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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第1話 退職


 朝の七時半、柏木勇気は東京のビルの前で足を止めた。七階建ての建物で、入口の脇には「株式会社グローバルキャリア」「登録支援機関」と書かれたプレートが嵌め込まれている。

 三年間、毎朝この場所に通った。陸上自衛隊を除隊してここに流れ着いたのは三十五歳の時で、三等陸尉として十五年務めた軍歴は訓練中の事故で左目の視力を失ったことで終わった。片目の指揮官を自衛隊は必要としなかった。除隊時に受け取った退職金はもうない。障害年金も同様だ。三年で全部消えた。自分のためではなく、他人の借金の返済に注ぎ込んだのだ。

 エレベーターで七階に上がり、ガラスのドアを押すと、受付の女性が顔を上げた。柏木と目が合った瞬間、彼女の視線が逸れる。右目だけが動く柏木の顔を、まともに見られる人間は少ない。左目は光を映さず、動かない。その不均衡が人を怯えさせるのだが、柏木自身はもう慣れていた。

 自分の席に着いてパソコンの電源を入れると、机の上には昨日の案件が積んである。十社の受け入れ企業に雇用されている特定技能労働者は三百人以上。相談対応、支援計画の実施記録、事前ガイダンスの記録、生活オリエンテーション、四半期ごとの出入国在留管理庁への報告書。それが柏木の仕事だ。

 三百人を一人で回している。他の職員なら百人で手一杯になるところを、柏木は三百人を回して残業をしない。八時間の中で全てを終わらせる。自衛隊で十五年間、限られた人員と時間で最大の結果を出す訓練を受けてきたからだ。小隊長として部下を動かし、状況を判断し、優先順位を決め、実行する。その能力が事務処理にそのまま転用されている。

 だが経営陣はそれを知らない。数字しか見ていないからだ。残業が少ない、つまりサボっている。同僚もそれを報告しない。柏木の仕事量が可視化されれば、自分たちにも同じ水準を求められるからだ。

 午前八時半を過ぎた頃、他の職員たちが出勤してきた。誰も柏木に声をかけず、挨拶すらない。柏木の横を通り過ぎる時、少しだけ歩調が速くなる。

 午前九時、メールを開くと矢崎部長から一行だけ届いていた。「午後三時。部長室に来てくれ」

 柏木は画面を見つめ、静かに息を吐いた。分かっていた。空気を読む能力は自衛隊が叩き込んだものだ。この三ヶ月、ベトナム人コミュニティのSNSで何が書かれていたか。「あの支援機関は厳しい」「担当者が怖い」「プライドを傷つけられた」。ベトナム人は儒教圏の人間で、公の場で非を指摘されることを最も嫌う。柏木の口調は軍人のそれだ。敬語だが命令調。「今すぐ辞めろ」と言う。明日からじゃない、今すぐだ。不法就労で逮捕されれば在留資格の取り消し、強制帰国、パスポートに記録が残る。母国に戻っても「日本で問題を起こした人間」というレッテルが消えない。就職は困難になり、返せない借金だけが残る。途上国では、返済できない借金は暴力で回収される。

 柏木はそれを知っているから「今すぐ辞めろ」と言った。だがそれは彼らには「脅し」に見えた。

 その評判がSNSで広がり、応募者が激減した。中小企業のクライアントは「もっと目をつぶってくれる支援機関」に乗り換える。大企業は柏木に感謝していた。不法就労幇助罪から守ってもらえるからだ。だが大企業の数は少なく、中小企業は圧倒的に多い。ビジネスの論理では、中小企業を失う方が致命的だった。

 報告件数が多い。それが柏木の「罪」だ。よく仕事をしている証拠が、「問題が多い組織」という評判に変わる。正しいことをした人間が排除され、何もしなかった人間が生き残る。柏木はその構造を三年間見てきた。

