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ブルー・ワシントンの夜の弾き語り  作者: はまゆう


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第五話 開かれた棺ーーエメット・ティル

(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。いつものように軽快なブルースから始めようとしたが、彼は鍵盤から手を引いた。何も奏でない。沈黙。その沈黙が、今夜が特別な夜であることを告げている。そして、ゆっくりと語り始める。)


こんばんは、みんな。


今夜は、開かれた棺の話をしよう。


(彼は深く息を吸う。この話を始めるのに、どれだけの勇気が必要かを知っているから。)


エメット・ティル。


その名前を聞いて、何を思い浮かべる?


若い人は、知らないかもしれない。学校で習うこともあるけど、教科書の一行さ。写真もない。声もない。ただ、名前だけ。


(彼の声が低くなる。)


でもな、俺たちの世代にとって、エメット・ティルは——いや、言葉にできないな。


ピアノで言うなら、一番低い鍵盤。普通は使わない。でも、たまに押すと、体の芯まで響くあの音。喜びの音じゃない。悲しみの音でもない。もっと深い。もっと重い。この国の、一番底にある音。


(ピアノ。一番低い鍵盤を一つ。ド。長く、深く。)


それが、エメット・ティルだ。


(彼は五十年代の夏の匂いを思い出すように、遠くを見る。)


1955年。シカゴ。


俺はまだ十歳そこそこだった。ピアノを習い始めたばかりで、指を動かすのが楽しくて楽しくて、朝から晩まで練習してた。黒人の子供にとって、音楽だけが自由だった時代だからな。


エメット・ティルは十四歳。シカゴ生まれのシカゴ育ち。母親のマミー・ティルは、彼を一人で育ててた。彼は明るい子だった。いたずら好きで、よく笑い、みんなに愛されてた。


(彼の声が優しくなる。)


その夏、彼はミシシッピ州の親戚を訪ねた。


(彼はそこで止まる。その移動の意味を、客席の誰もが知っているから。)


シカゴからミシシッピへ。北から南へ。それは、ただの移動じゃなかった。自由から、まだ奴隷の影が残る土地へ。


彼の母親は、何度も言い聞かせたという。「向こうでは、こっちみたいに振る舞っちゃだめよ。白人の前では、目を伏せて。何も言わないで。何も反抗しないで」


(彼の声が苦しくなる。)


十四歳の少年は、うなずいた。


でも——わかってなかったんだろう。何が待っているかなんて。


(ピアノ。ミシシッピの湿った空気のような、重くてじめっとしたコード。)


彼が訪れたのは、マネーの小さな町。人口のほとんどが黒人だったが、権力はすべて白人が握ってた。黒人は、白人の前では「サー」と呼ばなければならなかった。目を合わせてはいけなかった。白人の店の前を通るときは、道の反対側に渡らなければならなかった。


(彼は首を振る。)


彼は、それを知らなかった。


ある日、ブライアントという名前の白人の女が経営する食料品店に、彼は友人たちと入った。そこで、何かを買った。それだけだ。


(彼は間を取る。その後の出来事を語る前に。)


でも、その店を出るとき、彼は何かをしたと言われている。


口笛を吹いた。あるいは、「バイ・ベイビー」と言った。あるいは、手を振った。


ただそれだけ。


それが——理由だった。


(ピアノが止む。真っ暗な沈黙。)


数日後、真夜中。


ブライアントの夫、ロイとその異母兄弟のJ.W.ミラムが、彼の叔父の家を襲った。二人は白人の男たちで、銃を持ってた。彼らはエメットを起こし、連れ出した。


ピックアップトラックに乗せられ、彼は連れ去られた。


(彼の声が震える。老いた男が、70年前の記憶を掘り起こすように。)


何が起こったか、正確には誰も知らない。


知っているのは、彼が戻ってこなかったことだけ。


三日後、タラハチー川で、彼の遺体が見つかった。


重い綿繰り機のファンが首に縛り付けられていた。


(彼はそこで言葉を詰まらせる。次の言葉を出すのに、時間がかかる。)


彼の顔は——見分けがつかなかった。


あまりにひどく殴打されていた。目はえぐられていた。額は陥没していた。歯は折れていた。舌は——言うのも辛い。


(長い沈黙。客席の誰かがすすり泣く。彼はその音を聞きながら、続ける。)


彼の母親は、遺体を見て、泣かなかった。


後で彼女は言ったんだ。「あれは、息子じゃなかった。息子の面影が、そこにはなかった」って。


(ピアノ。葬送のための、低い低いブルース。)


