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ブルー・ワシントンの夜の弾き語り  作者: はまゆう


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第三話 徴兵拒否した男ーーモハメッド・アリ

(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、数小節の軽やかなブルースを奏でる。蝶が舞うような、浮遊感のあるフレーズ。そして、語り始める。)


こんばんは、みんな。俺だ。


今夜は、蝶の話をしよう。蜂の話でもいい。そう、みんな知ってる、あの男の話だ。


(ピアノで軽やかなアルペジオ。)


モハメッド・アリ。


カシアス・クレイ。ルイビルの少年。口が達者で、足が速く、拳が鋭かった。そして何より——誰よりも自由だった。


(彼は客席を見渡す。)


俺が初めて彼の拳を見たのは、シカゴの小さなテレビの画面だった。1960年、ローマオリンピック。十八歳の青年が、ライトヘビー級のリングに上がった。


どうやって言い表せばいいか、今でも言葉が見つからない。


(彼は自分の両手を見つめる。)


彼はただ勝ったんじゃない。舞ったんだ。足が地面から浮いているように見えた。相手のパンチは、すべて数センチのところで空を切る。彼はその隙間に、まるで冗談を言うようにジャブを入れ、笑いながらバックステップを踏む。


蝶のように舞い、蜂のように刺す。


(彼はそのフレーズを、ピアノで表現する。高音で軽やかに舞い、低音で鋭く刺す。)


その言葉が生まれたのは、まだずっと後。でもあの日、俺は確かに見た。蝶であり、蜂であり、そして何よりも——自由だった。


彼は金メダルを取った。表彰台の上で、笑っていた。十八歳の、まだあどけなさの残る笑顔。でもその目は、もう遠くを見ていた。


(ピアノが止む。)


俺はその夜、ピアノの前に座り、新しいリズムを探した。彼のフットワークのように軽やかな、しかし確かな芯のあるリズムを。それが、俺の最初の「アリ・ブルース」になった。


(ピアノ。軽やかなリズムが続く。)


彼はすぐに、プロの世界で騒ぎ始めた。


「俺は史上最高だ」「いや、史上最強だ」「いや、史上最も美しい」


試合前の会見で、彼はそう言って笑った。記者たちは嘲笑した。傲慢な若造だと。


(彼は笑う。その嘲笑を思い出しながら。)


でもな、みんな。彼はリングの上で、その言葉のすべてを証明してみせたんだ。


それまでのヘビー級王者たちは、重厚で、ゆったりとしていて、破壊力が売りだった。彼は違った。彼は軽やかだった。速かった。そして、口を開ければ、誰も聞いたことのないような言葉が飛び出す。


「蝶のように舞い、蜂のように刺す。お前のパンチは届かない。お前の目には、俺の拳だけが見える」


(彼はピアノでそのリズムを刻む。言葉にリズムがあることを示すように。)


その言葉、韻を踏んでるだろ?まるで詩だった。いや、ブルースだった。彼はリングの上で、ブルースを歌っていた。拳を言葉に変え、言葉をリズムに変え、リズムで相手を打ちのめす。


(彼は自分の指を見る。)


俺は彼の試合のたびに、テレビの前に釘付けになった。彼の動きを見ながら、頭の中であのフレーズをコードに乗せた。彼はアスリートだった。でもそれ以上に、彼はアーティストだった。


(ピアノのリズムが変わる。緊張感のある、試合前の空気。)


1964年2月25日。マイアミビーチ。


ソニー・リストンとの一戦。リストンは当時のヘビー級王者。凶暴なパンチと無表情の恐ろしさで、「最も恐れられる男」と呼ばれていた。


誰もがカシアスに勝ち目はないと言った。「若すぎる」「軽すぎる」「経験が足りない」。記者たちはそう書いた。


(彼は客席を指さす。)


試合前の検量。カシアスは体重210ポンドだった。リストンは218ポンド。でも数字以上に、二人の体格差は明らかだった。リストンの拳は、カシアスの頭と同じくらいの大きさに見えた。


カシアスは、その検量の場で、叫んだ。


「俺は世界を揺るがす!」

「みんな、俺の言うことを聞け!」

「俺は世界一偉大な男だ!」


(彼はその言葉を、アリのように力強く。でも少し笑いを込めて。)


