黄褐色の最愛(1)
「また白のない庭に戻ったな」
書斎から庭を見下ろしながら、イグナシオは呟いた。
庭で白バラが咲くたび、リリアンナが帰ってきたのではないかと期待することに疲れ、イグナシオは庭師に言って庭の白バラを適当な花に、白以外の花に替えさせていた。
リリアンナが再びこの屋敷に戻り、朝の庭で白い花のようにリリアンナの銀髪が光るのを見るのがイグナシオの楽しみだった。
リリアンナとエアハルトは今朝、ドゥヴァリス領に向けて出発した。
イグナシオの父アグニスハルト前公爵への挨拶と言っていたが、それがメインの目的ではないことをイグナシオは分かっていたし、イグナシオがそれを分かっていることにリリアンナも気づいていた。
イグナシオの中で、真実を知ったリリアンナが、許してくれるかもしれないと期待する気持ちと、許してはくれないだろうなという諦観がせめぎ合っている。
(許されないのなら……)
コンコンコン
庭に向けていた視線を、イグナシオは部屋の入口に向けた。
「なんだ?」
「二人がドゥヴァリスに行ってしまって、一人で暇だろ? 俺も、奥さんが一緒に行っちまったから暇でさ。残された者同士、一緒に飲もうぜ」
イグナシオは友人であるドミトリオスが手に持っていたワインの瓶を見ると、何も言わずに応接エリアのソファに座った。
イグナシオの向かいにドミトリオスは座り、自分のグラスには三分の一、そしてイグナシオのグラスには並々と赤ワインを注いだ。
究極の面倒臭がりであるイグナシオは、何度も注ぐのは面倒だといってこういう飲み方をする。
「久しぶりに会った友に、美味しいツマミを提供しようとか思えないのか?」
「……チーズでいいな」
北部にあるドゥヴァリス領は冷涼な気候で、酪農が盛んな地域である。特産品としてチーズは有名で、それを勧められることにドミトリオスは不満はないが――。
「いつのチーズだ?」
消費期限的なものに不安があった。
「カビてないから、食えるだろう」
「お前、どうしてそこまで無頓着になれるわけ? 毒殺されても知らないぞ」
イグナシオはドミトリオスの言葉をしばし考え、「気をつける」と頷いた。イグナシオとしては、エアハルトが成人するまでは死ぬ気はなかった。
しばらく無言で飲んでいた二人だったが、先に沈黙を破ったのはドミトリオスの泣き声だった。
「……鬱陶しい」
「お前な……仕方がないだろう。エアハルトを見たら、俺あの子を殺そうとしたんだって……勝手な話だけど、生きていてくれてよかったって……」
ぼろぼろと泣きはじめたドミトリオスにイグナシオはため息を吐いた。
「エアハルトの前で泣かなかったことは褒めてやる」
「ありがとよ! お前、よく泣かずにいられるよな」
「リリに聞かれるかもしれないからな」
リリアンナの風魔法を思い出したドミトリオスは「ああ」と納得したように頷いた。
「イグが一年近く手を拱いていた理由が分かったよ」
北部辺境伯のミスをカバーするため、物資の支援を求めてトレッシア侯爵家に向かう途中でイグナシオは奇襲を受けた。
整備された道であり、戦況があまりよくないあの状況での北部辺境伯の失策は歓迎できるものではなかった。
だから、イグナシオは秘密裏に行動するため、護衛は最小限に抑え、その情報が国王に漏れたため、イグナシオはあの日襲撃された。
いつもなら難なく退けられるレベルの襲撃だったが、計算か偶然かは分からないが、襲撃した相手にリリアンナと同じ銀色の髪の者がいた。咄嗟に攻撃をやめた隙を突かれ、イグナシオは攻撃を受けて崖下に落ちた。
冬が始まったばかりとはいえ早朝の森の中はかなり寒く、激痛と血を大量に失う寒さで、イグナシオの意識はぼんやりとした。
このまま死ぬのか。
そうしたらリリアンナを探して謝らなくては。
そう思ったところで、イグナシオの意識は途絶えている。
イグナシオは何かがふれる感触に気づいて、自分が意識を戻したことに気づいた。
人間は案外頑丈だと思っていたところで、視界が明るくなり――イグナシオの目の前にリリアンナがいた。
自分は死んだのだと思った。
死んで、リリアンナが迎えにきてくれたのだと思った。
