表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブルー・ワシントンの夜の弾き語り  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/9

第二話 名前を燃やす者 ーーマルコム

第一話 名前を燃やす者


——ブルー・ワシントンの夜の語り


(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、数小節のブルースを奏でる。そして、語り始める。)


---


こんばんは、みんな。俺だ。


今夜は、マルコムXの話をしよう。


(ピアノで低い音を一つ。)


俺が初めて彼の名前を聞いたのは、シカゴのクラブの片隅だった。1960年。俺はまだ駆け出しのピアニストだった。演奏が終わり、汗を拭いながらバーボンを舐めていると、隣のテーブルで黒人新聞を広げた男が呟いたんだ。


「ハーレムに新しい預言者がいるらしい」


(彼は少し間を置く。)


俺は新聞を借りた。そこには一人の男の写真があった。細身のスーツに細いネクタイ。眼鏡の奥の目は、カメラをまっすぐに見据えていた。その視線には、何かを求めるような、何かを訴えるような、それでいて一切の譲歩を拒むような鋭さがあった。


名前はマルコムX。


(彼は鍵盤から手を離す。)


X——未知数。数学の授業でなら、解くべきもの。でもな、ここでは違った。それは、失われたものだった。奪われたものだった。奴隷船に乗せられる前にあった、本当の名前。それを示す、空白。


その空白が、なぜか俺の胸に引っかかった。


音楽で言えば、休符だ。音のない部分が、かえって最も強い意味を持つことがある。彼のXは、そんな休符のように、沈黙のように、しかしその沈黙がこれ以上ないほど雄弁に語りかけていた。


(彼は自分の譜面台を指さす。)


俺はその新聞の切り抜きを、ピアノの譜面台に挟んだ。何年もの間、そこにあった。


---


(ピアノ。低く、地の底から這い上がってくるようなベースライン。)


彼の生まれは、オマハ。1925年5月19日。


雷鳴の夜だったと聞く。彼の母ルイーズは白い木造家屋の二階で、痛みに耐えながら産声を待った。双子だった。弟はすぐにウィルフレッドと名付けられた。でも、兄は数日間、名無しのままであった。


特別な名が必要だと母は言った。その名は、後にマルコムと決まった。


マルコム・リトル。


誰も知らなかった。この名がやがて、燃えるように変わり、燃えるように語り、燃えるように消えることを。


(ピアノが止む。)


彼の最初の記憶は、炎だった。


四歳のとき、ミシガン州ランシングの自宅が、白いフードをかぶった男たちに包囲された。真夜中だった。母は彼と三人の兄弟を抱きしめ、床に伏せた。窓ガラスが割れる音。誰かの怒号。そして、マッチの擦れる音。


「燃えろ、黒んぼども。ここから出ていけ」


(彼は声を潜めて。)


彼は母の腕の中で震えた。母は震えなかった。母は静かに、しかしはっきりと呟いた。


「見なさい、マルコム。これが彼らよ。これが、この国の正義とやらよ」


炎が庭の生垣を飲み込み、家の壁を這い上がった。隣家の白人たちは、窓からそれを見ているだけだった。助けようとしない。手を貸そうとしない。ただ、炎の明かりを、まるで花火でも見るように眺めていた。


消防車が来たのは、家の半分が焼け落ちた後だった。


(彼は鍵盤に指を置く。)


俺はその話を聞いたとき、ブルースの旋律が頭に浮かんだ。低い、低い、地の底から這い上がってくるようなベースライン。それは彼の生涯を通じて響き続ける、最初の音だった。


(そのフレーズを実際に奏でる。)


---


(ピアノが止む。彼は客席を見渡す。)


六年後、彼の父が死んだ。


路面電車に轢かれた。公式には「事故」だった。でも、黒人街の誰もが「事故」とは思わなかった。父は白人から「黒すぎる」と嫌われ、黒人からは「白すぎる」と嫌われていた。マーカス・ガーベイの黒人ナショナリズムを説く父は、常に標的だった。


