第一話 空家の音
依頼が持ち込まれたのは、午後のことだった。
「……空き家、ですか」
雲峰雲母は、机の上に置かれた一枚の資料へ目を落とした。
「はい。長年使われていない家だそうです」
向かいに座る足立が、資料をめくる。
「持ち主の方は遠方に住んでいて、普段は誰も出入りしていない。ところが近所の方から、『夜になると家の中から物音がする』と連絡があったそうです」
「誰かが入り込んでいる可能性はありませんの?」
「家主さんも、それを疑って確認したそうです」
「昼間に?」
「はい。玄関や窓に壊された形跡はなく、室内も荒らされていなかった。家具も、昔のまま残っていたそうです」
雲母は資料へ目を落とした。
「警察には?」
「相談済みです。ただ、事件性が確認できない以上、毎晩その時間に見張ってもらうわけにもいかない、と」
「まあ、そうでしょうね」
雲母は納得したように頷いた。
「音がするのは、何時頃ですの?」
「だいたい深夜だそうです。家主さんは遠方に住んでいますから、毎晩確かめに来ることもできない。それで、こういった調査をしている人間を紹介されたらしくて」
「それが、わたくしたちだったと」
「そういうことです」
「ちなみに、どのような音だと?」
「それが少し妙なんです。家主さんも近所の方も、『何かを叩くような音』としか……。それに、毎回同じ場所から聞こえるわけでもないそうで」
「古い家なら、建物そのものが鳴っている可能性もありますわね」
「ですよね。だったら、僕らが行く必要あります?」
「確認しなければ分かりませんわ」
「まあ、そうなんですけど……」
雲母は資料を閉じ、席を立った。
「では、参りましょう」
「……今夜ですか?」
「今夜ですわ」
「ですよねぇ……」
足立が小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇ ◇
家は町外れにあった。
庭には雑草が伸び、門には赤茶色の錆が浮いている。
明かりのない家は、夜の闇を背負って、昼間よりもずっと大きく見えた。
「……雲母お嬢様?」
「何ですの?」
「こういう家って、夜に見ると余計に怖くないですか?」
「そうですか?」
「そうですよ」
「わたくしは、特に何とも思いませんけれど」
「でしょうね……」
玄関の前まで来ると、雲母は預かっていた鍵を足立へ差し出した。
「足立さん、お願いしますわ」
「えっ、僕が開けるんですか?」
「殿方でしょう?」
「こういうときだけ、それを持ち出します?」
「早くなさいな。外で立っているほうが、かえって目立ちますわよ」
足立は鍵を受け取ったものの、すぐには鍵穴へ差し込まなかった。
「……開けた瞬間、中から何か出てきたりしませんよね?」
「そのときは、よろしくお願いいたしますわ」
「僕を先に立たせる理由、それですよね?」
足立はしばらく扉を睨んだあと、諦めたように鍵を差し込んだ。
錠の外れる音が、静まり返った夜にやけに大きく響く。
「開きましたよ」
「では、入りましょう」
「僕が先ですか?」
「開けた方から入るのが自然ではなくて?」
「絶対、わざとだ……」
足立は恐る恐る扉を押し開けた。
玄関の奥には、光の届かない廊下が口を開けている。
足立が壁を探り、照明のスイッチを押した。
古びた明かりが、二度、三度と明滅してから灯る。
「うわっ……」
「明かりがついただけですわ」
「分かってますよ」
雲母も足立に続いて家へ入った。
古い家特有の、湿った空気が漂っていた。
「足立さん」
「はい」
「まずは一階を確認しましょう」
「了解です」
二人は手分けして部屋を見て回った。
荒らされた形跡はない。
窓はすべて閉まり、鍵もかかっている。
埃の積もった床に残されている比較的新しい足跡も、家主が確認に訪れた際のものと思われる一人分だけだった。
「……本当に、誰も入っていないみたいですね」
「ええ」
雲母はしゃがみ込み、床に残る足跡を確かめた。
「少なくとも、家主の方が確認したあとで、誰かが侵入した形跡はありませんわ」
「じゃあ、やっぱり建物の音かな」
「まだ分かりませんわ」
「ですよね」
時計を見る。
依頼人から聞いていた時間まで、あと少し。
二人は二階へ上がり、物音がするのを待った。
そして、午前一時を少し過ぎた頃。
家の中に、乾いた音が響いた。
――コン。
足立の肩が跳ねる。
「……」
雲母も顔を上げた。
――コン、コン。
今度は、壁の向こうから聞こえた。
「……雲母お嬢様」
「ええ」
「今の、聞きました?」
「聞きましたわ」
「……帰りません?」
「なぜ?」
「いや、普通は帰るところじゃないですか?」
雲母は立ち上がり、音のした壁へ近づいた。
耳を澄ませる。
しかし、壁の向こうからは何も聞こえない。
「止まりましたね……」
足立が囁いた、その直後だった。
――コン。
今度は二人の背後から聞こえた。
雲母が振り返る。
暗い廊下の奥。
誰もいないはずの家の中で、もう一度。
――コン。
雲母が静かに歩き出した。
「では、確認しましょう」
「ですよねぇ……」
足立は渋々、その後を追った。




