第20話 線の先
深夜一時。
川口のビジネスホテル。柏木はスマートフォンを握ったまま、窓際に立っていた。
タイは今、午後十一時。スッティンは起きているだろうか。
ベッドの端でアレクセイが義足を外している。ニコライは隣のベッドに横になっていたが、目は開いていた。眠る気配がない。
「迷ってるのか」
アレクセイが聞いた。
「いや」
迷ってはいない。ただ、どう切り出すか考えていた。
ホアンのスマートフォンから出てきたタイ語のメッセージ。日本語が話せる若者を集めろ。送り主の番号はウドンターニー周辺。
点と点が線になりかけている。その線がどこに繋がるか、確かめる必要があった。
柏木は画面をタップした。
*「起きてるか」*
送信。
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三分後、既読がついた。
返信が来る。
*「起きてる。どうした」*
電話に切り替えた。二回のコールで繋がる。
「柏木か」
スッティンの声。少し疲れているが、起きていた声だ。
「ああ。悪いな、夜中に」
「構わない。で、何かあったか」
単刀直入に聞く男だ。柏木は嫌いじゃなかった。
「一つ確認したい。ウドンターニー周辺で、日本語話者を集めている組織に心当たりはあるか」
電話の向こうで、何かが動く音がした。椅子を引いたのかもしれない。
しばらく沈黙があった。
「……ある」
スッティンの声が低くなっていた。
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「サーン・トンカムだ」
その名前を聞いた瞬間、柏木の眉が動いた。
サーン・トンカム。柏木が単独で本拠地に乗り込んで捕まえた男。プラチャーに引き渡して、警察が動いたはずの男。
「出てきたのか」
「三ヶ月前に保釈された」
「保釈」
「金を積んだ。タイの司法は動く」
知っている。プラチャーもチャイロンも、最初からそれを警告していた。
「出てきて、何をしている」
「国境だ。ラオスとの国境沿いに、新しい拠点を作っている。詐欺のコンパウンド。鉄条網で囲まれた施設で、外国向けの詐欺電話をかけさせている」
「日本向けか」
「そうだ。日本語が話せる人間を集めている。タイ人、ラオス人、ベトナム人、それから日本人も」
柏木は目を閉じた。
点が線になった。線がウドンターニーに戻っていた。
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「なぜ連絡しなかった」
柏木は聞いた。
電話の向こうで、スッティンが息を吐く音がした。
「……悪かった」
「悪かったじゃない。理由を聞いている」
「サーンが出てきた時、俺のところに人が来た。サーンの組織の人間だ」
「脅しか」
「ああ。お前の家族がどこにいるか知っている、と」
柏木は何も言わなかった。
スッティンには妻がいる。子供が二人いる。ウドンターニーに住んでいる。柏木はそれを知っていた。
「だから動けなかった。三ヶ月、何もできなかった」
「……」
「お前を呼んだのは、もう限界だからだ。一人じゃ無理だ」
柏木は窓の外を見た。川口の夜景。工場の明かりが点在している。
「家族は今どうしてる」
「チャイロン少佐の伝手で、安全な場所に移した。昨日だ」
「昨日か」
「だから今、電話に出られる」
なるほど、と柏木は思った。三ヶ月間、スッティンは動けなかった。家族を人質に取られていたから。昨日やっと家族を逃がして、今夜初めて話せるようになった。
タイミングが良かったのか悪かったのか。どちらにしても、状況は動いている。
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「戻る」
柏木は言った。
「いつだ」
「二、三日後になる。こっちの片付けがある」
「分かった。待っている」
「一つ確認する」
「何だ」
「プラチャーとチャイロンは動けるか」
スッティンは少し間を置いた。
「プラチャーは動ける。チャイロンは……分からない。上から圧力がかかっている」
「サーンの繋がりか」
「おそらく。政治家の名前が出ている」
厄介だな、と柏木は思った。だが予想の範囲内でもある。
「分かった。戻ったら話す」
「気をつけろ」
「お前もな」
電話を切った。
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部屋が静かになった。
アレクセイが立ち上がる。義足をつけ直している。
「聞こえた」
「ああ」
「サーン・トンカムか。お前が捕まえた男だな」
「そうだ。出てきた」
ニコライがベッドから起き上がった。
「誰だ、その男は」
「タイで俺が捕まえた人身売買の仲介者だ。警察に渡した。金を積んで出てきた」
「出てきて、また動いている」
「そうだ」
ニコライは少し考えた。それから言った。
「日本の若者を集めて、タイに送っている。その窓口がボドイだった」
「そういうことだ」
「お前はタイに戻るのか」
「戻る」
「一人でか」
柏木はニコライを見た。
「俺も行く」
アレクセイが言った。当然のように。
「分かっている」
「俺は」
ニコライが言いかけて、止まった。