葬儀の日。


マミー・ティルは、決断を下した。


(彼の声が強くなる。その決断の力を、共に讃えるように。)


「棺を開けておいてください」


誰もが反対した。あまりにひどすぎる。彼の顔は、誰にも見せられるものじゃない。彼女の友人たちは言った。「閉じてください。彼の最期の姿は、あなただけの記憶にしてください」


(彼は間を取る。その時の彼女の決断を、自分の中で再現するように。)


彼女は首を振った。


「いいえ。見せます。世界に、見せます」


(ピアノ。一つのコード。力強く。それが決断の音だった。)


その決断が、すべてを変えた。


葬儀場の棺は開かれた。彼の遺体は、黒いスーツに包まれ、白い枕に横たわっていた。でも、彼の顔は——もはや顔ではなかった。


約五万人の人々が、棺の前を通った。


彼らは、泣いた。叫んだ。震えた。


(彼の声が熱を帯びる。)


そして、ある黒人新聞の記者が、その写真を撮った。


棺の中の、エメット・ティルの顔。


黒く変色した皮膚。えぐられた目。折れた歯。すべてが、白黒のフィルムに焼き付けられた。


その写真は、全米に配信された。


(ピアノが止む。彼は自分の十歳の自分を思い出すように。)


俺は、その写真を見た。


十歳の目で。


新聞の一面に、彼の顔があった。もはや顔じゃなかった。でも、その残骸が、語っていた。この国の真実を。この国の暴力を。この国の、黒人に対する憎悪を。


(彼の声が、当時の恐怖を帯びて。)


その夜、俺はピアノを弾けなかった。指が鍵盤に届かなかった。いや、届けようとしなかった。あの写真が、指の先に焼き付いて、音を出せなかった。


母親が、キッチンで泣いてた。父親は、新聞を握りしめ、一言も話さなかった。家の中は、死んだように静かだった。


(彼の声が次第に強くなる。)


でも、外の世界は、違った。黒人街は、怒りに震えてた。


「こんなことが、許されるのか」

「まだ、あの頃と何も変わっていない」

「殺しても罰せられないのか」


(彼は客席を見渡す。)


その怒りは、やがて、大きなうねりになる。


(ピアノ。法廷の重苦しい空気。)


裁判は、ミシシッピ州で行われた。


陪審員は全員白人男性。すべての証拠が、彼らの犯人性を示していた。犯行に使われた銃。彼らが話した言葉。そして、ある女性が証言した。「ロイ・ブライアントが『これが俺だ』と自慢していた」と。


(彼の声には失望が滲む。)


でも、陪審員の評議は、わずか一時間足らずで終わった。


「無罪」


(彼はその言葉を、吐き捨てるように。)


その瞬間、法廷にいた黒人たちは、声を失った。


裁判長は、後にこう語っている。「もし、陪審員がもっと長く議論していたら、彼らはきっと有罪を選べなかっただろう」


(彼はその言葉の意味を噛みしめる。客席に向かって。)


つまり、最初から決まってたんだ。


黒人の少年を殺しても、白人は罰せられない。


それが、この国のルールだった。


(ピアノ。虚無のコード。何も解決されないまま続く時間。)


「あなたは、その後、どうしましたか?」


(彼はまるで誰かに聞かれたかのように、その質問を繰り返す。そして、答える。)


何をしたらいいか、わからなかった。


でも、ある日、ピアノの前に座った。


指を鍵盤に置いた。


(彼はその動作を実際に行う。ゆっくりと。)


そして——一番低い鍵盤を押した。


ド——。


(その音を鳴らす。長く、深く。)


その音が、部屋中に響いた。


それは、嘆きだった。怒りだった。絶望だった。そして、それと同時に——決意だった。


(彼の声が鋭くなる。)


もう二度と、この音を忘れない。

もう二度と、この痛みを忘れない。

そして、この痛みを、音にして伝える。


(彼は鍵盤の上に手を置く。音は鳴らさない。)


それが、俺の始まりだった。


エメット・ティルが、俺に音楽を教えた。優しいメロディーじゃない。美しいハーモニーじゃない。一番低い、一番深い、一番痛い音。


それが、ブルースだ。


(ピアノ。時の流れ。希望の予感。)


彼の死から、数年後。


キング牧師が立ち上がった。マルコムXが語り始めた。アリが拳を掲げた。


(彼ら一人ひとりの名前を、彼は讃えるように。ゆっくりと。)


彼らの背後には、いつもエメットの写真があった。開かれた棺の中の、十四歳の少年。


彼は、彼らの言葉の種になった。彼は、彼らの闘いの炎になった。彼は、彼らの拳の力になった。


(彼は客席を見渡す。誰にでもわかるように。)


エメット・ティルが殺されなければ、誰かが動いただろうか?


