第一話 システムボイスより先に髭が来た!?
異世界へ転生した人達って、髭伸びるの気にならないのかなぁ。ナイフで剃るのとか怖いし……なんて考えて書いたお話です。
……天井が、ない。
最初にそう思った。
いつものビジネスホテルの安っぽいクロスがどこにも見当たらない。代わりに、やたら鮮やかな青空と、やけにクリアな空気と、鼻に刺さる鉄っぽい匂い。
「は? ……え?」
跳ね起きた俺の背中に、ゴリッと硬い感触が走る。
布団じゃない。土だ。小石だ。普通に痛い。昨日の記憶を巻き戻す。
クライアントと飲み、終電ギリギリで帰宅。風呂。電動シェーバーで一回、T字で一回、ジェルで逆剃り。明日の商談のため、顎のザラつきゼロを確認してベッドに倒れ……
「……その後が、ない」
嫌な空白だ。
とりあえず状況把握、と立ち上がりかけたとき、視界の端でキラリと光るものがあった。
水だ。
少し離れたところに、小さな水たまり。空をくっきり映している。
のども乾いていたが、得体の知れない水を飲む気にはさすがになれない。それでも、その静けさに誘われるように、ふらふらと近づいた。何の気なしに、覗き込む。
……そこにいたのは、俺ではなかった。
どこからどう見ても、見知らぬオッサンだ。
鼻はつぶれ気味、頬は岩みたいにゴツゴツ、眉毛も目つきもガチガチ。
そして何より、顎から胸元にかけて広がる、圧倒的な存在感。
「……髭」
声が漏れた。
それは「無精髭」なんてかわいいものじゃない。
顎を覆い、首を越え、胸元でふわりと広がる茶色がかったモジャモジャ。
太い毛が波打つようにくるんとカールしている。シャンプー何プッシュ必要なんだ、これ。
「ちょ、待て待て待て。昨日、ちゃんと剃ったよな俺……?」
そうだ。俺は、毎朝欠かさず髭を剃ってきた。
目覚ましと同時に鏡の前。
電動シェーバーで全体をならし、T字に持ち替え、ジェルを薄く伸ばす。
頬は軽くなでるように、顎は二回に分けて、首元は最後に逆剃りで仕上げる。
指先で顎をなぞり、ザラつきゼロを確認して、ようやく一日が始まる。
同僚には「Excelで替え刃管理してる変態」と笑われたが、営業に清潔感は命だ。
クライアントの「君は話しやすい。身なりがきちんとしてる人は信用できる」という一言に、どれだけ救われたか分からない。
その俺の顎が、今……
「モジャモジャに侵略されてるんですけど?」
水面のオッサンも、口をぱくぱくさせている。俺の真似をするように。
頬を叩く。痛い。水面の向こうも叩く。
息を吸う。吐く。心臓がバクバクしている感覚がやけに生々しい。
……夢、ではなさそうだ。
「転生? いやいや、そんなベタな……」
否定しかけたとき、頭の中に、妙に事務的な声が響いた。
『……転生おめでとうございます』
「出たよシステムボイス!」
思わずツッコむ。が、その声は容赦がなかった。
『尚、本プランにチート能力、美少女ハーレム、ステータスオープン等の特典は含まれておりません』
「なんでだよ!」
森に俺の怒鳴り声がむなしく響く。小鳥がバサバサと飛び立った。
『今回の転生先は、「地下鉱山国家グルンド王国・北辺山脈」近郊です。肉体スペックは平均的ドワーフ成人男性相当となります』
「ドワーフ……」
言われてみれば納得だ。
立ち上がっても視界が低い。試しに腕をつかむと、前職営業マンとは思えないくらい筋肉が詰まってる。
そして、この髭。ファンタジー世界で酒瓶抱えてハンマー振り回してる、あの種族の象徴。
『また、貴方が生前強く願っていた「清潔感を保ちたい」という希望を尊重し、「髭の手入れ」に関するイベントフラグを多めに配置しております。どうぞ異世界での新生活をお楽しみください』
「“剃る”のも含まれてるよな、それ!?」
慌てて問いかけたが、システムボイスはそれきり沈黙した。
木々のざわめきだけが残る。
状況は、だいたい分かった。
俺は、営業職・三十手前。清潔感ガチ勢。
髭剃りに人生を賭けてきた男だ。