 午後二時五十分、柏木はデスクの引き出しからベージュのフォルダを取り出した。退職願だ。何日も前から書いてあり、誰にも言わず一人で準備していた。

 立ち上がって廊下を歩くと、靴音が響く。午後三時、部長室のドアをノックして入った。

 矢崎部長は五十代半ばで、背広が窮屈そうな体格をしてデスクの向こうに座っている。隣には山本課長、営業担当だ。部屋の隅に太田、総務。太田が同席するということは、つまりそういうことだった。

 矢崎が眼鏡を外した。「柏木さん、座ってくれ。今後のことで話がある」

 「はい」と柏木は言い、それからテーブルの上にベージュのフォルダを置いた。「退職願です」

 部屋が凍りついた。矢崎がフォルダを見る。山本がフォルダを見る。太田がフォルダを見る。誰も何も言えなかった。

 「私は辞めさせていただきます」と柏木は続けた。声は平静で、感情を乗せないようにしているのではなく感情がなかった。三年間考え続けてきたことだ。今さら迷いはない。

 「来日するのに、ベトナム人は平均百万円以上の借金を背負わされています。送出し機関に、仲介者に。毎月の給与二十五万円から、送出し機関への返済が三万円、家賃が五万円、本国への仕送りが五万円、生活費が七、八万円。手元に残るのは四、五万です。だが百万以上の借金は利子がつく。返しても返しても元本が減らない」

 矢崎が口を開きかけたが、柏木は止まらなかった。

 「だから不法就労と言う選択肢を選ばざるを得ません。白タク、風俗業、詐欺。これは彼らの『選択』ではなく、制度が『強制している』のです。この構造を私は人身売買と呼びます。グローバルキャリアはこの人身売買の最前線に位置しています。名目は『人材紹介』ですが、実質は『搾取構造の仲介』です」

 部屋の温度が下がっていくようだった。矢崎は何も言わない。山本が目を逸らした。太田はメモを取るふりをしている。

 「私は奴隷商人じゃない」

 柏木はそれだけ言って立ち上がり、フォルダをテーブルの上に残してドアを開け、廊下に出た。誰も追いかけてこなかった。

 自分の席に戻って荷物をまとめた。私物は少ない。ロッカーから黒いバッグを出して必要なものだけ入れたが、誰も声をかけなかった。エレベーターで一階に降り、ガラスのドアを押して外に出ると、一月の空気が肺に入った。冷たい。

 帰宅すると、六畳のアパートが待っていた。家賃三万円。本棚に実務書が並び、灰皿には煙草の吸殻がある。シャワーを浴びてもやしを茹で、塩を振ってそれだけ食った。

 口座の残高を確認すると四万二千円で、消費者金融の残債が三十八万円ある。煙草に火をつけ、窓を五センチだけ開けた。冬の夜風が入ってくる。

 スマートフォンを取って四人のベトナム人労働者への送金記録を見た。アン・ティン・ミン、ズン、チャウ、ミン。三年間で何十回と振り込んできた。今月分はまだだ。振り込むと口座残高が減ったが、それでも煙草を吸い続けた。

 深夜二時、スマートフォンが鳴った。メッセンジャーで、ナリン・チャットウィットからだ。二年間担当したタイ人の特定技能労働者である。

 メッセージが連続で届いた。

 「柏木さん、助けてください」

 「ボドイが来ました」

 「また来ました怖いです」

 柏木はスマートフォンを持ったまま立ち上がり、白いロングコートを手に取った。

 退職して四日が過ぎていた。

 柏木勇気はカーペットの上に座って窓の外を見ていた。六畳、家賃三万円。壁には何も貼っておらず、本棚には実務書が数冊と自衛隊の教本、入管法、労働基準法、外国人雇用管理のガイドラインが並んでいる。読まなくても頭に入っているし、もう必要のない本だ。