記者たちは笑った。リストンは無表情で、彼を一瞥もせずに立ち去った。


翌日、リングの上で——彼は蝶のように舞った。


(ピアノ。軽やかに、しかし激しく。)


リストンの凶暴なパンチは、すべて空を切った。彼は六ラウンドまで、たった一発もクリーンヒットを許さなかった。そして第七ラウンド。コーナーに追い詰められたリストンが、椅子に座ったまま、タオルを投げた。


(ピアノが一瞬止む。決着の一音。)


カシアス・クレイが、世界ヘビー級王者になった。二十二歳。


その夜、彼は記者会見で、こう宣言した。


「俺はカシアス・クレイじゃない。俺は、ムハンマド・アリだ」


(ピアノ。その名前に敬意を込めた、低いコード。)


その知らせは、瞬く間に黒人街に広がった。


ムハンマド・アリ。彼はイスラム教徒になった。マルコムXの導きによって。


(彼は声を潜めて。)


多くの白人が怒った。黒人の中にも、彼の決断を受け入れられない者がいた。「カシアス・クレイ」という名は、リングの外でも通用する名だった。それを捨てることは、自らチャンスを捨てることだと。


でも、彼は言った。


「カシアス・クレイは、奴隷の名前だ。俺は、自分で自分の名前を選ぶ」


(彼はその言葉の重みを噛みしめるように、間を取る。)


その言葉は、マルコムXの「X」と同じ重みを持っていた。名前を捨てる。自分で選ぶ。自由とは、それだけのことではない。でも、それだけのことが、この国では革命だった。


(彼は自分の胸に手を当てる。)


俺はスタジオで、彼の記者会見のテープを繰り返し聴いた。その言葉が、コードになった。メロディーになった。ブルースになった。


彼は、リングの上だけで戦っていたんじゃない。名前の上でも戦っていた。存在の上でも戦っていた。彼の拳は、白人社会の顔面を殴っていたのではなかった。彼の存在そのものが、白人社会の顔面を殴っていたんだ。


(ピアノのリズムが重くなる。戦争の足音のように。)


1967年。ベトナム戦争。


徴兵指令が彼の元に届いた。当時のヘビー級王者として、彼は軍隊に従うことが期待されていた。ジョー・ルイスも、ジャック・ジョンソンも、戦争には従った。それが「アメリカ人」としての責任だと。


(彼は首を振る。)


彼は拒否した。


「俺は、ベトコンと呼ばれる人たちと喧嘩したことはない」

「俺は、俺に『ニガー』と呼びかける人たちと戦いたくない」


(彼の声が強くなる。)


記者会見で、彼はそう語った。その顔は、かつての軽やかさを失っていた。そこには、決断を下した者の重みがあった。


「俺の敵は、ベトナムのどこにもいない。俺の敵は、ここにいる。この国の中に。黒人を犬のように扱い、飢えさせ、名前を奪い、それでも『愛国心』を要求する者たちの中に」


(長い沈黙。ピアノの音も止まっている。)


彼の言葉は、リングの外で、より鋭く、より深く、人々の胸に刺さった。


彼は王座を剥奪された。ボクシングコミッションは彼のライセンスを取り消した。彼は三年半、リングに上がることができなかった。禁じられた。


(彼は客席を見渡す。)


その間、彼は大学のキャンパスを巡り、反戦運動のシンボルとして語り続けた。彼の声は、キング牧師の声と、マルコムXの声と、重なった。


三人の預言者。三人の声。三人とも、この国に拒絶された。


でも、彼らの声は、消えなかった。


(ピアノ。復活のテーマ。力強く、ゆっくりと。)


1970年。アトランタ。


彼がリングに戻る日だった。三年半ぶりの試合。相手はジェリー・クォーリー。


(彼の声が興奮を帯びる。)


会場は熱気で震えていた。俺は、最前列の端っこに座っていた。誰かからチケットを譲ってもらったんだ。彼の復帰を、この目で見届けたかった。


彼が入場してきたとき、会場の歓声は、物理的な圧力になった。鼓膜が痛い。胸が震える。隣の見知らぬ男が、涙を流しながら叫んでいた。


「アリ! アリ! アリ!」


(彼はその場面を思い出すように、目を閉じる。)


