2-3 春の王子
(……瑞希兄さんが……?)
バカバカ、俺のバカ!!
なんで思い出せなかったんだろう!
設定から今後のシナリオまで、一気に脳内に流れ込んでくる。情報の津波に溺れそうで、思わずブランコのロープにすがった。
「どうしたの、かおちゃん、化け物でも見たような顔をして?」
瑞希兄さんは面白そうに俺の顔をのぞき込んだ。
「いえ、あの……いえ……」
口をパクパクさせるけど、それ以外の言葉が出てこない。
どうする、俺! どうすればいいんだ!?
生まれて初めて遭遇した「花婿候補」に、俺はすっかりパニックだった。
「大丈夫? ……厳原くんのこと、そんなに聞かれたくなかったの?」
「そ、そんな、ことは、まさか……」
「ふふ、真面目に否定しなくてもいいのに……かおちゃんはまじめだね。そういうとこ、昔から好きだったな」
瑞希兄さんがそんなことを軽々と言ったので、背筋が冷えた。
今そういう話は冗談じゃすまないので、勘弁してほしい。
まさか本気……いやいや、そんな。
瑞希兄さんと俺は、仲の良い従兄弟どうしだと思ってた。この関係を壊したくないんだ。
動揺のあまり、指先が冷たくなってきた。いや、むしろガクガク震え始めた。とにかくここから離れなければ。
右手に、ぎゅっと圧がかかった。
ハッとすると、大きな瑞希兄さんの手が俺の手を包むように握っていた。
「かおちゃん……」
花の下で見つめ合う。
声のトーンが一段落ちる。ものやわらかな笑顔ながら、大きなてのひらが俺の手をくるみこんで、引き寄せられた。やさしげなのに有無を言わさない強引さだ。
なまめかしい空気がかもしだされる。
俺のノミの心臓は、いきなりの展開に縮こまっていた。
ぐっと瑞希兄さんの華やかな目鼻立ちが近づいてきて、間近に目をのぞきこまれる。
近い近い近ーい!
に、に、に、逃げなくちゃ。でも手をつかまれてて動けない。
「……春花の本家には、仮婿というしきたりがあるんだってね」
――ん?
頭の中で警戒のサイレンが音高く鳴り始めた。
瑞希兄さんは一族なんだから、知ってておかしくはない。
この話の流れは、……さっき思い出したばっかりの、あれだ……!
シナリオによると、これから兄さんは、俺の手を握って提案するんだ。
「僕が、仮婿に立候補してもいいかい?」
って。
(ひええええ……!)
言われる前に何とかしなくっちゃ。
目が回りそうだ。何て言えば逃げられる?
瑞希兄さんに失礼にならず、礼儀正しく、自然な口実……口実……!
「あ、あ、あの、それは……」
瑞希兄さんはゆるゆると微笑んだ。何だか楽しんでるみたいだ。
ぐっと、俺のほうに顔が近づいてくる。まるで花のように甘い空気が流れる。
「かおちゃん。僕が、立候補してもいいかな――その、」
「み、み、み、瑞希兄さ――」
「か……」
脳裏に選択画面が見えた気がした。
▽最後まで聞く
▽逃げる
もちろん幻覚だ。ここは「はなこい」の世界だけど、ゲームじゃない。選択画面は出てこない。
でもそれくらい、俺にはまざまざと見えたのだった。
凍り付いている俺の視界に、瑞希兄さんの肩越し、玄関前にピカピカの大きな車が滑り込むのが見えた。
夢から覚めたみたいだった。
きっと阿東のおじさんの車だ。
(カーソルを『逃げる』に合わせて、選択……!)
俺はすごい勢いで立ち上がり、ぶんっと頭を下げた。
ついでに瑞希兄さんに握りしめられたままの手も振り落として、膝の前できちんとそろえる。
「あの、あの、……ごめんなさい……! もう行かないと……! 失礼します!」
「かおちゃん!」
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!)
