10
宴から、一週間。
まだ、わたしの手元にはこの指輪がある。それを眺めて、わたしは知らずため息をついた。
「どうなさったんですか?お嬢様?そんな憂鬱そうなため息をおつきになって」
不思議そうなばあやの声に、わたしはびくりと肩を震わせて指輪を隠す。別に誰から貰ったかなんて判りはしないけれど、この指輪は女物には見えないもの。見付かったら、一騒動だわ。
「別に。ただ、何となく、ね」
そうわたしが言うと、ばあやは委細承知とばかりに頷く。
「お嬢様のお気持ちは、解らないでもありませんけれどね。何しろ、一か月後にはあのパリス様とのご婚礼ですもの。不安やら何やら、あったところで不思議ございませんわ」
そう、あと一か月。ばあやの言葉は、わたしの気鬱を一気に加速させる。まさか、一週間でそんなことまで決まってしまうとは、思ってもいなかったのだもの。
「それよりも、お嬢様。お嬢様の気が晴れるものをお持ち致しましたよ。ご覧くださいましな。これが、お嬢様の婚礼衣装でございますよ」
「まあ、綺麗ね」
我ながら、何て気のない返事かしら。だいたい、あんな人のために着飾る気すらしないのに、婚礼衣装なんて見せられて心が晴れるわけなんてないのだわ。
「そうでございましょう?お嬢様が十五になられた時から、ばあやが少しずつ準備しておいたのでございますよ。あとは寸法を確認して、細かいところのお直しをすれば準備万端。楽しみでございますねえ、お嬢様の花嫁姿!それにしても十六年前……」
ばあやは上機嫌で話し続けているけれど、それを聞くような気分にはなれないわ。ああもう、憂鬱で息が詰まりそう。
手にはまだ、あの指輪がある。
婚礼が決まってから、わたしは時間さえあればこの指輪を見ている。彼に恋をしている訳でもない癖に。
「一月後には、パリスの花嫁……」
呟いて、わたしはもう一度指輪に目をやる。そして、一つの決意をした。
「お嬢様?」
意を決して立ち上がったわたしに、ばあやが驚きの声をかける。そんなばあやに、わたしはにっこりと笑って見せ。
「ばあや、わたしは神父様の所へ行って来るわ」
「神父様の所へ?」
「ええ、そう。これから、きっとさらに忙しくなるでしょう?だったら、少しでも時間のある間に神父様に聴聞して頂いて、お祈りをするの」
そう、神父様に全て話そう。そして、神父様からこの指輪を彼の元へ返してもらおう。そうでないと、諦めが付かないような気がするから。
「神父様、ごきげんよう」
「おお、ジュリエット。よく来たね」
神父様の声は、温かい。その温かさに、思わず縋りたくなるくらいに。
「神父様、お願いしたいことがあって参りました」
思わず弱気な言葉を吐きそうな自分を叱って、わたしは神父様に向かい合う。そんなわたしに、神父様は何も聞き返さず、ただ身振りで中へ招いて下さった。その、時だった。
「神父様。宜しいですか?」
そう、一人の声が割り込んだ。わたしの、聞き覚えのある声が。
驚いて振り向くと、そこには彼が立っていた。
「……ジュリエット姫……?」
「ロミオ様……」
互いの名を呼んだきり、絶句してしまったわたしたちに、神父様は驚いたように声をかける。
「知り合いかい、お前たち」
知り合い、と言っても良いのかしら?たった一度しか会っていないし、話もほとんどしていないけれど。
「知り合い、と言えば知り合いと言えるでしょうか。一度ぼくが紛れ込んだキャピレット家の宴で、一曲踊って貰いましたが」
でも、それだけです、と言う彼の言葉に、わたしはただ頷く。すると、彼はわたしを見てしばし逡巡してから、言った。
「婚約が決まったと聞きました、ジュリエット姫。おめでとうございます」
めでたい?この結婚が?この三日ほど、聞き飽きるほど聞いてきた言葉だけれど、何故だか彼に言われると、無性に腹が立った。
「その言葉は、本心からですか?」
考えるよりも先に、言葉が声になっていた。
「ジュリエット姫?」
「本当に、わたしが結婚することがおめでたいことだと?一週間前、宴の席で気分が悪くなったわたしを助けてくれたのは貴方なのに?踊って気分が悪くなるような人と結婚することを、わたしが喜んでいると、本当に思っているの?!」
溢れるように出てくる言葉を、自分で止められない。彼に言っても、仕方がないことだと解っているのに。なおも言い募ろうとしたわたしを止めたのは、彼ではなく神父様だった。
「ジュリエット、ロミオ。中にお入り。誰かに見付かっては、話がややこしくなるばかりだからね」
庵の中に入って、口火を切ったのは彼からだった。
「パリスとの結婚は、貴女が望んだことではない、と?」
率直に聞くけれど、と前置きした言葉は、問いではなくて確認ね。