 煙草に火をつけて窓を五センチ開けると、冬の夜風が入ってくる。スマートフォンが机の上にあるが通知はない。仕事のメールは届かない。当然だ、もう職員ではない。

 蛍光灯が薄く部屋を照らしている。夕食はもやしの炒め物で、一袋三十八円を醤油と塩だけで炒めた。タンパク質が足りないが、今日は卵も買わなかった。体が動くうちはこれで十分だ。煙草の煙が細く漂い、窓の隙間から消えていく。

 柏木は何かを考えているわけではなかった。考えることがない。三年間、毎日考え続けた。三百人の案件、支援計画の優先順位、誰が今月危ういか、誰が嘘をついているか、どこの企業が次に問題を起こすか。それが全部、四日前に終わった。空白だ。

 メッセンジャーの通知が来たのは午後八時を過ぎた頃だった。最初の一通は短い。

 「柏木さん、いますか」

 送り主の名前を見た瞬間、柏木は煙草を灰皿に押しつけた。ナリン・チャットウィット。二十八歳、タイ国籍、ウドンターニー出身、特定技能一号、食品製造業。二年間、柏木が担当してきた労働者だ。

 返信しようとした時、次の通知が来た。

 「来てます」

 一秒後。

 「また来てます」

 さらに一秒後。

 「怖いです」

 柏木は立ち上がった。

 メッセージを遡って読んだ。最初の送信は午後七時四十分で、三十分近く気づかなかった。

 「柏木さん、今夜ちょっと怖いことがあって」

 「前に来た人たち、また来た気がします」

 「玄関の外に人いる音します」

 「柏木さんて今どこにいますか」

 「ごめんなさい、迷惑ですよね」

 「でも他に誰に言えばいいか分からなくて」

 「ノック来ました」

 「返事してない」

 「静かになった」

 「消えたかも、大丈夫かもしれない、ごめんなさい」

 ここで五分の間が空き、その後に「柏木さん、いますか」と続いている。

 柏木はメッセージ履歴を全部読んだ。一度読めば十分だ。ナリンの住所は覚えている。二年間、支援計画の書類に書き続けた住所だから忘れるほうが難しい。JR某駅から徒歩十二分、築三十年の木造アパート、二階の端の部屋。

 返信を打った。「マナーモードにして。今から行く」

 クローゼットを開けて取り出したのは黒のスーツだ。特別なものではないが安物でもない。仕立てのいいシンプルな一着で、グローバルキャリアに勤めていた三年間、大企業の担当者と会う時だけ袖を通した。普段は安いスラックスとシャツで十分だったが、今夜は着る。理由は説明できない。ただ着た。

 紅色のベストを合わせ、シルバーのネクタイを締め、革靴を履いて鏡を見た。右目だけが動く。左目は光を映さず、動かない。白いロングコートを羽織り、革手袋を嵌めた。冬だ。最後にサングラスをかけ、ポケットにスマートフォンと財布と鍵を入れた。武器になるものは探さなかった。この格好が既に十分だ。

 夜道を歩いていると、コンビニの前を通り過ぎた時に中にいた若い男が窓越しに柏木を見て一瞬固まり、視線を逸らした。よくあることだ。

 冬の夜、白いロングコートの人間が歩いている。オールバックでサングラスをかけ、黒のスーツに紅色のベスト、シルバーのネクタイ。会社の重役か、あるいは。柏木の場合は「あるいは」にしか見えないらしく、自分では分からなかったが三年間、初対面の人間の反応がそれを教えてくれた。入管の職員は一度「組の方ですか」と聞いてきた。大企業の人事担当者は面談のたびに少し背筋が伸びた。受入れ企業の中小の社長は「柏木さんが来てくれるなら安心だ」と言った。その「安心」が何に由来するものか、柏木は問い返さなかった。

 十一分でアパートに着いた。

 建物の手前で立ち止まると、外灯の届かない場所に人の影が二つあり、煙草の火が一つ見えた。ベトナム語が低く聞こえる。何を言っているかは分からないが、声のトーンは分かる。待っている声だ。急いでいない、焦っていない、時間があると思っている連中の声だ。