俺は脱兎のごとく、呼ぶ声を背に逃げだしたのだった。
玄関ホールの壁時計が、二回、鐘を鳴らすのが聞こえた。
二時だ。
そのあとは、しいんと静まりかえっている。
俺はドアに耳を当てたけど、そっとドアを開けてみた。
廊下の反対側の突き当りには、両親の寝室の扉がある。闇の向こうをしばらくうかがってみたけど、物音ひとつしなかったから、思い切って懐中電灯を片手に戸の隙間から滑り出して、すぐ横の裏階段に入り込んだ。
音がしないように、冬の分厚い靴下を履いてるけど、それでもキシッと音がするたびにドキドキした。両親は部屋だし、家政婦の登与さんは裏口から出てすぐの離れが部屋になってるから、聞こえないとは思うんだけど……。
動悸がすごすぎて、心臓発作で死にそうだ。
でも逃げるわけにはいかない。
階段を降りきって、台所に入った。
前世では、キッチンとダイニングがくっついてる作りが多かったと思うけど、うちは古いので、台所は昔ながらの独立した部屋になっている。感じとしては、電化製品や調理器具は昭和の中期くらいなんじゃないだろうか。土間のある暗い部屋に、冷蔵庫やガスコンロ、オーブントースターなどが、登与さんらしくきちんと手入れされて、懐中電灯の楕円の光に照らされて浮かび上がった。
俺は、食料品棚や冷蔵庫を調べた。
相談できる人は他にはいない。
人じゃないけど。
今日の午後は瑞希兄さんのことで頭がいっぱいで、阿東のおじさんとの打ち合わせも頭に入ってこなかった。
俺は必要なものを腕に抱え、また裏階段をかけのぼって部屋に戻った。
部屋に飛び込んでドアをきっちり閉め、窓際のベンチチェストに荷物を置くと、ほっとしてその場にうずくまってしまった。
はあはあ……怖かった……よかった、見つからなくて……。
大した距離は移動してないのに息切れしてる。
よし、それから……。
俺は狩野さんからもらった手引き書を取り出した。
「えーと……、「紙に『いろは』を全部書く?」
指示通り文字を書き、そのうえに鳥居の絵を描いて、左右に「はい」と「いいえ」を書いて、用意したコインを鳥居に置いて指で押える……?
「……あれ……?」
俺はペンを置いた。まじまじと自分の手元を見つめる。
(これは……コックリさんでは……?)
まごうかたなきコックリさんだ。
俺はやったことないけど、前世でもこちらでも、マンガや写真で見たことがある。
これって降霊術……なんじゃなかったっけ? 霊が降りてくるから、俺が質問をして、そしたら「いろは」と「はい」「いいえ」を使って答えてくれるっていう……?
うわあ、一気にオカルト。
(ちょっと怖くなってきた……)
でも、狩野さん以外に包み隠さず相談できる相手はいない……!