遺体は損傷が激しく、彼は棺の中の父の顔を見ることが許されなかった。


(長い沈黙。)


母は精神を病んだ。七人の子どもたちはバラバラにされた。マルコムは、ミシガン州メイソンの養護施設に送られた。そこで彼は、ただ一人の白人にだけ、親切にされた。


スワンソン先生。彼女は彼に本を読むことの喜びを教えた。彼は貪欲に読んだ。図書館の本をすべて読み尽くすつもりでいた。彼女は言った。「あなたはとても賢い。きっと、いつか偉くなるわ」


彼はその言葉を信じた。信じたかった。


(彼の声が低くなる。)


しかし、中学三年生のとき、担任の教師に言われた。


「君は黒人だ。弁護士になる夢は諦めなさい。現実を見なさい」


(ピアノが止む。彼は鍵盤から手を引く。)


彼はその言葉も信じた。そして、信じることをやめた。


俺はその話を思うたびに、ピアノの鍵盤から手を引く。沈黙。何も弾けない。彼がその日、心の中で何かを閉ざしたように、俺の指も止まる。


信じることをやめる。それは、世界の音を遮断することだ。音楽で言えば、聴くことをやめる。


彼はその後、長い間、誰の言葉も聴かなかった。聴く必要がなかった。世界が、彼に聴く価値のあるものを何も与えなかったからだ。


(ピアノ。一つの音。虚無のように。)


---


(ピアノのリズムが変わる。刑務所の重い鉄の扉のような音。)


ボストン。ハーレム。そして、刑務所。


1946年、彼は二十歳だった。窃盗罪で、チャールズタウン州立刑務所に送られた。そこでの十年——彼は後に「大学」と呼んだ。


(彼は少し笑う。苦い笑い。)


囚人仲間のビンブリーから、彼はイスラム教を知った。エリヤ・ムハンマドの言葉を知った。「白人とは悪魔である」という過激な教えは、彼のこれまでの人生すべてに、初めての「説明」を与えた。


彼は手書きで辞書を丸ごと書き写した。一ページ、また一ページ。獄中の灯りの下で、指は真っ黒になり、目は霞んだが、彼は止まらなかった。文字が、言葉が、知識が、彼の中で武装していくのを感じた。


(ピアノが力強くなる。)


出所した1952年、彼は名字を捨てた。


「リトル」——それはかつて白人奴隷主が先祖に与えた名前だった。彼はそれを、燃えるゴミのように捨てた。


代わりに、Xを取った。


マルコムX。


未知。失われた真の名。取り戻すべきものの象徴。


彼はエリヤ・ムハンマドの下、ハーレムの寺院で語り始めた。


---


(ピアノが止む。彼は客席を見る。)


俺が初めて彼の声を聴いたのは、その数年後だ。


レコード屋で、彼の演説のLPを見つけた。ジャケットには、彼の鋭い目と、上げられた人差し指。俺はそれを買い、スタジオに持ち帰った。


針を落とす。ノイズ。そして、彼の声。


(彼は目を閉じる。その声をもう一度聴くように。)


声は低かった。キング牧師のような朗々とした響きではない。もっと地の底から這い上がってくるような、唸りのある声だった。


「お前たちは『我々には時間を』と言う。『我々には忍耐を』と言う。だが、お前たちは百年間、我々に何も与えなかった!」


拳が何かを叩く音。


「公民権法だと? あんなものは紙くずだ。銃を持った男の前で、紙切れがお前を守れると思うか?」


(彼の声が徐々に熱を帯びていく。まるで自分がその場にいるかのように。)


彼の声は熱を帯びていく。会場の拍手、叫び、足音。熱気がスピーカーから溢れ出した。


「非暴力だと? お前たちは殴られても殴り返さないと言う。だが、私に言わせれば、それは犬に噛まれても噛み返さないのと同じだ。犬に噛まれたら、私は犬を殺す!」


(彼はそこで止まる。目を開ける。)