 一人が気づいて「あ?」と言った。

 柏木は外灯の光の中に歩いていった。白いコートが光を受け、サングラスが光を受ける。二人が固まった。

 片方は二十代半ばで痩せた体に厚手のパーカーを着ている。もう一人は顎に傷がある男で、前回来たのと同じ二人だ。前回柏木に腕を折られた顎傷の男は、今夜は左腕を少し引き気味にしている。完全には治っていないか、あるいは条件反射か。

 柏木は立ち止まって二人を見た。「久しぶりだな」

 長い沈黙が落ちた。夜の住宅街で、遠くでトラックが通る音がする。パーカーの男が唾を飲み、顎傷の男は何か言いかけて口を閉じた。

 こういう時、人間は二つに分かれる。逃げるか、虚勢を張るか。

 「……お前、仕事辞めたんだろ」とパーカーが言った。声が少し上ずっている。「コミュニティで話になってたぞ。入管とのパイプが切れたって。もう怖くないって」

 柏木は答えなかった。

 「関係ないだろ、もう。彼女はうちの客だ。口出しするな」

 「客」と柏木は静かに繰り返した。「そう呼ぶのか」

 「仕事だ。彼女も稼げる。悪い話じゃない」

 「嫌だと言っているのに来るのが仕事か」

 「最初は嫌でも、分かってくれるようになる」

 柏木はコートのボタンを一つ外した。それだけだが、二人の体が同時に半歩引いた。反射だ。考えてそうしたのではない。体が覚えている。前回この男がどう動いたか、どれだけ速かったか、言い訳や交渉が通じなかったか。記憶は言葉よりも正直だ。

 「一度言う」と柏木は言った。「帰れ。今夜は帰れ。それだけだ」

 「脅すのか」

 「説明している」

 「お前に何ができる。警察に行くか?俺たちは何もしてない。ドアをノックしただけだ」

 「今夜は、そうだな」

 柏木はゆっくりと顎傷の男の方を見た。「腕の具合はどうだ」

 顎傷が黙った。

 「次に来たら、もう片方も同じことになる。それだけだ」

 脅しではない。予告だ。感情もなく、体温もない。ただこれから起きることを事前に伝えている、そういう声だ。

 パーカーが顎傷を見て、顎傷はパーカーを見た。何かを確認しあう目だ。そして二人は駐輪場の奥に歩いていき、角を曲がって消えた。走らなかった。それが彼らの唯一の矜持かもしれない。柏木はそれを見送った。

 二階に上がってドアを三回、短くノックした。「ナリンさん、柏木です」

 しばらく無音だったが、やがて鍵が二つ外れる音がして、ドアチェーンが外れる音がして、ドアが開いた。

 ナリン・チャットウィットが立っていた。小柄で、身長は百五十センチ少し。タイ北部の顔立ちで、黒い髪を後ろで一つにまとめている。作業着の上にパーカーを羽織っていて、食品製造の仕事帰りのままずっと部屋にいたのだろう。目が赤い。

 柏木を見た。白いコート、オールバック、サングラス。

 「……柏木さん、それ」

 「なんですか」

 「その格好、知ってる人が見たら全員ヤクザだと思います」

 「よく言われます」

 「来てくれた」

 「はい」

 「もういない?あの人たち」

 「今夜は帰った」

 ナリンは目を閉じて、長くゆっくり息を吐いた。

 「入っていいですか。話があります」

 ナリンは頷いてドアを開けた。

 部屋は六畳で、ウドンターニーから持ってきたらしい小さな仏像が棚の上にある。菊の造花が飾ってあり、スーパーの袋が一つ玄関脇に置いてあった。帰り道で声をかけられたのかもしれない。