わからない。


でも、確かなことは——彼の死が、この国を変え始めた。その、ほんの最初のきっかけになったということだ。


(ピアノ。重い問いかけのコード。)


「でも、彼を殺した男たちは、どうなったんですか?」


(彼はその質問に答える。答えは、この国の恥であるからこそ、はっきりと。)


ロイ・ブライアントとJ.W.ミラムは、無罪になった後、南部で普通に暮らした。


ミラムは、後にある雑誌のインタビューで、こう語っている。


(彼はその言葉を、真似ることもできない。ただ、伝えるだけ。)


「あのガキは、何も言わなかった。最後まで、何も言わなかった」


(長い沈黙。その言葉の非人道性が、空気中に充満する。)


つまり、彼は、自分のしたことを、いまだに誇っているんだ。


(彼の声は静かだが、その静かさの中に鉄が含まれている。)


この国では、そういうことが、まだある。


彼らは罰せられなかった。


でも——彼らの名前は、永遠に呪われた。


(彼は客席の一人ひとりを見つめる。)


エメットの名前は、永遠に語り継がれる。


それが、この国のもう一つのルールだ。


(ピアノ。答えを求めるような、上昇するフレーズ。)


「あなたにとって、エメット・ティルとは何ですか?」


(彼はその質問に答える準備として、まず深呼吸をする。)


彼は、十四歳だった。俺よりも、ずっと若かった。


彼は、ただ親戚を訪ねただけだった。ただ、口笛を吹いただけだった。あるいは、ただ手を振っただけだった。


(彼の声が震える。)


それだけで、殺された。


(彼は自分を律する。声を整える。)


彼は、英雄じゃない。運動家じゃない。指導者じゃない。


ただの、少年だった。


でも、彼の死が、すべてを変えた。


(彼の声が、予言のように。)


彼は、キング牧師の言葉になった。

彼は、マルコムXの炎になった。

彼は、アリの拳になった。

彼は、キャパニックの膝になった。


(彼は客席の天井を見上げる。少年に語りかけるように。)


彼は、この国に問いかけた。


なぜ、私は殺されたのか。

なぜ、私の名前は、まだ語り継がれるのか。

なぜ、あなたたちは、まだ立ち上がろうとしているのか。


(彼はその答えを、自分の言葉で。自分の人生で。)


その答えは、簡単だ。


「もう二度と、こんなことが起こらないように」


それだけだ。


(彼は少し間を置く。その言葉の重さを確かめるように。)


でも、それだけのことが、この国では、まだ遠い。


(ピアノ。結末のないブルース。続いていくためのブルース。)


(彼は最後のコードを鳴らす前に、もう一言。この夜を共に過ごしたすべての人に。)


今夜も、どこかで誰かが開かれた棺を見ているかもしれない。誰かが失われた命を数えている。誰かが「もう二度と」と誓っている。


その誓いを、俺たちは音楽にする。


音にして。リズムにして。コードにして。そして、次の世代に渡す。


それが、俺たちの役目だ。


(彼は鍵盤に指を置く。)


エメット・ティルが、俺に教えた。一番低い音が、一番遠くまで届くことを。一番深い悲しみが、一番強い光を生むことを。


(ピアノ。最後のコード。一番低い鍵盤。ド。長く、長く伸びる。その音は、喜びでも悲しみでもない。それは——約束の音だ。二度と忘れないという約束。そして、その音は、静かに、優しく、消える。)


エメット・ルイス・ティルのために。

1941年7月25日 - 1955年8月28日。

彼は、ただの少年だった。

それだけだった。

誰にも、殺される理由はなかった。


(拍手。深い沈黙の後の、ゆっくりとした拍手。彼は軽く会釈する。その目は、開かれた棺の向こう側を見ている。しばらくの間——長い間、彼は何も言わなかった。ピアノの前に座ったまま、その約束を自分の中で繰り返している。そして、ゆっくりと次の曲へと指を動かす。今度は——その約束を音にするように。一番低い鍵盤から、もう一度。)

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