彼はリングに上がった。三年半のブランク。二十九歳。かつての軽やかさは、少しだけ鈍っていた。でも、彼はまだ、蝶だった。


試合は十五ラウンドまで続いた。判定は、彼の勝利。


(彼は目を開ける。)


試合後、リングの上で彼は言った。


「まだ、俺はここにいる。まだ、誰も俺を止められない」


(ピアノ。勝利のコード。しかし、どこか哀しさも混ざっている。)


俺はその夜、ホテルの部屋で、ピアノを弾いた。彼のためのブルース。三年半の沈黙を破る、轟音のブルース。


彼は、リングの上で、何よりもまず、存在し続けることを証明した。この国が彼を禁じても、彼は消えなかった。彼は、立っていた。


(ピアノ。アフリカのリズム。異国の風。)


1974年10月30日。ザイール。今のコンゴ民主共和国だ。


「キンシャサの奇跡」。ジョージ・フォアマンとの一戦。


(彼は説明するように。)


フォアマンは、当時の絶対的な王者だった。無敗。すべての試合をKOで制していた。彼のパンチは、誰もが避けられないと言われた。


アリは、三十二歳。


誰もが、彼に勝ち目はないと言った。「終わった」「引退すべきだ」「若さには勝てない」


(彼は笑う。その予想を覆すことを知っているから。)


試合前の一週間、アリはザイールの村々を訪れ、現地の人々と触れ合った。彼は彼らに言った。「俺は、お前たちのために戦う」と。


現地の人々は、彼を迎えた。


「アリ、ボンバイエ! アリ、ボンバイエ!」


(彼はその言葉を、現地のリズムで。アリ、殺せ。彼らはそう叫んだ。)


アリ、殺せ。


(彼は客席を見る。)


俺はテレビの前で、その光景を見ていた。彼は、もはやただのボクサーではなかった。彼は、世界の黒人の象徴だった。彼の拳は、三千万人の魂の拳だった。


(ピアノ。試合開始のゴングのような音。)


試合が始まった。


フォアマンは、最初から猛攻を仕掛けた。アリは、ロープに寄りかかり、両腕でガードを固めた。


(彼はその場面を再現するように、体を後ろに引く。)


誰もが息を呑んだ。彼は、ただ受け続けている。打たれ続けている。


「ロープ・ア・ドープ」。それが彼の戦略だった。フォアマンの拳を受け続け、消耗させ、そして——


(ピアノ。緊張が高まる。)


第八ラウンド。フォアマンの拳が、明らかに鈍った。その瞬間、アリが動いた。


右ストレート。


(彼はそのパンチを、ピアノの一音で表現する。強烈な一打。)


フォアマンが倒れた。彼は起き上がれなかった。


(ピアノが止む。静寂の後、歓声のようなコードの連打。)


アリは、リングの中央に立ち、両腕を上げた。その顔は、疲れ果てていた。でもその目は、十八歳で金メダルを取ったあの日と同じように、遠くを見ていた。


「俺は、史上最高だ」


(彼はその言葉を、アリと同じように。力強く、誇りを持って。)


彼はそう言って、微笑んだ。


(彼は自分の目尻を拭う仕草をする。)


俺はテレビの前で、声を出して笑った。涙が出ていた。


彼は、誰も信じなかったことを証明した。彼は、誰もが諦めろと言ったことをやり遂げた。彼は、ただのボクサーじゃなかった。彼は、希望そのものだった。


(ピアノ。時間の経過を感じさせる、ゆっくりとしたコード。)


その後、彼は何度もリングに上がった。


年を重ねるごとに、彼の動きは鈍くなった。蝶は、もう舞えなかった。でも、蜂の刺し方は、まだ鋭かった。


1975年、マニラでのジョー・フレイジャーとの三度目の対戦。「スリラ・イン・マニラ」。死闘だった。十四ラウンドまで、二人は殴り合い、殴り合い、殴り合った。


(彼はその場面を想像するように、遠くを見る。)


フレイジャーのトレーナーが、タオルを投げた。アリは、自分のコーナーで、立ったまま倒れ込んだ。


試合後、彼は言った。「これが、死に一番近い経験だった」


(彼の声が優しくなる。)


彼は、もはや神話ではなかった。彼は、傷つき、疲れ、倒れそうになりながらも、立ち続ける一人の男だった。それが、かえって彼をより人間らしく、より偉大に見せた。


(ピアノ。黄昏のような、終わりを感じさせるフレーズ。)


