【第1話:残された部屋】
「ねえ、シオン」
細い指先が、俺の鎖骨のあたりをなぞる。
高級ホテルの遮光カーテンは、午後の強い日差しを完全に遮断し、
部屋の中をまどろむような薄闇で満たしていた。
「ん?」
俺はあえて声を少し低く、掠れさせて応える。
薫の髪に指を絡め、愛おしそうにその額に唇を寄せた。
「……今日、すごく優しかったね」
薫の瞳が、じっと俺を見つめている。
潤んだ、完全に「女の子」の目だ。
4回目のデート。
そして、初めて一線を超えた今日。
彼女は今、人生のすべてを
俺に委ねているかのような無防備さで、
俺の胸に収まっていた。
「薫が可愛いからだよ。
ずっと、こうやって抱きしめたかった」
嘘ではない。
今この瞬間、俺は世界で一番薫を愛している。
そうプロとして自分を脳内調教しているからだ。
30代前半の男としての肉体、大人の包容力、
そして計算され尽くした声のトーン。
そのすべてを動員して、
俺は薫が求めている
「完璧な恋人」を演じ切る。
薫は嬉しそうに吐息を漏らし、
俺の胸に顔を埋めた。
彼女の体温が、シーツを通じて伝わってくる。
だが、俺の脳内は、
驚くほど冷徹に時計の針を刻んでいた。
(チェックアウトまで、あと40分か。そろそろだな)
その予想は、寸分の狂いもなく的中する。
スマートフォンのアラームが、
設定しておいた静かなバイブレーションで震えた。
それを合図にしたように、
薫がふっと息を吐き、
俺の腕から身体を離した。
「……あ、もうこんな時間」
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
ベッドから降りた薫は、もう俺の顔を見ない。
さっきまで俺の胸で甘えていた声は影を潜め、
テキパキとした、どこか事務的な足取りでシャワールームへと向かっていく。
数分後、戻ってきた薫の姿に、
俺は心の中で小さく息を呑んだ。
濡れた髪を素早くドライヤーで乾かし、
手際よくハーフアップにまとめる。
鏡に向かう彼女の背筋はスッと伸び、
その横顔からは「女」の艶っぽさが綺麗に消え去っていた。
代わりに立ち上ってきたのは、生活感、そして規律。
スマホの画面を一瞬だけ確認した彼女の目は、
完全に「日常を統率する母、そして妻」のそれに切り替わっている。
「シオン、これ。部屋代と、今日の分ね」
薫はバッグから、品の良い白い封筒を取り出し、
大理石のテーブルに音もなく置いた。
中身を確認しなくても分かる。
きっちりと約束通りの額、あるいはそれ以上のチップが入っているはずだ。
「ありがとう、薫」
「こちらこそ。本当に、楽しかった。
明日からまた頑張れそう」
薫は振り返り、満面の笑みを浮かべた。
そこには執着も、後ろ髪を引かれるような未練も一切ない。
美容院で極上のヘッドスパを受け、
リフレッシュした後のような、
実にあっさりとした、健康的な笑顔だった。
「じゃあね。連絡、またタイミング合う時にするから」
「うん。気をつけて帰ってね」
ガチャリ、とドアが閉まる。
防音性の高いホテルの客室に、
一瞬で重苦しい静寂が戻ってきた。
さっきまで二人分の熱気がこもっていた部屋が、
急激に冷えていくような錯覚に囚われる。
俺はベッドに寝転んだまま、しばらく動けなかった。
薫にとって、ここは日常を生き抜くための
「非日常のビタミン剤」だ。
彼女は俺という装置を使って、心の隙間を上手に満たし、
そして今頃、何事もなかったかのように
駅前のスーパーで夕飯の買い出しをしているのだろう。
彼女には、帰るべき温かい家庭(現実)がある。
だが、俺は?
俺は自分のボストンバッグを開け、
着替えや洗面用具を取り出し始めた。
今夜、この一泊数万円の高級ホテルは、
そのまま俺の「寝床」になる。
普通の男なら特別な日に泊まるようなこの贅沢な空間が、
住所不定に近い俺にとっては、
ただの仕事場であり、今夜をしのぐための仮宿に過ぎない。
窓の外に目をやると、夕暮れの街並みが広がっていた。
あの無数の明かりの中に、
本名としての俺の帰りを待っている人間は一人もいない。
テーブルの上の白い封筒。
シーツに残った、かすかな香水の匂い。
32歳になった俺の手元には、
結局、この無機質な部屋とお金しか残らない。
(俺は一体いつまで、誰かの人生の
引き立て役を続けるんだろう……)
押し寄せる実存的な恐怖から逃げるように、
俺はまだ薫の温もりが微かに残る枕に、深く顔を埋めた。