「父が決めたことです」
「そう。失礼ついでに、もう一つ。どうしてパリスをそんなに毛嫌いするんですか?あの男は、街中の女性方の憧れの的だと思っていたけれど」
「憧れ?」
「ええと、ぼくの周りでは彼は絶好の結婚相手候補となっているようですよ?この街の名家で、銀行の跡取り息子。名も実も持っている人だ、と」
それは、解っている。けれど、わたしが欲しいものはそんなものではないのですもの。
「あの方は、わたしを理解してはくれないでしょうから」
その言葉は、彼にとっては意外だったみたい。少しばかり目を見張りながら、彼は更に問いを重ねる。
「理解?」
「あの方は、わたしの好きなものが一切お嫌いなんです」
「好きなものって?」
「音楽とか、絵とか」
「ああ、芸術の話ね。ははあ、成程。それは難しいだろなあ」
そういうと、彼は心から楽しそうに笑う。まるで、パリスに向かってざまあ見ろ、とでも言っているかのように。
「こんなことを望む、わたしがおかしいのかしら?」
「さあ?人の考え方はそれぞれだから。貴女はキャピレット家の一人娘ですからね。他の娘たちが欲しがるような名前や、資産なんかは必要ないのかもしれませんが。それを除いても、ぼくは、貴女のその望みは真っ当なんじゃないかと思いますよ、ジュリエット姫」
「ジュリエットで結構ですわ、ロミオ様」
「では、ぼくもロミオ、と。ついでにその敬語も改めてくれると、嬉しいんだけど」
そう言って、彼は軽く笑んだ。
「君とはもう一度、ゆっくり話をしたかったんだ」
わたしと、話?この人は、まだわたしと遊びの恋が語れると思っているのかしら?
「……今、ぼくが口説き始めるんじゃないかと思ったね?」
「え?!」
思わずぎくりと身じろぎしたわたしに、彼はまた楽しそうに笑った。
「警戒しないで良いよ、ジュリエット。あれから、ぼくは自分なりに色々考えてみたんだ。君の、行動のあれこれを。そして、一つの仮定に辿り着いた」
「仮定?」
「つまり、ぼくと君とは、この街にあってただ一人の同族ではないかと」
「同族?」
聞き返しては見たけれど、その言葉は解る気がする。だって、わたしはずっと自分に言っていたもの。この人は、わたしを理解してくれる人だと。それが同族ということね?
「君も、キャピレットもモンタギューもどちらもどうだって良いとは思っていない?けれど、家を捨てて生きてはいけないから、ただその争いの中で身を潜めて生きてるのでは?」
その言葉に、わたしが答えられる言葉はない。それを知ってか、彼はそのまま言葉を続ける。
「君の心は、推測だ。でも、少なくともぼく自身はそう思ってる。両家の争いなんて、くだらない。飽きもせずに毎日毎日、何をやってるんだろう、とね」
それは、わたしがいつも思っていたこと。でも、周囲の誰にも言えず、また周囲の誰も言ってくれなかったこと。それを、貴方が言うの?敵である、貴方が?
「どうして、わたしの婚約者が、貴方のような人じゃなかったのかしら……」
涙が、こぼれそうだった。そうね。確かに、貴方はこの街でただ一人、わたしの同族だわ。
「ジュリエット……」
何か言いかけて、彼はぎこちなく言葉を切った。そんな彼に、わたしは笑った。
「本当はね、今日、神父様からこれを貴方に返して貰おうと思ったの」
持ってきた袋から出てきたのは、彼のイニシャルの刻まれた指輪。
「君にあげた物だ。ぼくは君に持っていて貰いたいと思ったけど、結婚するなら手元に置いておかない方が良いのかな」
言って、彼は手を差し出す。でも、わたしはその手に指輪を乗せなかった。
「わたしが持っていても、良い?」
決して恋や愛の印ではなく、ただ信頼の証として。ただ一人の同族である貴方の指輪を持って、わたしはこれから長い人生を生きるわ。
「良いよ。それはもう、君の物だから」
「ありがとう」
わたしは、できる限り鮮やかに笑って見せた。泣くことも、嘆くこともできないのだもの。もう、わたしには笑うことしかできないわ。
そんなわたしの心を理解してくれたのか、彼はゆっくりと手を差し伸べた。
「もう、これでお別れかな。話をできて良かったよ。元気で」
「ありがとう。貴方も、体に気を付けて下さいね」
きっと、もう会うことはないわ。その思いを込めて、わたしたちはしっかりと握手した。
「さようなら」
そう言って笑った彼の顔は、初めて偽りのない、まっさらな笑顔だった。
「さようなら」
ここで、涙の一つでも落とすことができたなら、わたしの未来は変わるのかもしれない。けれども、そんなことはわたしにはできない。だから、わたしの笑顔も、彼には曇りのないものに映っていますように。




