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エピローグ――本当の物語は、ここから始まる

 胡桃沢先生と姉のマンションから帰宅した途端、ほっとして気が緩んだからなのか、わたしの熱は鰻上りに急上昇。激しい眩暈に襲われて、玄関先で倒れこんでしまった。

 翌朝熱は引いたものの、強制的に学校を休まされ、さらに医者に行く事を約束させられてしまった。もちろんおにいちゃんに。

 放課後になり、心配してくれた鈴華ちゃんがお見舞いに来てくれた時には、多少だるさは残るもののかなり体調は良くなっていた。

 鈴華ちゃんが持って来てくれたプリンを二人で食べながら事の次第を説明している間中、何度も「何それ」「どうして」と突っ込まれてしまった。

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

 溜息混じりに零れた言葉に、申し訳なさが募る。

「ごめんね。どうしても、誰にも言えなかったから」

「ああ、もう。違うのよ。わたしが言いたいのはね。知ってさえいれば、わたしが言った言葉でまなちゃんを傷つけずにすんだのにって。それがすごく悔しいのよ」

「そんな事」

「ないなんて言わないでね」

 わたしが鈴華ちゃんに何も言わなかった事で、彼女まで傷つけてしまっていたのだ。

「これからは、ちゃんと言うよ」

「そうしてね。約束よ?」

 そうして二人、涙を滲ませた顔で微笑みあった。

「恭ちゃんの事は後でわたしがとっちめてやらなくっちゃね」

「おに、じゃなくて先生を、とっちめちゃうの?」

「だって恭ちゃんが自己中自己満野郎で唐変木の朴念仁だから、まなちゃんが泣いたのよ? ぜーったいに黙って許してなんかやらないんだから」

 日頃のふんわりとした美少女らしからぬ言葉の数々に、思わず目を白黒させてしまう。見かけとは違って芯がしっかりしている人だとは思っていたけれど、こんなに怒る事があるなんて、実はけっこう意外だった。決して悪い意味ではなく、妙に人間臭くてわたしは好きだ。

「響生の事は、昨日わたしがとっちめておいたけれど。まなちゃん。響生の事、当分の間下僕扱いしてやって構わないわよ」

「下僕って、鈴華ちゃん」

「自分の従兄の奥さんに色目を使うなんて、弟ながら情けなくて涙が出るわ」

 響生君はもう既にとっちめられてしまったらしい。けれどそこまで悪い事をしたとは思えないのだけれど。

「明日学校に行けばきっと、響生の事を恨みたくなるんじゃないかしら」

 教室の前の廊下であれだけ派手に騒いだのだから、当分の間はクラスメイト達からの好奇の目に晒される事になりそうなのだとか。さらには響生君と同じ一年生達からもある程度注目されてしまうのだろうし、確かに居心地が良いとは言えなくなりそうな気がする。

 想像したら、なんだか学校に行くのが嫌になりそうだ。




 やがておにいちゃんと一緒に佐野先生が帰宅し、四人揃って元宮家を訪れた。体調が思わしくないわたしを気遣ってくれた浅子さんが、夕食を用意してくれる事になっていたからだ。

 そこでもひとしきり浅子さんからの非難の言葉を浴びせられ、さらに鈴華ちゃんまで加わって、言葉通りおにいちゃんはかなりとっちめられる羽目に陥っていた。

 さすがに女性陣に逆らう事を避けた佐野先生は、困ったような顔でその様子を眺めながらも、助け舟を出そうとはしない。見かねてわたしが口を挟もうものなら、母娘で口を揃えて

「まなちゃんってば、なんて健気なの! それに引き換えこんな可愛い子を泣かせて、恭平君(恭ちゃん)ったら本当に!」

 とさらに集中砲火を浴びせられる事になってしまったので、黙って見ている事にした。

 その勢いはさらに響生君に飛び火してしまい、既にとっちめられていたはずの彼までもが責められてしまっていた。もっとも、明日からの事を考えると彼を擁護する気にもなれなかったのだけれど。




