第21話 出迎え
ウドンターニー国際空港。
タラップを降りた瞬間、熱気が襲ってきた。
一月のタイ東北部。乾季。湿度は低いが、気温は三十度を超えている。日本の冬から来た体には、空気そのものが壁のように感じた。
「暑い」
ニコライが呟いた。
「言っただろう」
アレクセイが答えた。
「言った程度じゃ伝わらない暑さだ」
「慣れろ」
「お前は慣れたのか」
「三年かかった」
「長いな」
「ロシア人だからな」
柏木は二人の会話を聞き流しながら、ターミナルに向かって歩いた。
入国審査を通過し、荷物を受け取り、到着ロビーに出た。
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ゲートの向こうに、見覚えのある顔があった。
スッティンではない。
若い女だった。二十代前半。警察の制服を着ている。腰に拳銃。髪は短く切り揃えられている。目つきが鋭い。
ファリダー・チャンチャイ。
ウドンターニー警察の新人刑事。柏木がサーン・トンカムを捕まえた時、現場に来た女だ。
あの時は柏木のやり方に反発していた。単独行動。暴力。証拠の扱い。全部が彼女の正義に反していた。
その女が、今、到着ゲートの前で腕を組んで待ち構えている。
「……」
柏木の隣で、アレクセイが足を止めた。
「なぜあいつがいる」
声が低い。明らかに不機嫌だ。
「知り合いか」
柏木が聞いた。
「知り合いというか」
アレクセイは顔をしかめた。
「しつこい女だ」
「しつこい」
「サーンの件の後、シェルターに何度も来た。質問攻めだ。俺が対応させられた。毎回二時間。多い時は三時間」
「それで」
「だから日本に行くと言った時、俺も行くと言った」
柏木は少し間を置いた。
「逃げたのか」
「戦略的撤退だ」
「同じことだろう」
「違う」
ニコライが横から口を挟んだ。
「お前、女に追いかけられて逃げたのか」
「追いかけられてない。質問されただけだ」
「同じことだろう」
「違う」
ファリダーが近づいてきた。
アレクセイの顔がさらに険しくなった。
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ファリダーは柏木の前で立ち止まった。
「久しぶり」
「ああ」
それからアレクセイを見た。
「あ、アレクセイさん。日本に行ってたんですね。連絡なかったから心配しました」
「心配してない」
「してました。シェルターに行ったらいないって言われて」
「だから日本に行ってた」
「なんで教えてくれなかったんですか」
「教える義務がない」
「でも聞きたいことがまだあったのに」
「もうない」
「あります。サーンの組織の医療体制について——」
「ない」
アレクセイは柏木の後ろに回った。百八十五センチの大男が、柏木を盾にしている。
ファリダーは首を傾げた。
「なんで隠れるんですか」
「隠れてない」
「隠れてます」
「気のせいだ」
ニコライが小さく笑った。
ファリダーがニコライを見上げた。見上げないと目が合わない。身長差が三十センチ以上ある。
金髪。短く刈り込んでいる。肩幅が異常に広い。顎が角ばっていて、頬に古い傷跡がある。
ドルフ・ラングレンみたいだ、とファリダーは思った。
いや、本物のドルフ・ラングレンより怖い。映画俳優の目じゃない。
「あなた、誰ですか」
「ニコライ・ヴォロノフ」
「職業は」
「コンサルタント」
「何の」
「問題解決の」
「どんな問題を」
「物理的な問題を」
ファリダーは柏木を見た。
「この人も仲間?」
「そうだ」
「また増えてる。ゴツいのが」
「向こうから来る」
「類は友を呼ぶってやつ?」
「かもしれない」
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ファリダーは腕を組み直した。
「単刀直入に聞く。なんで戻ってきたの」
「用があるからだ」
「サーン・トンカム?」
柏木は答えなかった。答えないことが答えだった。
「やっぱり」
ファリダーは頷いた。
「調べたんだ。あなたのこと」
「どうやって」
「チャイロン少佐のファイル。あなたのビザを手配したのは少佐でしょう。ファイルに経歴が書いてあった」
「少佐のファイルを見たのか」
「許可を取った。正式に」
「少佐が許可したのか」
「渋々だけど」
柏木は少し考えた。チャイロン少佐がファリダーにファイルを見せた。つまり、少佐はファリダーをある程度信用している。そういうことか。
「それで、何が分かった」
「柏木勇気。三十八歳。元陸上自衛隊。階級は三等陸尉。十五年間の軍歴。訓練中の事故で左目の視力を喪失して除隊」
「……」
「除隊後、東京の登録支援機関に就職。特定技能外国人の支援業務。三年間勤務して退職。退職の一週間後にタイに入国」
「それだけか」
「退職理由は書いてなかった。何があったの」
「関係ない」
「関係あるかもしれない」
「ない」
ファリダーは少し黙った。それから別の質問をした。
「元自衛隊ってことは、戦闘訓練を受けてる」
「受けた」
「だからサーンの本拠地に一人で乗り込めた」
「そういうことだ」
「普通の元自衛官は、そんなことしない」
「普通じゃなかっただけだ」
「どう普通じゃなかったの」
柏木は答えなかった。
アレクセイが後ろから言った。
「ほら、始まった。これが続くんだ。延々と」
「質問してるだけです」
「質問が多すぎる」
