第二十八話 私はアメリカを疑う——ファニー・ルー・ハマー
(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、教会のリズムに乗せて、力強く、少し荒々しいゴスペルのコードを弾く。)
こんばんは、みんな。俺だ。
今夜は、味方からも「もう少し静かにしてくれ」と言われた女の話をしよう。
(彼は少し笑う。)
英雄ってのは、いつも敵とだけ戦うわけじゃない。時々、一番厄介な相手は、自分の隣に座ってる仲間だったりする。
ファニー・ルー・ハマー。
(ピアノ。1917年、ミシシッピ州モンゴメリー郡。)
1917年10月6日生まれ。20人兄弟の末っ子。祖父母は奴隷だった。6歳から綿花畑で働き始めた。子供の頃にかかった小児麻痺のせいで、生涯、足を引きずって歩くことになった。
(彼の声に、その始まりの過酷さが込められる。)
1944年、パーシー・ハマーと結婚。夫婦でサンフラワー郡のマーロウ農園で小作を続けた。彼女は字が読めたから、農園の帳簿係も任された。読み書きができるというだけで、この抑圧の仕組みの中では、それは小さな権力だった。
(ピアノ。1961年。病院のベッド。)
1961年、腹痛で入院した。子宮に腫瘍が見つかった。彼女は、その腫瘍の摘出手術に同意した。だが、白人医師は、彼女の同意なく、子宮そのものを摘出していた。
(彼の声に、その裏切りの重さが込められる。)
当時、貧しい黒人女性にこの手術が横行していた。誰もが、それを陰でこう呼んでいた。「ミシシッピの虫垂切除」。
(彼は間を置く。)
彼女は後に、この件を批判する手紙を、州選出の上院議員イーストランドに送っている。彼を「反吐が出る」と名指しで非難した。イーストランドと同僚議員は、議会記録の中で、彼女の主張そのものを否定した。
(彼の声に、その二重の暴力——奪われたことと、否定されたこと——が込められる。)
(ピアノ。1962年。集会。人生を変える一夜。)
1962年、彼女はSNCC(学生非暴力調整委員会)の集会に足を運んだ。そこで初めて知った。黒人にも、投票する権利がある、と。45歳になるまで、彼女はそれを知らなかった。
彼女は、その足で投票登録に向かった。結果——彼女は解雇され、農園から追い出された。
(彼の声に、その代償の大きさが込められる。)
だが、彼女は止まらなかった。
(ピアノ。1963年。ウィノナの留置場。)
1963年6月、彼女と仲間たちは、ミシシッピ州ウィノナのバス停食堂で、白人専用のカウンターに座った。警察が呼ばれ、彼女らは逮捕された。留置場の中で、彼女は看守に、他の囚人を使って殴らせられた。その傷は、生涯癒えなかった。
(彼は間を置く。)
それでも、彼女は歌った。留置場の中で、賛美歌を歌い続けた。
(ピアノ。1964年。アトランティックシティ。民主党全国大会。)
1964年、彼女はミシシッピ自由民主党(MFDP)の結成に関わり、代表としてアトランティックシティの民主党全国大会に乗り込んだ。目的はただ一つ——白人だけで構成された正式代表団の代わりに、MFDPを議席に着かせること。
彼女は、資格審査委員会でテレビカメラの前に立ち、証言した。農園を追われたこと。ウィノナの留置場で殴られたこと。全て、自分の言葉で語った。
(彼の声に、その証言の重みが込められる。)
「もしミシシッピ自由民主党が今、議席に着けないなら——私はアメリカという国そのものを疑う」
(彼は間を置く。)
ジョンソン大統領は、この証言がテレビで流れることを恐れた。彼は同じ時間に、急遽、大統領記者会見を開いた。彼女の声を、電波から締め出そうとした。
(彼の声に、その姑息さへの怒りが込められる。)
だが、彼の作戦は失敗した。多くの局が、その夜のニュースで、あらためて彼女の証言を流した。結果——締め出そうとした分だけ、彼女の声はより多くの人に届いた。
(ピアノ。だが、彼女を締め出そうとしたのは、大統領だけじゃなかった。)
そして、ここからが厄介なところだ。
民主党の指導部は、妥協案を持ちかけた。MFDPに、投票権のない「名誉議席」を二つだけ与える、という案だ。ハンフリー副大統領候補、そして公民権運動の穏健派指導者たちまでもが、彼女にこう説得した。「これを受け入れてくれ。党の結束のためだ」
(彼の声に、その圧力の重さが込められる。)
彼女は、はねつけた。
「私たちは、疲れ果てるほど遠くまで来た。それが、たった二つの名誉議席のためだったなんて、認めない」
(彼は間を置く。)
味方からも、こう言われた。「彼女は頑固すぎる」「政治というものが分かっていない」。だが、彼女は、政治的な駆け引きより、原則を選んだ。
(ピアノ。妥協せずに歩き続けた、その後の人生。)
その後も、彼女は闘い続けた。1967年、サンフラワー郡の州上院議員選挙に出馬。1969年には、フリーダム・ファーム協同組合を設立した。土地、食料、住居——貧困の連鎖から人々を救うための、具体的な仕組みだった。彼女は、演説だけの人間じゃなかった。
(彼の声に、その実務家としての一面が込められる。)
(ピアノ。最後のコード。ゴスペルの力強さを、少しだけ疲れた響きに落として。)
「あなたにとって、ファニー・ルー・ハマーとは何ですか?」
(彼はその答えを、静かに語る。)
彼女は、体を奪われた。仕事を奪われた。家を奪われた。それでも、声だけは、誰にも奪わせなかった。
そして、その声は、時に敵より、味方を居心地悪くさせた。大統領からも、自分の陣営の指導者たちからも。彼女は、誰の都合にも合わせなかった。
(彼は客席を見渡す。)
俺たちは、闘う人間には「協調性」を求めたがる。だが、原則を曲げない人間がいなけりゃ、妥協はどこまでも際限なく続く。彼女は、その最後の一線を、たった一人で守り抜いた女だった。
(ピアノ。優しく消える。)
ファニー・ルー・ハマーのために。
1917年10月6日 - 1977年3月14日。
彼女は、疲れ果てるほど遠くまで来た。
それでも、二つの席では、満足しなかった。
(拍手。彼は軽く会釈する。その目は、1964年のあの証言台を見ている。カメラの前で、震えず、怯まず語る一人の女の姿を。彼は少し目を伏せて、次の曲へと指を動かす。留置場で彼女が歌っていたという、あの賛美歌の旋律を。)




