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「今晩は、ジュリエット姫」
バルコニーからおれの姿を捉えた彼女に、おれは気軽に呼びかけた。
「ロミオ様?!どうしてここへ?邸の塀は、高くて乗り越えるのは難しい筈」
勿論、建前としてはそうなんだが、実はどんな邸でも潜り込もうと思えば潜り込める隙はあるもんだ。そのことを、年頃の娘を持った親たちはどこまで知っているのやら。ま、おれの心配してやることじゃないが。それより今は、わざとらしいくらい陽気に振舞っておこう。決して、おれの真意が悟られることのないように。悟られて、騒ぎ出されたらそれこそ目も当てられない。
「恋の軽い翼で飛び越えました」
「それに、貴方のお身を考えれば、見付かれば死しか待っておりませんのに」
ごもっとも。だが、死しか待っていないのは、このままでも同じことなんだよな。
「それを賭しても貴女にお会いしたかったと申し上げれば、貴女は信じて下さいますか?ジュリエット姫」
おれはそう言って、バルコニーによじ登った。
「ロミオ様……」
心なしか、彼女の顔が青ざめている。さすがに、こんな風に部屋に男を入れたことなどないだろう。さあ、それにしても、どうやって取り返そう?宴でのやり取りから考えても、この少女は一筋縄ではいかないはずだ。
「どうして、ここへ?」
おれが言葉を選んでいると、彼女は青ざめた顔でそう呟いた。
「ジュリエット姫?」
「死を賭してもわたしに会いたかった?会って、どうなさるおつもりですか?」
まっすぐに、そう問いかける。その理知的な瞳に、おれは思わず言葉に詰まった。その瞳は、どんな甘い言葉でも全てを見抜いてしまいそうだった。
「こんな質問に、返す答えは用意していらっしゃらない?では、代わりにお答えしますわ。わたしに会って、宴の時にわたしに囁かれた恋のお言葉を取り返しにいらっしゃったのでしょう?」
「姫」
あまりに直截な彼女の言葉に、おれは思わず反論しようとした。そんなおれの言葉を止めるように、彼女はゆっくりと手を差し出す。
「お返し致しますわ。本当は、これを取りに来られたのでしょう?」
そう言って、彼女の掌から現れたのは、紛れもなくあの指輪だった。
「これを、わたしにお返し下さる?」
ここまで来たら、口説き文句など口に載せるわけにはいかない。指輪を受け取って、おれはただ素直な疑問を彼女にぶつけた。
「ええ。わたしがキャピレットの娘であると判っていたら、この指輪はわたしの下には来なかったでしょうから」
そう言うと、彼女は短く、くすりと笑った。
「判った上でこのようなことをなさっているのでしたら、貴方は立派な自殺志願者ですわね。そうではありませんでしょう?」
「自殺志願者、ですか」
その言葉には、おれも笑うしかない。どうやら、おれは知らず、とんでもない少女に引っ掛かっていたようだ。
おれが笑うのを見ると、彼女は自分の笑みを消して言う。
「どうぞ、お帰り下さい、ロミオ様。それをお返しすれば、ここにいらっしゃる理由はありませんでしょう?先ほども申し上げた通り、ここは貴方にとっては危険な場所ですわ」
そう言って部屋に引っ込みかける彼女に、おれは別の指輪を差し出した。
「ロミオ様?」
「本当は、こちらの指輪を差し上げるつもりだったんです」
ただ、Rの文字だけが刻まれた指輪を見て、彼女は首を振る。
「頂けません」
つれない少女だ。だが、これきりで終わらせるのはつまらない。
「これで、わたしの身元が明らかになるということはありませんよ。だから、貴女にもご迷惑がかかることはないでしょう。だから、どうぞ」
そう言って、おれは無理矢理彼女に指輪を握らせた。
「ロミオ様……」
「良い夜を、ジュリエット姫」
まだ何か言いたげな彼女を遮って、おれはバルコニーから身を翻す。そんなおれに、指輪を返すことは諦めたのだろうか。
「お気を付けて、お帰り下さいませ」
そう言って、彼女は初めてにっこりと笑ってくれた。それはどこか、諦観を含んだようなものではあったけれど。
甘い恋を語って、酔えるような少女ではない。
だが、友人としてなら、良き相手となりそうな気がする。
たとえキャピレットの娘でも、もう一度ゆっくり会って話をしてみたいものだ。渡した指輪が、その再会のきっかけとなってくれることを願って、おれは夜にまぎれた。