リリアンナが自分を許してくれたのだと、だから迎えにきてくれたのだと、安堵と、幸福で、イグナシオは泣きたくなった。
夢心地のままリリアンナに手を伸ばしたとき、その手に熱いものがふれた。
長く戦場にいた感覚が攻撃されたと感じ、何も考えず攻撃してきた者を見た。
子どもだった。
ここでようやく、自分が死んでいないことにイグナシオは気づいた。
そして次々と思い出していき、その子どもがリリアンナを「お母さん」と呼んだことを思い出した。
もしかしてあの子は、とイグナシオがある可能性に気づいたときには、リリアンナは子どもを抱いて走り去っていた。
信じられない思いで、イグナシオはリリアンナが去った先をずっと見ていて、どのくらい見ていたのか分からないが、そっちからヴェルナの警備兵がきた。
イグナシオが名乗ると、彼らは恐縮し、トレッシア侯爵家に使いを出してくれた。
ヴェルナの警備兵は、イグナシオを町に運ぼうとしたが、イグナシオは断った。
一つは秘密行動中で自分の所在を知られたくないから。
二つ目は、自分のこの状態でまた襲撃されたら困るから。
そして三つ目、自分がヴェルナの町に行ったらリリアンナが逃げることを分かっていたから。
リリアンナがどうやって無事だったのかは、イグナシオには分からない。
イグナシオの希望的観測は「記憶を失っていたのではないか」とイグナシオの元に戻らなかった理由を作り出したが、イグナシオ自身がそれを否定した。
イグナシオと再会したリリアンナの目にあったのは、恐怖だった。
(最後のときを考えれば、リリが俺を怖がるのは当然だ)
イグナシオは懐剣に触れた。
あの日、リリアンナの炎で溶けた剣は鍛冶屋に頼み込み、懐剣に作り変えた。
あの日溶けた黄褐色の宝石の残滓が刃にこびりついているため切れ味は悪く、この懐剣ではいざというときイグナシオの身を守れないと鍛冶屋を筆頭に周りから反対されたがイグナシオは意に介さなかった。
イグナシオが真剣に自分の身を守ろうとしていなかったこともある。
リリアンナはイグナシオから逃げている。
それが分かったイグナシオは、リリアンナと再会したあとの約一年を、ただ耐えた。会いにいきたい気持ちを必死に抑えて、我慢した。
少しでも自分がリリアンナに気づいた素振りを見せれば、リリアンナはすぐにでも姿を消してしまうと分かっていたからだ。
あてもなく子どもを連れて逃げて、その先でどうやって生計を立てるのかと想像し、その最悪の想像は、イグナシオがリリアンナの元に行きたいという気持ちを抑えるために役立った。
イグナシオは私設騎士団の中でも腕が立つカミールとソールをヴェルナに送った。彼らはイグナシオの期待に応え、リリアンナとエアハルトを見守ってくれていた。
ヴェルナで疫病が流行り、治癒師たちに異常が出たことで、イグナシオはカミールとソールにいざというときはドゥヴァリスの騎士であることを明かす許可を出した。
「ヴェルナは、落ち着いたのか?」
「まだ後始末の最中だな」
ヴェルナは今、治癒師不足になっている。
ヴェルナの治癒師たちは先の一件があって他の地域に移りすんだ者が多く、またヴェルナで起きたことは知られていたため新しい治癒師の募集もままならなかった。
悪意や暴力に晒された以上、身を護るため、今後のリスクを考えれば仕方がない判断でもあるが、次期領主であるドミトリオスとしては頭の痛い事態になってしまっている。
「まさかアグニスハルト様が飲んだあの毒を、毒性を軽微にした亜種とはいえ、ヴェルナの治癒師たちが飲まされたとはな」
イグナシオの父アグニスハルトは、イグナシオが幼い頃に原因不明の病に罹った。
イグナシオは評判の医師や治癒師に数多く屋敷に招いて父親を診てもらったが、誰が診ても「原因不明」で終わった。
それが毒だと判明したのは、それをアグニスハルトに飲ませたキアラ男爵夫人が白状したからだ。
「セレニアも領地に行ったのは、あの女の墓参りか?」
申しわけなさそうなドミトリオスに、イグナシオは首を横に振った。
「セレニアを責めるつもりはない。俺にとっては許せない相手であれ、セレニアにとっては母親代わりだったことに違いないからな」




