第5話 協力者
翌朝、スッティンが言った。
「今日、会ってほしい人がいます」
「誰だ」
「プラチャー・ウォンスックという人間です。ウドンターニー県警の警部補。私の古い友人です」
柏木はコーヒーを飲みながら聞いた。タイのコーヒーは甘かった。砂糖を入れすぎている。だが飲める。
「警察が支援者か」
「一部です。全部ではない。大部分の警察は動きません。だがプラチャーは動ける範囲で動いてくれています」
「なぜ動けない」
スッティンは少し間を置いた。
「犯罪組織は、地元の有力者と繋がっています。政治家。事業家。そういう人間が上にいる。警察が動こうとすると、上から圧力がかかる。プラチャーはそれを知っている」
「だからスッティン、お前がやる」
「私は警察じゃない。しがらみがない。だから動ける」
柏木は頷いた。
「もう一人います」
「誰だ」
「チャイロン・スリワットという人間。陸軍の少佐。第三軍管区の所属です。ウドンターニーに駐屯しています」
「軍も支援者か」
「プラチャーとチャイロンは学生時代からの知り合いです。二人とも、妹のことを知っています。救出された時、動いてくれたのはこの二人でした」
柏木はコーヒーを置いた。
「その二人が、俺の在留と銃の問題を処理してくれるということか」
「はい」
「非合法だと理解した上で」
「理解した上でです」
「二人に何かメリットはあるか」
スッティンは少し考えた。
「メリット、という言葉が正確かどうか分かりません。ただ、彼らは自分たちができないことを、私がやっていることを知っています。自分たちの代わりに誰かがやっている。それが彼らにとって何を意味するか」
「良心の問題だ」
「タイ語でいうとブンクンです。恩義。義理。少し違う言葉ですが、近い」
柏木は立ち上がった。
「会いに行こう」
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待ち合わせはウドンターニー市内の食堂だった。
昼前の時間。客が少ない。奥のテーブルに二人の男が座っていた。
一人は四十代前半。短く刈り上げた髪。私服だったが、背筋の伸び方が制服を着ている時のままだった。目が鋭い。警察の目だ、と柏木は思った。
もう一人は四十代後半。がっしりした体格。日焼けした首。軍人だと一目で分かる体の使い方をしていた。
二人が柏木を見た。
柏木も二人を見た。
ショルダーホルスターが剥き出しだった。ベストの下ではなく、外側にかけていた。ベレッタM92FSがそこにある。隠す気がなかった。
二人の視線がホルスターで一瞬止まった。
それから、警察の男、プラチャーが柏木に言った。タイ語だった。スッティンが訳した。
「日本から来た人間がそれを持っているのを見るのは初めてだ」
「問題があるか」
スッティンが訳した。プラチャーが答えた。
「問題にするために来たんじゃない」
柏木は椅子を引いて座った。
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食事をしながら話した。スッティンが通訳した。
チャイロン少佐が最初に話した。
「あなたの在留について。三十日のビザ免除で入国している。それが切れる前に、ノンイミグラントBビザに切り替える。私のコネクションで処理する。ビジネス目的のビザだ。書類上はスッティンのNGOのコンサルタントという位置付けになる」
「問題は出ないか」
「出ないようにする。それが私にできることだ」
「銃については」
プラチャーが引き取った。
「所持許可は出せない。正式な手続きでは外国人への発行は事実上不可能だ。だが」
プラチャーは少し間を置いた。
「私が知らないことにする。スッティンのNGOで何が起きているか、私は業務上把握する義務があるが、全てを把握しているわけではない。把握していないことを把握していないのは、職務怠慢ではない」
柏木はプラチャーを見た。
これが精一杯の支援だった。法の外に手を伸ばすのではなく、法の中で目を閉じる。警察官にできる最大限がそれだった。
「理解した」
「一つだけ条件がある」
「言ってくれ」
「使う時は必要最小限にしてくれ。死体が増えると、私でも処理できなくなる」
柏木は頷いた。
「分かった」
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食事が終わった後、チャイロンが柏木を外に連れ出した。
食堂の横の路地だった。二人きりになった。スッティンとプラチャーは中にいた。
チャイロンはタイ語で話した。それから、少し考えて、ぎこちない英語に切り替えた。
「あなたは軍にいた」
「はい」
「自衛隊の将校だったと聞きました。なぜ辞めた」
「訓練事故で左目を失った。片目の将校は必要とされなかった」
チャイロンは柏木の顔を見た。サングラスをかけているが、右目だけが動くことは、よく見れば分かる。
「それでここに来た」
「日本でやっていたことの延長線上にある」
「スッティンから聞きました。登録支援機関で三年間、ベトナム人を助けていたと」
「仕事だった」
「仕事だけではなかったとも聞きました」
柏木は答えなかった。
チャイロンはポケットから煙草を出した。火をつけた。柏木にも勧めた。柏木は自分のを出した。二人で路地に立って煙草を吸った。
「私はスッティンの活動を支持している。だが直接手を出せない」
「知っている」
「しがらみがある。上がある。組織がある。私が動けば組織が動く。組織が動けば、上が止める。上を動かすためには証拠が必要だ。証拠を集めるには時間がかかる。その間に、被害者は増える」
「だからスッティンが動く」
「あなたのような人間が来てくれると、スッティンは少し安全になる」
柏木は煙草を吸った。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「先月死んだスタッフのことだ。あの件はどうなった」
チャイロンは煙草の灰を落とした。
「捜査中だ」
「進んでいるか」
「……正直に言います。難しい」
「組織と有力者が繋がっているからか」
「はい」
柏木は頷いた。
「その有力者の名前は」
チャイロンは少し沈黙した。
それから言った。一つの名前だった。
「サーン・トーンカム。地元の実業家だ。タイ東北部で複数の事業を持っている。表の顔はまともだ。だが裏で組織を動かしている。確信はあるが、証拠がない」
「なるほど」
「知ってどうする気ですか」
「知っておく。それだけだ。今すぐどうこうする話ではない」
チャイロンは柏木を見た。
「日本人らしくない考え方だ」
「どういう意味だ」
「日本人は慎重だと思っていた」
「慎重と、やらない、は違う」
チャイロンは少し笑った。タイ人がよく見せる、目の周りから笑う笑い方だった。
「スッティンが言っていた通りの人間だ」
「何と言っていた」
「正義の人間だと。ただし、怒りを内側に持っている人間だ、と」
柏木は煙草の火を踏み消した。
「怒りかどうかは分からない」
「では何ですか」
柏木はチャイロンを見た。
「落ち着かない、という感覚だ。正しくないことが目の前にある時、それを見ていられない。座っていられない」
チャイロンはその言葉を少し考えた。
「タイ語で言うと、マイサバーイチャイに近い。心が安らかでない、という意味だ」
「そうかもしれない」
「いい言葉だ」
「落ち着かないことのどこがいい」
「あなたのような人間が動く理由になるからですよ」
チャイロンは路地から食堂に戻っていった。
柏木は一人、路地に残った。
ウドンターニーの昼の熱気が、路地の石畳から足元に上がってきた。
コートも、ジャケットもない。
ベストとシャツとネクタイ。ショルダーホルスターに、ベレッタがある。
心が安らかでない。
柏木はその言葉を頭の中で繰り返した。
悪くない表現だと思った。