「刑事だから当然です」
「刑事じゃなくても多い」
「そんなことないです」
「ある」
ニコライが口を挟んだ。
「この話、長くなるか」
「なる」
アレクセイが即答した。
「暑い。中で話さないか」
ファリダーは三人を見た。
「……いいわ。ついてきて」
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空港のカフェに入った。
四人でテーブルを囲んだ。ニコライは椅子が小さくて窮屈そうだった。
「で」
ファリダーがアイスコーヒーを啜りながら言った。
「サーン・トンカムが出てきたのは知ってる?」
「知っている」
「どこで」
「スッティンから聞いた」
「いつ」
「三日前」
ファリダーは頷いた。
「だから戻ってきた」
「そうだ」
「また一人で乗り込むつもり?」
「一人じゃない。今回は三人だ」
ファリダーはニコライを見た。ニコライはコーヒーを飲んでいた。カップが手の中で小さく見える。
「この人たちが増えても、やることは変わらないでしょ」
「変わる」
「どう」
「火力が増える」
ファリダーは額を押さえた。
「火力の問題じゃないの。手続きの問題」
「手続き」
「証拠の収集。逮捕状の請求。裁判で使える形での立件。あなたたちがやることは、全部それを台無しにする」
「サーンは金を積んで出てきた。裁判で勝っても意味がない」
「それでも手続きは必要」
「なぜだ」
「法治国家だから」
柏木は少し黙った。
「タイが法治国家かどうかは、議論の余地がある」
「あなたに言われたくない」
「俺は日本人だ」
「日本人がタイで好き勝手やっていい理由にはならない」
アレクセイが呟いた。
「ほら、また始まった」
「黙っててください」
「俺は何も言ってない」
「言った」
「独り言だ」
「聞こえました」
「聞こえたなら仕方ない」
ニコライが小さく笑った。
「仲がいいな」
「よくない」
二人が同時に答えた。
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しばらく沈黙があった。
ファリダーが先に口を開いた。
「提案がある」
「聞く」
「私も一緒に動く」
柏木の眉が上がった。
「お前が?」
「そう」
「上の許可は」
「ない」
「ないのか」
「上は動かない。圧力がかかってる」
「チャイロン少佐は」
「動けない。政治家が絡んでる」
「プラチャーは」
「刑事プラチャーは独自に動いてる。でも私には何も教えてくれない」
柏木は少し考えた。
「つまり、お前は独断で動こうとしている」
「そう」
「警察官がそれをやっていいのか」
「よくない。でもやる」
「なぜだ」
ファリダーは真っ直ぐ柏木を見た。
「悔しいから」
「悔しい」
「あの男を捕まえたのは私じゃない。あなただ。私は何もできなかった。現場に来た時には全部終わってた」
「……」
「今度は私も動く。見てるだけは嫌」
アレクセイが顔をしかめた。
「また質問攻めが始まるのか」
「始まりません」
「信用できない」
「信用してください」
「できない」
「なんでですか」
「お前はしつこい」
「しつこくないです」
「しつこい。シェルターに何回来た」
「……七回」
「七回だ。七回も来て、毎回三時間質問した」
「二時間の時もありました」
「五回は三時間だった」
「覚えてるんですか」
「忘れられない」
柏木が口を挟んだ。
「その話は後でいい」
二人が黙った。
柏木はファリダーを見た。
「足手まといになるぞ」
「ならない」
「根拠は」
「警察学校を首席で卒業した」
「首席で卒業しても、実戦経験がなければ意味がない」
「だから経験を積みたい」
「経験を積む場所が、犯罪組織の壊滅作戦でいいのか」
「いい」
「死ぬかもしれないぞ」
「死なない」
「根拠は」
「あなたたちがいるから」
柏木は少し黙った。
アレクセイが言った。
「俺は守らないぞ」
「守ってもらわなくていいです」
「本当か」
「本当です」
「撃たれたら治療はする」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。仕事だ」
ニコライが言った。
「俺は前に立つ。後ろにいれば弾は当たらない」
ファリダーはニコライを見上げた。
「あなた、本当に何者なの」
「コンサルタントだ」
「嘘でしょ」
「半分は本当だ」
「半分は」
「聞かない方がいい」
ファリダーは深くため息をついた。
この人たち、全員おかしい。
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柏木が立ち上がった。
「行くぞ」
「どこへ」
「スッティンのところだ」
ファリダーも立ち上がった。
「私も行く」
「好きにしろ」
「好きにする」
アレクセイが渋い顔で立ち上がった。
「また始まるのか」
「何がですか」
「質問攻めが」
「しません」
「信用できない」
「信用してください」
「できない」
「なんで——」
「その話はもういい」
柏木が遮った。
四人は空港を出た。
タイの陽射しが降り注いでいた。ニコライが目を細めた。
「本当に暑いな」
「だから言っただろう」
「言った程度じゃ——」
「その話ももういい」
柏木が遮った。
ファリダーは四人の後ろ姿を見ながら思った。
私、とんでもない連中と組もうとしてる。
でも、もう遅い。
足は前に出ていた。




