第23話 夜の馬車と、薬草の残り香
窓の外を流れる夜の景色は、吸い込まれそうなほどに深い黒だった。
王立学園の敷地を抜け、馬車が街道へと入ってからどれほどの時間が経っただろうか。会話などもほとんど無く、規則正しく響く蹄の音と、車輪が時折跳ねる振動だけが、今の私が現実の世界に繋ぎ止められている唯一の証左のように聞こえる。
「……落ち着かないかね、レイナ君」
向かいの座席から、穏やかだが重みのある声が届いた。
学園長。シルバーグレイの髪を夜目に光らせる老紳士は、小さな魔導ランプの灯りの下で、一冊の古い手帳に目を落としていた。
彼の纏う魔力は、いつ見ても圧倒的だ。
それはカトレア様の放つ刺すような『純金』の光とは違う。夜空の星々を一つに束ねたような、静謐でいて全てを等しく照らし出す――至高の白銀、『天光』。
その光は、私の不完全な『灰』の領域を否定することなく、ただ静かに隣り合っていた。――まるで、世界から拒絶され続けてきた私に、『そこにいてもいいのだ』と道標を立ててくれているような、そんな穏やかな光
「いえ。……ただ、少しだけ、不思議な感覚なだけです」
私は短く答え、左手首の銀の腕輪をそっとなぞった。
出発の直前、カトレア様から手渡された不器用な贈り物。ひんやりとした金属の感触が、高ぶる神経をわずかに鎮めてくれる。
(……不思議、だわ。あんなに嫌っていたはずの場所なのに)
数週間前、アッシュベルクの霧の中から逃げるようにやってきた時、私はこの学園を「自分を縛る檻」だと思っていた。
けれど、去り際に見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。
「お土産、絶対に忘れないでね! 王都で一番流行ってるお菓子がいいな!」
太陽のような笑顔で、強引に再会の約束を取り付けたリリィ。
「君の席は空けておくよ。……あまり、気を張りすぎないでね」
短い言葉の中に、確かな居場所を提示してくれたカイル。
期待すれば裏切られる。そうやって自分に灰を塗り重ねて生きてきたはずなのに。今、胸の奥にあるのは、突き放したくなるような恐怖ではなく、じわりと滲むような「名残惜しさ」だった。
その温かさが、かえって今の自分には不釣り合いな気がして、私は少しだけ身を縮めた。
「君は、エルマに雰囲気が似ているな」
シグルド様が手帳を閉じ、眼鏡を外して私を見た。
その瞳に宿る穏やかだが芯の通った眼差しに、私は無意識に視線を逸らす。見透かされているような、それでいて許されているような、不思議な感覚。
「おばあちゃんと……仲が良かったのですか?」
「ああ。彼女は私の、生涯で最高の友だった。そして、誰よりも自由で、誰よりも『彩やか』だった人だ」
シグルド様は窓の外、遠ざかっていく学園の方向へ視線を投げた。その横顔には、遠い日々を慈しむような寂しさが混じっている。
「エルマはかつて、極色を越えた色、神色の風を纏うに至った天才だった。……彼女は手紙の中で、君にこう書き残していたよ。『学園へ行き、外の世界に出て、あの子自身の本質の色を取り戻して欲しい』とね。……私ほどの年寄りになっても、色を取り戻すという言葉の真意は、まだ測りかねているのだが」
神色の、風。
おばあちゃんの、しわがれた手。焼いてくれたパンの匂い。
その記憶を繋ぎ止めようとするたびに、脳裏に砂嵐が走る。
知識を引き出した代償。私の彩魔法が、主人を守るために削り取った、大切な日々の残滓。
(……思い出せない。おばあちゃんが使っていた風の魔法の色が、どれほど美しく、どれほど彩やかだったか……)
必死に霧の向こうへ手を伸ばすが、指先をすり抜けていくのは乾いた砂の感覚だけだ。
私は胸元の「色のないペンダント」を握りしめた。
指先に伝わる無機質な冷たさが、今の私の空虚さを象徴しているようで、ひどく怖くなった。
「……シグルド様。私は、おばあちゃんの願いの通り、自分の色を取り戻せるのでしょうか。……私には、その言葉が具体的に何を指しているのか、何を失ったのかさえ……分からないのです」
消え入りそうな私の問いに、シグルド様はすぐに答えなかった。
ただ、夜の闇を優しく押し返すような天光の魔力が、馬車の中を包み込むようにふわりと広がった。それは押し付けるような力ではなく、ただそこに在るだけの優しい境界。
「焦ることはない。君の『灰』は、何かを奪うための力ではなく、君という存在を守るための唯一の盾なのだから。君が、君だけの本当の色を見つけるまで……私がその盾を支える柱になろう。それがかつての友にできる私の弔いなのだから」
馬車が大きく揺れた。
石畳の道が終わり、王都へと続く広大な平原へと入ったのだろう。遮るもののなくなった窓の外には、満天の星空が広がっていた。
遠い地平線の端に、夜明け前の予兆のような、ごく薄い紫の色が混ざり始める。
私は眠気に襲われ、背もたれに深く体を預け、ゆっくりと瞼を閉じた。
同時に、隣の座席に置かれたおばあちゃんの古い鞄から、微かに、本当に微かに、懐かしい薬草の香りがしたような気がした。
それは、失われたはずの色が、まだ私のすぐ傍で眠っていることを告げているようだった。