俺はその言葉に、ゾクッとした。キング牧師の「愛」に心を震わせたことが何度もあった。でも、この声は違った。それは、愛ではなかった。それは、痛みだった。怒りだった。何年も、何百年も、押し殺してきたものが、ついに爆発する音だった。


(彼は自分の胸に手を当てる。)


俺はそのLPを何度も聴いた。何度も何度も。彼の声が、俺の音楽に入り込んできた。


キング牧師の声が光だとすれば、マルコムXの声は炎だった。燃えるような、焼き尽くすような、しかしその熱さの中に、かえって純粋な何かがあった。


(ピアノ。炎のような速いフレーズ。)


---


1964年、彼はメッカへ向かった。


(ピアノのリズムが変わる。巡礼の、静かな歩調。)


その知らせは、音楽業界の黒人たちの間でも衝撃をもって広まった。マルコムXが——あの「白人悪魔論」のマルコムXが——イスラム教の大巡礼に出るというのだ。


彼は変わった。あの過激な教えを、自らの手で燃やした。


かつての仲間たちは彼を「裏切り者」と呼んだ。命を狙う者もいた。自宅には火炎瓶が投げ込まれ、彼と妻ベティ、四人の娘たちは、何度も引っ越しを強いられた。


(彼の声が強くなる。)


それでも、彼は語り続けた。


「私はこれまで、多くの間違いを犯してきた。しかし、間違いを認めることを恥ずかしいとは思わない。恥ずかしいのは、間違いに気づきながら、それを認めないことだ」


(彼は鍵盤に指を置く。新しい曲を弾くように。)


俺はその言葉を聞いたとき、ピアノの前に座り、新しい曲を書き始めた。タイトルは「Changing Man」。変わることを恐れない男への、賛歌だった。


彼は変わることを選んだ。それは、自分の過去を否定することではなかった。燃やしたものは、灰になって、新しい種を育てる土になったのだ。


(ピアノ。その曲の一部を奏でる。)


---


(ピアノの音が突然止む。沈黙。)


1965年2月21日。ニューヨーク、オーデュボン・ボールルーム。


(彼の声が低くなる。)


俺はその日、ツアーで西海岸にいた。朝、ホテルのテレビをつけたら、ニュース速報が流れていた。


「マルコムX、暗殺される」


(彼はそこでもう一度繰り返す。その言葉の重みを噛みしめるように。)


マルコムX、暗殺される。


画面には、彼が倒れた演台の写真。血の跡。割れたメガネ。会場から運び出される担架。


(長い沈黙。)


俺はテレビの前に立ち尽くした。ピアノはない。音はない。ただ、テレビから流れるアナウンサーの無機質な声だけ。


「演説中、複数の男に銃撃されました。搬送先の病院で死亡が確認されています。彼は、三十九歳でした」


(彼はそこで止まる。)


三十九歳。キング牧師も同じ年だった。同じ三十九歳。


俺はホテルの窓から外を見た。西海岸の空は、青く澄んでいた。その青さが、なぜか憎らしかった。


---


(ピアノ。葬儀の鐘のような低い音。)


彼の葬儀は、ハーレムのフェイス・テンプル教会で行われた。


オシア・デイヴィスが弔辞を読んだ。


「ここに横たわるのは、私たちの誇り高き兄弟だ。彼は多くの名を持った——マルコム・リトル、マルコムX、エル=ハッジ・マリク・エル=シャバーズ。しかし、私たちにとって彼はただ『私たちの黒い王子』だった」


(彼は客席を見渡す。)


会場の外では、一万五千人もの人々が集まっていた。彼らは寒さの中、黙って並び、最後の別れを待っていた。その列は数十ブロックに及んだ。


俺はその中に、白人の若者たちが混じっているのを知った。彼らは、かつてマルコムが「悪魔」と呼んだ人種の者たちだった。でも、彼らはそこにいた。最後の別れを惜しむかのように。


(彼の声が遠くを見るように。)