その俺が、よりによってドワーフボディに転生し、髭モジャにされている。
「いやいやいや……一番なりたくなかった側に全振りってある?」
今すぐ剃りたい。ここにカミソリ、今すぐ。
だが周りには木と岩と土ばかり。文明の匂いゼロだ。
「……よし。まずは文明圏だ。人を探す。刃物を探す。カミソリを探す」
顎のモジャモジャを鷲づかみにする。
ふっさふさだ。手のひらが埋もれる。もはやペット。
「絶対に剃るからな。ツルッツルにしてやるからな」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、俺はよろよろと森の中を歩き出した。
◇ ◇ ◇
どれくらい歩いたか分からない。
太陽の位置的に、昼はとうに過ぎた気がする。
体は疲れているはずなのに、足は案外動いた。ドワーフ体、体力だけはある。
「……お?」
木々の切れ目の向こうに、灰色の岩肌が見える。
近づくと、山の斜面に大きな穴が開いていた。坑道の入口だ。
その周りで、小柄な影が何人も忙しそうに行き来している。
耳を澄ます。
がなり声、笑い声、鉄と鉄のぶつかる甲高い音。
全部、妙に低く、太い。
……ドワーフ、だな。
ゴクリと唾を飲み込み、俺はできるだけ柔らかい声で叫んだ。
「すみませーん!」
何人かが振り返る。
俺と同じくらいの背丈だが、体は岩みたいに分厚い。
そして全員、見事な髭。色とりどりのモジャモジャが揺れている。
「なんだあ? ……おう?」
一人が目を丸くした。
俺の顔……というか、顎あたりをじっと見つめてくる。
「見ねえ顔だな。どこの坑道から流れてきた?」
「あー、その……ちょっと山の向こうから……」
正直に「違う世界から」とは言えない。営業スマイルを貼りつけ、誤魔化す。
じろじろと、全員の視線が刺さる。
いや、刺さっているのは俺の髭かもしれない。
「ほぉ〜〜……」
一番体格のいい男が、感心したようにうなる。
「見ろよ。まだ若ぇのに、この密度だ」
「長ぇなぁ。ちゃんと手入れされてやがる」
「こりゃ将来有望だぞ。髭コンの優勝候補だ」
「え? あの、あの……?」
状況が飲み込めない俺の前に、彼らはずい、と詰め寄ってきた。
がしっと肩をつかまれる。力が強い。逃げ道がない。
「おめぇ、名前は?」
「えっ、と……前の世界では“高橋”って呼ばれてました」
「タカハシか。いい名前だ。よし、今日からタカハシ・ヒゲノスケだ」
「今、勝手に名付けされた!?」
ドワーフたちはゲラゲラ笑う。
笑いごとじゃない。ヒゲノスケは人権侵害だ。
「まあ細けぇことはいい。腹減ってんだろ? 集落に来い。見りゃ分かる、その髭は、ドワーフとしての誇りだ」
「……誇り?」
嫌な単語が聞こえた。
「ああ? 当たりめぇだろ。髭は男の魂よ。剃られるなんざ、死ぬより恥だ」
「え?」
思わず素で聞き返してしまう。
「この辺じゃな、軽い罪を犯したやつは“剃髭刑”だ。髭を落とされて、伸びるまで子ども扱いよ。酒も飲めねぇ、仕事も任されねぇ。そりゃもう惨めなもんだ」
周りが「いやぁこの前の奴も泣いてたな」とか笑っている。
俺だけ、笑えない。
剃髭刑。
この世界では「罰」なのか。
俺にとっての必須の行為が、ここでは社会的死亡らしい。
「タカハシ。おめぇの髭は、これからもっと立派になる。ちゃんと伸ばして、自慢できるドワーフになれよ?」
ガハハと笑うドワーフたちに囲まれながら、俺は引き攣った笑顔の裏で、静かに結論を出した。
うん、詰んだ。
この世界で、「髭を剃りたい」なんて、口が裂けても言えない。
異世界転生。チートなし。種族ドワーフ。
そして唯一の願いは、最大級のタブー。
それでも、俺の目的は変わらない。
絶対に、剃ってやる。
誰にもバレず、このモジャモジャを、ツルッツルに……。
そう固く心に誓いながら、俺はドワーフたちに肩を抱かれ、岩山の奥に続く集落へと歩き出した。
この世界での「清潔感」が、どれだけ面倒くさい未来を連れてくるのかも知らないままに。