俺はぶるぶるする指で、拾円玉を鳥居の絵の上に置いた。右手の人差し指で拾円玉を押さえ、手引き書に記された呼び出しの呪文を唱える。
「か、か、か、狩野さん! 狩野さん! おいでくださいましたら、鳥居を一周してください!」
「あ、それそこまでしなくてよかったんじゃが……」
横に狩野さんのもふもふしたキツネ顔があった。鋭い黒目をぱちぱちさせて、なんだか気の毒そうに俺を見ている。
は、早い。
「きゅ……急にお呼び立てしまして……すみません……」
俺がぺこっとすると、狩野さんはにまっと笑って、なにかを打ち消すように大きく片腕(?)を振った。その手の中から白い煙がふわっと広がって、視界を覆ったかと思うと、スウッとそれが引いてあらわれたのは、黒スーツの小さな男の子の姿だった。
「手数をかけたな。次は名前を呼べば大丈夫じゃ、狩野様、と」
「様付けで呼べばいいんですね?」
「……お主にはうかつに冗談も言えんのう……、さん付けで良い」
「……すみません……」
何だか恥ずかしくて顔が熱くなった。狩野さんは俺の手から手引き書を取り上げ、
「言っておけば良かったのう。この呼びだし方は、正式な手順のひとつなんじゃ。下手すると死神課に関知されてしまう。お主は特別なケースじゃからな、ちょっと名前を呼ぶだけでいいぞ。ほれ、うっかりたちの悪い雑霊まで呼んどるし」
「最後、さらっと怖いこと言いました!?」
「なんじゃ、怖いのか?」
キョロキョロしたけど、部屋はいつも通りに見える。
狩野さんはケロッとして、カーテンの閉まった窓に向かって、犬か何かを追い払うように「しっしっ」と手を振った。
「ほい、もうよいぞ」
「あ、ありがとうございます……あの、本当に……?」
「うむ。カーテンの隙間からのぞいておったぞ。長い黒髪の女で、喉がぱっくり裂け――……」
「うわあ、聞きたくないです……!」
か、狩野さんがいてくれてよかった。
俺は狩野さんに座布団を勧めておいて、手引き書通りにこっくりさんの紙を破って捨てながら、
「……そうだ、この日本酒って、何に使うんですか? お清めとか……」
「ああ、酒は、ワシを接待するためじゃ。で、お供えがつまみじゃ」
「えっ? 狩野さん、飲んでいいんですか? お子様なのでは……?」
「へっへ、ワシをいくつと思うておる? 二百は軽く越えとるぞ」
そ、そうか、狩野さん見た目はかわいい子どもだから、ちょっと複雑だけど……成人? はしてるんだ。
俺がベンチチェストにお酒と肉じゃがを並べた。
「肉じゃがでよかったですか?」
「よいよい~! 家庭料理は久しぶりじゃ」
狩野さんはキラキラした目でよだれを流しそうだった。
「よかったです。あんまり家庭料理は召し上がらないんですか?」
「一人暮らしじゃしな……毎日残業じゃし……死神はつらい。ずっと異動願いを出しておるのじゃがなかなか通らん」
「はあ……」
商売繁盛ですねとも言えないし、死神トーク、相づちが難しい。
俺は急いで部屋を出て、今度は箸を調達してきた。すぐに一杯やり始めた狩野さんの前に座布団を置いて正座する。
花婿候補のメモを見せ、冬志さんと手を組んだことを説明した。
瑞希兄さんのことも。
狩野さんは夢中で肉じゃがを食べてるように見えたけど、一応聞いてくれてたらしい。ひととおり話が終わると、もぐもぐしつつも、
「なるほど、お主の記憶が戻るのは、スチル絵を手に入れたときのようじゃな」
「あ、そうですね。冬志さんのことも、瑞希兄さんのことも前から知ってたのに、スチルを思い出すまで、全然シナリオのことを思い出せませんでしたし……」
「そうじゃな。前世の記憶は、そう簡単に蘇るものじゃないからのう。特に薫の場合、自分でやってたゲームじゃなく、人から聞いた話じゃから。きっかけが必要なのじゃろ。……さて」
狩野さんは、胸ポケットから眼鏡を取り出してかけると、手を差し伸べた。
「メモ、見せてみい」
「あ、はいっ」
ふむふむ、と言いながら腕を伸ばして、遠目にメモを眺める狩野さんは、確かに、おじいさんという感じだった。二百を越えてるんだもんな、老眼にもなるよな。
俺はお酒を飲ませたことにやっと安堵した。
「ふうむ、なるほどな……一人目は身近な人じゃったか……」
「はい……。瑞希兄さんは、この『王子様』だと思うんです、きっと」
俺はメモの一行目、「優しい王子様」を指さした。
「瑞希兄さんルートの最初のイベントは、ガーデンパーティです」