彼は変わった。そして、彼が変わったからこそ、彼の死は、まだ変わらざるを得ない多くの人々の胸に、何かを刻みつけた。


---


(ピアノ。朝の空気のような、静かで透明なフレーズ。)


彼の死から数年後、俺はハーレムを歩いた。


朝の五時。彼が好きだったという時間。街はまだ誰のものでもない。


百二十五丁目を歩きながら、彼の言葉を思い出していた。


「俺に会うなら、朝がいい。朝の五時、ハーレムの街を歩いている。あの時間は、街がまだ誰のものでもないからな」


(彼は目を閉じる。)


ある角で、俺は立ち止まった。かつて彼が演説した寺院の跡。今は別の建物になっていたが、その場所に立つと、彼の声が聞こえる気がした。


「俺に言わせれば、この国は裁判所で正義が実現するのを待っている間に、何世代もの黒人が墓の中に消えていった。俺は待たない。待つことは、死ぬことと同じだ」


(彼はゆっくりと目を開ける。)


彼の声は、今もここにある。彼の怒りは、彼の痛みは、彼の変化は、彼の最後の言葉は——すべて、この街の空気の中に、まだ残っている。


(彼の声が優しくなる。)


彼が撃たれた時、誰かが彼の口に耳を寄せたと言う。彼が最後に言った言葉は——「何も怖くない」。


それが何を意味するのか、俺にはわからない。でも、一つだけ確かなことがある。


(彼は鍵盤に指を置く。)


彼は、名前を燃やした。白人奴隷主が与えた名前を、彼は燃やした。自分を縛るあらゆる枠組みを、彼は燃やした。そして最後には、自分自身の過去の信念さえも、彼は燃やした。


灰の中から、新しい名前が生まれた。


それはXではなかった。それは、自由への——


(ピアノ。その言葉を音にしたような、未完のコード。)


---


(彼は客席を見渡す。一人ひとりに語りかけるように。)


俺はスタジオに戻り、ピアノの前に座った。


譜面台には、あの新聞の切り抜き。彼の鋭い目が、俺を見つめていた。


俺は鍵盤に指を置いた。低い音から始まるブルース。地の底から這い上がってくるような、唸りのあるベースライン。それは彼の声だった。


(そのベースラインを奏でる。)


キング牧師の声は光だった。マルコムXの声は炎だった。


光は照らす。炎は燃やす。照らされるだけでは、何も変わらない。燃やさなければ、新しいものは生まれない。


彼は燃やした。差別を。屈従を。そして自分自身の限界さえも。その炎は、彼自身をも焼き尽くした。


でもな、灰は土になる。土から、新しい何かが芽吹く。


(ピアノ。その「新しい何か」を予感させる、優しいコード。)


---


(彼はピアノの蓋に手を置く。)


彼は燃やした。名前も、過去も、限界も。

彼は変わった。変わることを、恐れなかった。

彼は死んだ。しかし、彼のXは、代数のように——未知数として、永遠に残り続ける。


(長い沈黙。)


でもな、名前を呼ぶ声は消えない。燃えた灰の中から、新しい名前が生まれる。その名前は、まだ誰も知らない。Xのままかもしれない。あるいは、自由への——まだ見えない何かかもしれない。


(彼は鍵盤に指を置く。最後のコードを鳴らす前に、もう一言。)


静かに。

繰り返し。

祈りのように。

ブルースのように。


(ピアノ。最後のコード。長く、長く伸びる。そして、静かに消える。)


---


マルコムXのために。

1925年5月19日 - 1965年2月21日。

彼は燃やした。ただ、それだけだった。

そして、灰の中から、まだ名もなきものが芽吹く。


(拍手。深い敬意を込めた拍手。彼は軽く会釈する。その目はどこか遠くを見ている。しばらくの間——長い間、彼は何も言わなかった。ピアノの前に座ったまま、その余韻に浸っている。そして、ゆっくりと次の曲へと指を動かす。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