 柏木はコートを脱いでハンガーにかけ、革手袋を外し、サングラスも外した。右目だけが動く顔が現れたが、ナリンはそれを見慣れている。二年間の付き合いだ。

 「あいつらのことを話してください」

 「最初に来たのは半年前です」とナリンは言った。「職場の別のベトナム人の子に声かけてて、その流れで私にも。最初は軽い話でした。簡単なお手伝いで月に五万稼げるって。断ったら次の日また来た。断り続けたら先月から態度が変わった」

 「変わったというのは」

 「ドアを叩いて、名前を呼ぶ。夜だけじゃなくて朝にも来るようになった。職場の前で待ってたこともある」

 「上司には」

 「言えない。言ったら会社に迷惑かけると思って」

 柏木は少し間を置いた。

 「柏木さんが担当者の間は来なかった。コミュニティで名前が知れてたから」

 「知れていたか」

 「怖い担当者がいるって。入管に繋がってて、問題起こしたらすぐ動くって。あいつら、入管が一番怖いので」

 「だから俺が辞めたのが分かった時点で来た」

 「たぶんそうです」

 柏木は頷いた。

 しばらくしてナリンが聞いた。「あの人たち、また来ますか」

 「来るかもしれない。来ないかもしれない」

 「怖い」

 「正直に言います」と柏木は言った。「今夜は帰った。だが俺が来なければ続けるつもりだったはずだ。次に来た時、俺がいなければ同じことになる」

 「じゃあどうすれば」

 「職場の上司に報告してください。今日のことを全部」

 「でも、迷惑」

 「あなたが黙っていると、会社は問題が起きていることを知らないままになります。それの方が困る。俺はもう担当者じゃないが、グローバルキャリアの行政書士部門には連絡できます。あなたの新しい担当者を通して、受入れ企業側にも動いてもらえるはずだ」

 ナリンは下を向いた。「柏木さん、もう関係ないのに」

 「パイプが切れたかどうかと、動くかどうかは別の話です」

 ナリンはしばらく黙り、それから仏像の方を見た。ウドンターニーから持ってきた仏像で、手のひらに収まる小さなもの、釉薬の剥げた古いものだ。

 「なんで柏木さん、そんなことするんですか」

 柏木は答えなかった。

 「仕事じゃない。お金ももらってない。関係者でもない。なのになんで来たんですか、今夜」

 「あなたが連絡してきたから」

 「それだけですか」

 「それで十分じゃないですか」

 ナリンは柏木を見た。右目だけが動く。左目は動かない。その不均衡な顔は、慣れると別に怖くない。むしろ正直な顔だとナリンは思う。人は普通、両目で色んなことを隠す。この人の目は一つしか動かないから、隠せる量が少ない。

 「タイでは、こういうことをしてくれる人を、バーミーブンという言い方があります」

 「どういう意味ですか」

 「徳のある人、みたいな意味です」

 「褒めすぎだ」

 「褒めてます」

 柏木は少しだけ視線を外した。褒められ慣れていないことが、その動作に出た。

 「コンビニに行きます。何か食べましたか」

 「あんまり」

 「何が欲しいですか」

 「柏木さんが決めてください」

 柏木は立ち上がった。

 「その格好でコンビニ行くんですか」

 「ダメですか」

 「ダメじゃないですけど、店員さんがびっくりします」

 「慣れています」

 豚まんと温かいお茶を持って戻ると、ナリンは豚まんを両手で持って少し顔をほぐした。食べながら今夜のことを少しずつ話した。最初にドアの音を聞いた時、足が震えて動けなかったこと。柏木に送信し始めてから少し落ち着いたこと。返信が来た瞬間、本当に良かったと思ったこと。

