盛る森の中で、クロガネの物語は騒々しく始まったのだ。




