第19話 闇
朝の九時、川口のホテルの部屋でアレクセイが柏木の右肩を診た。
シャツを脱がせて触る。灰皿が当たったところは青く腫れていた。
「骨は折れていない」
「分かってる」
「打撲だ。動かすな、とは言わない。どうせ動かすから」
「正しい判断だ」
アレクセイはテープを巻いた。柏木はシャツを着た。
ニコライがベッドに座って缶コーヒーを飲んでいた。昨夜から一度も眠っていない顔だったが、目は冴えていた。
「あの男はどうなる」
「佐藤か」
「そうだ」
「逮捕される。裁判になる。時間はかかる」
「どのくらい」
「日本の司法は遅い。一年以上かかることもある」
ニコライは缶コーヒーを一口飲んだ。
「その間、ボドイたちはどうする」
「そこだ」
柏木はノートを開いた。
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ホアンのスマートフォンが気になっていた。
昨夜、倉庫でホアンを制圧した時、床に落ちたスマートフォンをニコライが拾っていた。ホアンに返さずにいた。
「持ってるか」
ニコライがポケットから出した。
画面ロックがかかっている。柏木はそれを見た。
「開けられるか」
「試してみる」
ニコライがスマートフォンを受け取った。しばらくいじっていた。五分ほどで画面が開いた。
「どうやった」
「顔認証だ。昨夜、ホアンが気を失っている間にやっておいた」
柏木はニコライを見た。
「抜け目がない」
「当然だ」
スマートフォンの中身を確認した。メッセージアプリが複数入っている。ベトナム語のものと、別の言語のものがあった。
別の言語のメッセージを開いた。
アレクセイが覗き込んで言った。
「タイ語だ」
「読めるか」
「少しだけ。三年いたから」
アレクセイがメッセージを読んだ。黙って読んでいた。それから顔を上げた。
「金の話だ。送る先の話。それから、人を集めろという内容がある」
「どんな人間を」
「日本語が話せる若者、とある」
柏木はアレクセイを見た。
「日本語が話せる若者」
「そう書いてある」
「タイ語で」
「そうだ」
部屋が静かになった。外で車の音がした。川口の朝の音だった。
柏木はノートに書いた。
*タイ語を話す人間がボドイに日本語話者の若者を集めさせている。*
第十七章でズンが言っていた言葉が戻ってきた。ホアンのスマートフォンに連絡してくる人間がタイ語かラオス語を話していた、と。
線が繋がり始めていた。
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ニコライが言った。
「日本語が話せる若者を集めて、どこへ送る」
「タイかラオスだ」
柏木は言った。断言だった。
「なぜ分かる」
「ウドンターニーでやっていたことと同じ構造だ。国境地帯に特殊詐欺の拠点がある。そこには日本語が話せる人間が必要だ。日本人に電話をかけて騙すために」
ニコライは少し考えた。
「つまり闇バイトか」
「そうだ。高額の報酬で日本の若者を釣る。タイかラオスに連れていく。逃げられない場所で働かせる」
「ボドイがその窓口になっていたのか」
「おそらく。在日ベトナム人のコミュニティは広い。日本の若者と接点がある。仲介役として使いやすい」
アレクセイが言った。
「タイ語の送り主は誰だ」
「分からない。だが調べられる」
柏木はスマートフォンを手に取った。タイ語のメッセージの送り主のアカウントを確認した。名前はない。番号だけだ。
「ニコライ、このタイ語の番号を辿れるか」
「難しい。だがコミュニティに当たってみる」
「頼む」
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昼前に、ズンから連絡が来た。
*「工場の山本さんから連絡がありました。佐藤さんが逮捕されたと。在留資格の件は問題ないと言われました」*
柏木は返信した。
*「そうか」*
*「本当にありがとうございました」*
*「気にするな。一つ聞く。ホアンのことはどうなった」*
*「今朝から工場に来ていません。他のベトナム人も何人かいなくなっています」*
*「逃げたか」
*「そう思います」*
柏木はノートに書いた。
ホアンたちが消えた。タイ語の送り主への連絡が行った可能性がある。向こうはこちらの動きを知った。
時間が限られている。
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午後、三人で動いた。
アン・ティン・ミンとチャウに会った。それぞれ別の場所で、一人ずつ。状況を確認して、必要な支援を伝えた。
ミンには柏木が一人で会いに行った。
ミンはシェアハウスの共用スペースで待っていた。柏木を見て立ち上がった。何か言おうとして、言えなかった。
「座れ」
二人で座った。
「俺に連絡しなかった理由は分かる」
「……迷惑をかけたくなかったです」
「迷惑だと思ったことはない」
ミンは目を伏せた。
「給与から毎月三万円引かれている件、契約書を見せてくれ」
ミンが取り出した。柏木は読んだ。
「これは無効だ。労働基準法に違反している」
「でも会社が」
「会社は間違っている。俺が対応する」
「どうやって」
「労働基準監督署に申告する。時間はかかるが取り戻せる」
ミンは柏木を見た。
「柏木さんは、なんで俺たちのためにそこまで」
「ズンにも同じことを聞かれた」
「なんと答えましたか」
「見ていられないからだと言った」
ミンは少し黙った。
「それだけですか」
「それだけだ」
ミンの目が赤くなった。泣かなかった。唇を噛んで、こらえた。
柏木はそれを見ていた。見ていないようで、見ていた。
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夜、ホテルに戻るとニコライが待っていた。
「タイ語の番号を調べた」
「分かったか」
「コミュニティに当たった。その番号はウドンターニー周辺で使われている番号だという話が出た」
柏木は止まった。
「ウドンターニーか」
「そうだ。詳しくは分からない。だがその番号に絡んだトラブルが過去に何件かあったらしい。人が消えた話もある」
アレクセイが言った。
「スッティンに確認するか」
柏木はしばらく黙っていた。
窓の外に川口の夜景が広がっている。工場の明かり。高速道路の橋。
ここで起きていることと、ウドンターニーで起きていることは、同じ根から生えている。
「スッティンに連絡する」
「ほとぼりが冷めたと思うか」
「冷めてなくてもいい。情報だけ取る」
ノートを開いた。
日本の闇バイト。タイ語の仲介者。ウドンターニー周辺の番号。国境地帯の詐欺拠点。
点が線になっていた。
線はウドンターニーに戻っていた。