 柏木は聞いた。聞くのが上手い人間ではなく、相槌も少ないし顔もあまり動かない。だがナリンは話した。柏木の沈黙は否定ではないことを、二年間で知っている。

 ひと通り話し終えてからナリンが聞いた。「柏木さんは、これからどうするんですか。次の仕事、決まってますか」

 「決まっていません」

 「え、四日でまだ何も?」

 「はい」

 「もやしばっかり食べてるんじゃないですか」

 柏木は答えなかった。

 ナリンは一瞬間を置いて声を出して笑った。この状況で笑える人間だ。恐怖が笑いで少しほどけていく、そういう笑い方だ。

 「笑っている場合じゃないですね、私も」

 「いや、笑えるなら笑った方がいい」

 ナリンはまた少し笑った。

 帰り際、コートを羽織り、手袋を嵌め、サングラスをかけた。ナリンはドアのところで見送った。

 「また何かあったら連絡してください」

 「はい。あの、本当に」

 「ちゃんと上司に報告する。それだけ約束してください」

 「……します」

 「それで十分です」

 ナリンは深々と頭を下げた。タイ式ではなく日本式の礼で、二年間で覚えたものだ。柏木は軽く頷いて階段を降りた。

 夜道を歩き、駅のロータリーを横切った。タクシーが一台、客を待って停まっている。運転手が窓から柏木を見て、慌てて視線を逸らした。いつものことだ。

 コートの合わせから煙草を取り出して火をつけると、煙が白く上がって冬の夜に溶けていく。

 今夜のことを整理した。ボドイの連中は今夜は引いたが、消えたわけじゃない。俺がいない時間がある限りまた来る。ナリンが上司に報告すれば会社が動く可能性がある。行政書士部門に話を通せば受入れ企業を通じた牽制ができる。完全には解決しない。だが今夜よりは少しマシになる。それで十分だ。今夜できることは今夜した。

 煙草が半分になった頃、スマートフォンが振動した。ナリンからだ。

 「今夜ありがとうございました。ご飯も。安心して眠れます」

 柏木はそれを読んだ。返信はしなかった。必要がない。ポケットにしまって、また歩いた。

 自分のアパートに着いて電気をつけた。六畳、蛍光灯、もやしの残り、灰皿の中の吸殻。コートをハンガーにかけ、スーツのジャケットを脱ぎ、紅色のベストも外し、ネクタイも外し、シャツ一枚になった。

 風呂に入り、出てきてタオルを頭に引っ掛けたまま机の前に座った。煙草に火をつけ、スマートフォンを手に取って何気なく通知を確認した。

 メッセンジャーに普段使わないアプリからの通知がある。フォロワーもいない、存在を半分忘れていたようなアカウントだ。誰かがメッセージを送ってきていた。タイ語だ。翻訳アプリを開いた。

 「突然のご連絡をお許しください。私はナリン・チャットウィットの故郷の知人です。あなたのことは彼女から聞きました。二年間、彼女を守ってくれた人のことを」

 「あなたは今、仕事を辞めたと聞きました。日本に居場所がなくなったとも」

 「一つ提案があります」

 「タイに来てください」

 「あなたがやってきたことは、ここでも必要とされています。いや、日本よりずっと深刻な場所で必要とされています」

 「あなたの戦いが、報われる場所があります」

 送信者のアカウントを確認した。タイ語と英語が混在した名前。Sutthiphon Paiboon。ウドンターニー在住。プロフィールには小さなNGOのロゴ。

 柏木はしばらく画面を見つめた。タオルがまだ頭に乗っていて、煙草の火が短くなっていた。

 「あなたの戦いが報われる場所」。

 柏木はその言葉をもう一度読んだ。報われるという言葉を、柏木は長い間考えたことがなかった。正しいことをする、それで十分だ。報われるかどうかは別の話だと思っていた。

 だが今夜、ナリンが言った言葉を思い出した。バーミーブン。徳のある人。タイにはそういう言葉があるのか。

 柏木は煙草を灰皿に押しつけた。画面を消した。すぐに返信はしなかった。

 だが眠れなかった。窓の外で冬の夜が続いていた。


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