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柏木はニコライを見た。
ニコライは窓の方を見ていた。川口の夜景が広がっている。
「日本にいる理由がなくなった」
「ボドイの件は片付いた」
「そうだ。だが」
ニコライは少し黙った。
「お前たちと動いて、久しぶりに意味のあることをした気がする」
アレクセイが口を開きかけた。ニコライが先に続けた。
「タイに行く。ビザは」
「チャイロン少佐に頼む。俺とアレクセイの時と同じだ」
「通るか」
「通る。少佐は融通が利く」
ニコライは柏木を見た。
「決めた」
柏木は頷いた。
アレクセイが横から口を挟んだ。
「タイは暑いぞ」
「知っている」
「義足が蒸れる」
「それはお前の問題だ」
「お前も足を失ったら分かる」
「失う気はない」
柏木は二人の会話を聞きながら、少しだけ口の端を上げた。
こいつらは変わらない。どこに行っても変わらない。
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翌日から、柏木は四人の様子を見て回った。
アン・ティン・ミンには労働基準監督署への申告手続きを進めた。弁護士を紹介して、書類を揃えた。
「柏木さん、また行くんですか」
アンが聞いた。
「ああ」
「また戻ってきますか」
「戻る」
アンは少し笑った。
「信じます」
「信じなくていい。事実だから」
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チャウは物品販売から完全に手を引いていた。ホアンたちが消えたことで、ルートが途絶えた。
「工場の仕事だけに戻ります」
チャウが言った。顔色が以前より良くなっている。
「そうか」
「柏木さん」
「何だ」
「ありがとうございます。それだけ言いたかった」
柏木は何も言わなかった。ただ頷いた。
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ズンには駅前で会った。
「在留資格の問題は消えた。佐藤が逮捕されたからな」
「はい」
ズンの顔が少しだけ緩んでいた。二年ぶりに見る表情だった。
「借金はまだ残っている」
「百二十万くらいです」
「時間はかかるが、正規のルートで返せる。焦るな」
「はい」
ズンは柏木の顔を見た。
「柏木、また行くんですか」
「ああ」
「タイですか」
「そうだ」
ズンは少し考えてから言った。
「向こうでも、同じことをするんですか」
「同じことって何だ」
「見ていられないから、助ける」
柏木は煙草を取り出した。火をつけた。
「そうだな」
「かっこいいですね」
「かっこよくない。ただの性分だ」
ズンは笑った。本当に笑った。
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ミンにも会った。
給与から引かれていた三万円の件は、労働基準監督署に申告する準備ができた。
「これ、取り戻せるんですか」
「取り戻せる。時間はかかるが」
ミンは柏木を見た。何か言おうとして、言えなかった。代わりに深く頭を下げた。
「ミン」
「はい」
「頭を上げろ」
ミンが顔を上げた。
「お前は何も悪くない。悪いのは制度と、それを利用した奴らだ」
ミンの目が赤くなった。泣かなかった。唇を噛んで、こらえた。
「柏木さん」
「何だ」
「俺も、いつか誰かを助けられるようになりたいです」
柏木は煙草を吸った。煙を吐いた。
「なれる」
「本当ですか」
「お前が決めることだ。俺が保証することじゃない」
ミンは頷いた。強く頷いた。
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三日目の朝。成田空港。
柏木とアレクセイとニコライ。三人で出発ロビーに立っていた。
チャイロン少佐がニコライのビザを手配してくれた。短期滞在、九十日。職業欄にはコンサルタントと書いてある。
「コンサルタント」
ニコライが搭乗券を見ながら言った。
「何をコンサルするんだ、俺は」
「暴力だ」
アレクセイが答えた。
「暴力のコンサルタントか」
「お前の得意分野だろう」
「違いない」
柏木は二人の会話を聞きながら、搭乗口の方を見た。
日本を離れる。四人を残して。
だが今回は違う。前回は追い出されるように出ていった。今回は戻るために出ていく。
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搭乗が始まった。
三人は列に並んだ。
柏木の隣にいた女性が、サングラスをかけた柏木を見て、少し体を離した。
いつものことだ。
「お前、その格好は何とかならないのか」
アレクセイが言った。
「何がだ」
「サングラスにオールバック。紅色のベスト。ショルダーホルスター」
「ホルスターは空だ。銃は持ち込めない」
「見た目の問題だ。ヤクザにしか見えない」
「よく言われる」
「直す気はないのか」
「ない」
ニコライが横から口を挟んだ。
「俺は好きだぞ、その格好」
「お前の美的感覚は信用できない」
「なぜだ」
「ロシア人だからだ」
「差別だな」
「事実だ」
列が進んだ。
タイへの扉が、また開いていた。




