第8話 人間のほうが上手に嘘をつく
「百錠入りの大瓶が三つ、か」
幻獣証言調査室に戻ったセドリックは、薬局長が提出した被害届と、権限を使って取り寄せた王立薬庫の出納帳を机に広げた。
「帳簿上は、昨日まで在庫が合っていたことになっている。だが、最後に大掛かりな在庫確認が行われたのは一ヶ月前だ。それ以降の出庫記録には、不自然な修正の痕跡がいくつも散見される」
彼は万年筆の尻で、帳簿の数字をトントンと叩いた。
「おそらく、薬庫の管理責任者――薬局係は、以前から少しずつ高価な鎮痛薬を横流ししていたのだろう。帳簿をごまかしながらな。そして昨日、たまたま鏡尾狐が薬庫に侵入し、小瓶を一つ盗み出すという『事故』が起きた。薬局係はそれを利用したんだ」
「今までの横流しによる不足分を、すべてミーネの窃盗のせいにした……ということですか」
「ああ。幻獣は人間の言葉で弁明できないからな。罪を被せるには都合のいい隠れ蓑だ。幻獣は自分の仲間を庇うために不器用な嘘をついたが、人間のほうがよっぽど上手に、書類という形で嘘をつく」
セドリックの言葉には、人間の悪意に対する静かな嫌悪が混じっていた。
ミーネに大瓶三つの不足まで負わせず、薬局係の横流しを立証するためには、彼がどうやって薬を持ち出していたのか、その証拠を突き止める必要がある。
「ヴァール様。ミーネの移動経路から、薬局係が横流しに使っていたルートを特定できるかもしれません」
私は自分の机から、幻獣舎周辺の詳細な見取り図を取り出した。
「鏡尾狐は、とても警戒心の強い幻獣です。慣れた場所へは、匂いをつけた道を繰り返し通る傾向があります。ミーネも、普段は人の多い正面通路を避けています」
私は地図の上に、ミーネが保護された場所と、薬庫の位置を赤いインクで結んだ。
「ミーネが薬庫に侵入できたということは、あの子にとっての『安全な獣道』と、薬庫の入り口が繋がっていたということです。でも、薬庫の正面入り口は常に警備員がいて、幻獣が入り込める隙はありません」
「……裏口か」
セドリックが地図を覗き込む。
「はい。薬庫の裏手には、廃棄物を出すための小さな扉があります。私は先ほど、薬局係のここ一ヶ月の勤務表を確認しました。彼が夜間や早朝に一人で残業している時間帯と、夜警が記した裏口の開閉時刻が、奇妙なほど一致しているんです」
私は地図上の裏口から、幻獣舎の敷地外へ続く目立たない小道へ線を引いた。
「薬局係は、人目のない時間に裏口を開け放し、薬を外部へ持ち出していた。そして昨日、彼が横流しの作業のために裏口を開けたままにしていたその隙を突いて、ミーネが偶然入り込み、目に付いた小瓶を一つくわえて逃げた。……これが、事件の全体像だと思います」
セドリックは、私が引いた赤い線と、出納帳の数字を交互に見比べた。
「見事な推論だ」
彼は深く頷き、記録板に素早く事項を書き込んでいく。
「薬局係の残業時間と裏口の開閉記録。そして、彼が頻繁に接触していた外部の医薬卸業者の荷馬車の出入り記録。これだけ揃えれば、治安維持局を動かして卸業者の倉庫を捜索させることができる。大瓶のロット番号が一致すれば、言い逃れは不可能だ」
セドリックの手際の良さには、いつも舌を巻く。
私が幻獣の行動から導き出した『状況』を、彼は人間社会の法律と記録に照らし合わせ、確固たる『証拠』へと組み上げてしまうのだ。
「……フェルン飼育官」
不意に、セドリックが万年筆を置き、私を真っ直ぐに見つめた。
「君のその観察手法……行動鑑定の基本を、私に教えてくれないだろうか」
「えっ?」
私は目を丸くした。
宮廷異語局の優秀な翻訳官である彼が、下級飼育官の私に教えを乞うている。
「先ほどの鏡尾狐の尾の動きや、今回の獣道の習性。私はそういった幻獣の非言語的な生態文脈を全く知らない。だから言葉の表面だけをすくい取り、真実を見誤りそうになる。今後の翻訳の精度を上げるためにも、君の視点を学びたいんだ」
セドリックの表情は真剣そのものだった。
彼の言葉には、立場や身分に対するプライドは微塵もない。ただ純粋に、自分の職能を高め、より正確に事実を捉えたいという実務家としての誠実さだけがあった。
私は、なんだか胸の奥がくすぐったくなるような心地を感じながら、小さく微笑んだ。
「……わかりました。私で教えられることなら、何でもお伝えします」
「恩に着る」
「その代わり」
私は彼に向かって、少しだけ身を乗り出した。
「ヴァール様が翻訳をする時に取っている、その『逐語メモ』の読み方を、私にも教えていただけませんか?」
セドリックは少し驚いたように瞬きをした。
「私のメモを? だが、君には聴紋の適性がない。幻獣語を直接聞き取ることはできないはずだが」
「はい。声を聞き取ることはできません。でも、ヴァール様がどういう法則で音を文字に変換し、どうやって文法を組み立てているのかを知れば、あなたの翻訳をただの『結果』として受け取るのではなく、その過程を一緒に検証できるようになると思うんです」
私は彼を見つめ返した。
「私だけが教えるのではなく、お互いに教え合いませんか。そうすれば、もっと正確な記録が作れるはずです」
セドリックは私の提案を反芻するように少しの間沈黙し、やがて、わずかに口元を緩めた。彼と出会ってから、初めて見る柔らかい表情だった。
「……わかった。取引成立だな」
翌日、卸業者の倉庫から、王立薬庫の納入番号が残る大瓶が押収された。受領控えには薬局係の名もあった。薬局係は逮捕され、薬局長が被害数を確かめずに届け出た経緯も調べられることになった。最終搬出に使われた灰色の荷車も、夜警の記録と一致した。
横流し先は王都の別系統の医薬卸であり、アルクの事件で調べられているローデ商会との直接的な繋がりは見つからなかった。だが、「幻獣の小さな違反が、人間の大きな犯罪の隠れ蓑にされる」という構造は、私の中に重い教訓として残った。
ミーネが持ち出した小瓶は返却され、大瓶の不足とは分けて扱われた。飼育員は医務の許可が出るまで休み、ミーネには交代の飼育員がついた。事件発覚の二日後、押収薬を積んだ黒い馬車が北門を出ていった。箱の白い封印紐と赤い蝋を、私は確認役の薬務官と一緒に見送った。
調査室での最初の依頼が無事に解決し、夕暮れ時。
薄暗くなり始めた資料室の中で、私たちは二つの机を向かい合わせ、それぞれのノートを広げていた。
「白翼獅子の尾が下がるのはリラックスのサインだが、鏡尾狐の場合は恐怖のサイン。……種によって全く違うのだな」
セドリックは私がまとめた観察ノートのコピーに、几帳面な字で書き込みをしている。
「はい。それに、耳の角度も重要です。ここを見てください……」
私は彼の隣へ移動し、ノートの余白に簡単な図を描きながら説明した。彼との距離がいつもより近く、彼の外套から香るインクと微かな魔力の匂いが鼻をかすめる。
彼の余白に私が尾の図を描き、私の余白に彼が短い訳を書いた。
「この矢印は、どちらへ動く?」
「こうです」
隣から覗き込む彼に合わせて、私はノートを少し傾けた。向かい側へ戻るのは、その説明が終わってからでいいと思った。