 そんなこんなで大騒ぎの元宮家を、まだ体調が万全ではないからと言う理由で八時半には失礼させてもらい、わたしはおにいちゃんと二人でマンションに戻った。

 リビングのソファに腰を下ろして、大きく息を吐く。元宮家の居心地が悪いわけではないけれど、やっぱり帰宅するとほっとする。たった二ヶ月しか住んでいないのに、ここが既にわたしの「家」なんだなと実感するのは、こう言うなんでもない事だったりするから不思議だ。


 おにいちゃんが差し出すマグカップを両手で受け取り顔に近づけると、カフェオレの甘い香りが鼻腔をくすぐった。おにいちゃんが淹れてくれるカフェオレは、糖分控えめで程よい甘さが嬉しい。

 当然のように隣に腰を下ろしたおにいちゃんのカップには、ブラックのコーヒーが入っている。

 結構な猫舌のわたしはすぐに口をつける事ができず、少しでも冷まそうと水面に息を吹きかける。好きなのに飲めないのは、まるでお預けを食っているようでつまらない。

 ことり、とマグカップをテーブルに置いたその音に何気なく視線を上げると、肩が触れるほど近くにいるおにいちゃんと目が合った。三人掛けとはいえ同じソファに座っているのだから近くて当然なのだけれど、いつもは意識して両端に座っていたため、間には一人分のスペースがあったのだ。だからこれほど近い距離には慣れていなかった。

「で、まなはどうしたいんだ?」

 昨夜は帰宅と同時にわたしが倒れこんでしまい、今朝もおにいちゃんが出勤するまでの僅かな時間しかなく、二人で話し合う暇など全くなかった。

「今までと同じなら、わたしはこのままサヨナラしたい」

 わたしの偽らざる本心を告げたのに、おにいちゃんはわたしの髪をひと房掴んで弄くりながら、楽しげに笑みすら浮かべている。

「今までと同じなんて事はあり得ない。ってーか、まなに対する態度は、少しずつ変えているつもりだったんだけどな」

 言われて考える。そういえば最近のおにいちゃんは、どこかおかしかったかもしれない。挙動不審だったり怒りっぽかったり、かと思えばやたらとわたしに優しかったり。

「えー、と。もしかして、春休みから?」

「正確にはその少し前からだな」

 と言う事は期末試験のころからだろうか。必死に記憶を遡っていたのに、おにいちゃんは存外簡単に答えをくれた。

「期末の最終日、学校で倒れた時の事を覚えているか?」

 はっきりと記憶にあるのは、教室の中までとこのマンションの自室で目が覚めてからの事。その間の数時間の記憶はおぼろげで、あれが夢だったのか現実だったのかすらも定かではない。

「好きだ、と言われたんだが」

「は? え? 誰が? 誰に?」

「俺が、まなに」

 一瞬思考が停止した。

 夢の中で大好きだとか一番好きだとか言っていたような気がする。するけれど、あれは夢だったのではなかったのだろうか。熱のせいで正気ではなかったとはいえ、あの時のわたしがそんな事を言ったなんて。

「嫌われていなかったんだと喜んだのも束の間、口移しで水を飲ませても無反応。仕方がないから暫く距離を置いていたら寝ている間にキスして来るし、抱きしめれば逃げ出してさらには泣かれる。それでも惚れられているなんて自信を持てるほど、俺は馬鹿でも自惚れ屋でもない」

「え、えーと。わたしから、キス、って」

「春休み初日の朝。俺のベッドで」

「あ、わーっ! 言わなくていい! ってか言わないでーっ!」

 眠っているとばかり思っていたのに、まさかおにいちゃんがあの時の事を知っていたなんて。あまりの恥ずかしさに、両手で顔を隠して俯いた。顔から火が出ると言うのは、まさにこんな感じではないだろうかと思うくらいに頬が熱い。

「で、ずっと引っかかっていたんだが。なにが『ごめんなさい』だったんだ?」

「いや、ほら、ね?」

 まさか聞かれているとは思いもしなかったら、声に出したあの言葉。今となってはわたしの完全な思い込みと勘違いから来たものだけに、説明のしようがない。

 髪を弄っていた手が肩に回され、さらに心臓が踊りだす。どうすればこの窮状を脱する事ができるのか。ろくに働いてくれない頭で必死に考えるけれど、こんな状態でまともな言い訳なんて思い浮かぶわけがない。