彼の最後の試合を見たのは、1981年12月。バハマ。


相手はトレバー・バービック。無名の若者だった。アリは三十九歳。もう、蝶の面影はどこにもなかった。


(彼は静かに。)


彼は、十ラウンドで判定負けした。リングを降りる彼の背中は、重そうだった。


でも、彼はリングを降りた後、カメラに向かって言ったんだ。


「俺は、誰も後悔していない。俺は、俺のやりたいことをやった。誰にも、俺の人生を決めさせなかった」


(彼はその言葉を、ゆっくりと、一言一言噛みしめるように。)


その言葉は、彼のすべてを語っていた。


彼は、リングの上で戦った。リングの外でも戦った。名前の上でも戦った。存在の上でも戦った。


彼は、誰にも決めさせなかった。自分が誰であるかを。自分が何を信じるかを。自分がどのように生きるかを。


(ピアノ。悲しみと敬意が混ざった、低いブルース。)


2016年6月3日。彼は、逝った。


七十四歳。パーキンソン病と三十年以上闘い続けた。あの軽やかな拳を操っていた体は、震え、硬直し、言葉もままならなかった。


(彼の声が少し詰まる。)


でも、彼の目は、最後まで輝いていた。最後のインタビューで、彼は、かすれた声で言った。


「俺は、まだ史上最高だ」


(長い沈黙。ピアノの音も止まっている。)


俺はそのニュースを、スタジオで聞いた。ピアノの前に座ったまま、長い間、動けなかった。


彼の声が、頭の中を駆け巡る。


「蝶のように舞い、蜂のように刺す」

「俺は史上最高だ」

「俺は、自分で自分の名前を選ぶ」

「俺の敵は、ここにいる」

「誰にも、俺の人生を決めさせなかった」


(彼は自分の指を見つめる。)


彼は、キング牧師の光を浴びた。彼は、マルコムXの炎に身を投じた。そして、彼自身の拳で、彼自身の道を切り開いた。


三人の預言者。三人とも、この国に拒絶された。三人とも、銃弾には倒れなかったが、時間には倒れた。


でも、彼らの声は、消えない。


(彼は鍵盤に指を置く。)


キング牧師の言葉は、俺のコードになった。マルコムXの炎は、俺のリズムになった。アリの拳は、俺のブルースになった。


(彼は客席を見渡す。もう一度、最初の軽やかさを取り戻して。)


さて、みんな。


俺はピアノの前に座る。譜面台には、彼の写真。金メダルを首にかけ、十八歳で笑っている。その横には、ロープに寄りかかり、フォアマンの拳を受け続ける、三十二歳の姿。その横には、震える手で五輪の聖火を掲げる、老いた姿。


(彼は鍵盤に指を置く。)


低い、低い、ブルースのベースライン。それに乗せて、軽やかな右手のメロディー。


(そのフレーズを奏でる。)


蝶のように舞い、蜂のように刺す。


彼は、歌った。拳で、言葉で、存在で。彼の人生は、一つの長いブルースだった。喜びと、痛みと、怒りと、希望と、それらすべてがひとつになったブルース。


(ピアノが静かに止む。)


そのブルースは、終わらない。彼の拳は、もう振るわれない。でも、彼のリズムは、俺の指先に生きている。


(彼は鍵盤に指を置く。最後のコードを鳴らす前に、もう一言。)


彼は舞った。蝶のように。

彼は刺した。蜂のように。

彼は選んだ。自分の名前を、自分の道を。

彼は立った。誰にも、決めさせなかった。


(ピアノ。最後のコード。長く、長く伸びる。そして、静かに消える。)


カシアス・クレイのために。

ムハンマド・アリのために。

1942年1月17日 - 2016年6月3日。

彼は舞った。ただ、それだけだった。

誰にも、止められなかった。


(拍手。温かい、しかし深い敬意を込めた拍手。彼は軽く会釈する。その目は、蝶が舞ったあのリングを見ている。しばらくの間——長い間、彼は何も言わなかった。ピアノの前に座ったまま、その余韻に浸っている。そして、ゆっくりと次の曲へと指を動かす。今度はもっと軽やかに。もっと自由に。蝶のように。)


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