「まな?」

 とにかくなんとか逃げ出したくて、必死におにいちゃんから体を離そうとソファの隅に体をずらす。けれどすぐに両手で囲い込まれて身動きができなくなってしまった。

 頭にすっかり血が上り、くらくらと眩暈までして来る始末。心臓は勝手に全力疾走しっぱなし。このままではまずい、と頭の中で激しく警鐘が鳴り響いている。


「あー! そうだ! 桜!」

 突然脳裏に浮かんだその姿に、思わず声を上げた。ほんの数センチにまで近付いていたおにいちゃんは、わたしの大声に驚いて体を大きく引いた。とりあえずは助かったらしい事にほっとしたけれど、今度は思い出してしまった人の事が頭の中で渦巻いている。

「桜を見に行ったでしょ? あの時おにいちゃん、女の人と抱き合っていたじゃない!」

 おにいちゃんの目が一瞬遠くを見るように細められ、すぐにわたしに戻って来る。

「ああ、そうか。まな、あいつの後ろ姿しか見ていないんだろう」

「そりゃ、おにいちゃんの顔が見えていたから」

 にやりとおにいちゃんの口角が上がる。こんな顔をする時はろくな事が待っていない事を身をもって知っているわたしの背中を、なぜだか冷たい物が伝っていく。

「大学時代の同期で、悪い奴じゃないんだけどな。ちょっと特殊な趣味があるんだよ、あいつには」

「特殊?」

「背が高かっただろう? 多分俺と十センチくらいしか変わらないはずだ」

 そういえばヒールを履いていたためか、男の人の中でも長身のおにいちゃんとほとんど同じくらいに見えた。

「実害のない趣味だから、気にしないようにしていたと言うか慣れていたんだけどな。そうか。まなは知らないんだから、妬くのも仕方がないよなあ」

 楽しくて仕方がないと言った顔で頷くおにいちゃんに、次第にわたしの不安が別の物に摩り替わりつつあった。けれどそれも次のおにいちゃんの言葉で吹き飛んでしまう。

「あれは、男だ」

「へっ? 男の、人?」

「大学に入った頃は、まだまともだった。一年の終わり頃、女装の趣味に目覚めたらしい。でもオカマでもなければゲイってわけでもないから。機会があったら会わせてやるよ」

 別の意味で大きなショックに見舞われた。知らなかったとは言えわたしは、男の人相手に嫉妬してしまっていたのだ。もっともあの感情が嫉妬だと気付いたのは、たった今なのだけれど。


「て事で、まな。さっきの『ごめんなさい』の続きは?」

 やっぱり忘れてくれていなかったらしく、蒸し返されてしまった。なんとか違う話題はないものだろうか。

 頬が引き攣っているのが、鏡を見なくても分かる。どうしよう。どうやって切り抜けようか。

 せっかく離れていたおにいちゃんが、にやにやと笑いを湛えながら近付いて来た。でも実はこんな顔も好きだなんて、見惚れてしまっているわたしはとことん馬鹿かもしれない。

 とにかく先程の事態はごめん被りたい一心で立ち上がったわたしは、けれどすぐに捕まってしまう。腕を引かれてよろけた先はおにいちゃんの胸。すっぽりと腕の中に抱きこまれ、今度こそ心臓が壊れるかと思った。

「おにっ、おにいちゃ、んっ」

 息が苦しい。じたばたともがいてみるけれど、おにいちゃんの腕はびくりともしない。どうすれば良いのとか途方に暮れていたら、不意に携帯電話の着信音が鳴り響いた。この音はおにいちゃんの携帯だ。そしてこの曲を着信指定している相手に、わたしは心当たりがあった。

 耳のすぐそばで、おにいちゃんの舌打ちが聞こえた気がした。

 腕の力が緩んだ隙に、わたしは縺れそうになる根性なしの脚に喝を入れ、ほうほうの態で自室に逃げ込んだ。

 だから、知らなかった。浅子さんから事情を聞いた高橋のお義母さんが電話越しに、その後延々一時間以上もの間、おにいちゃんにお説教をしていたなんて。




 お互いの思い込みと勘違いで、わたし達は随分遠回りをしてしまったけれど。苦しんだ事、悲しかった事は、きっと無駄ではないと思うから。

 わたしとおにいちゃんの新しい関係は、きっと今、ここから始まったばかり。

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