好きと言わせて――思い込みと健気さゆえの純情
和室に敷かれた客用の布団を挟んだ約九十センチメートルの距離を空けて、わたし達は向かい合っていた。
「まな」
おにいちゃんが、もう一度わたしの名前を呼んだ。苦しげに寄せられた眉間の皺に、なぜかわたしの視線が釘付けになる。こんな顔のおにいちゃんは知らない。こんなおにいちゃん、見た事がない。わたしの記憶の中のおにいちゃんはいつも、少しだけ意地の悪い、余裕のある表情をしていたはずだ。
「響生、なのか?」
「は?」
思いがけない名前がおにいちゃんの口から告げられても、何の事だか分からない。
「婚約の条件に『本当に好きな相手ができたら婚約も婚姻も解消する』ってつけたのは俺だけど」
だからと言って本当にそうなるとは思ってもいなかった、と続けるおにいちゃんの言葉に、思考が一瞬停止した。言葉の意味をすぐには理解できない。
そして間もなく理解した時、今度はおにいちゃんの考えが理解できなくなった。
「もっとも、あの時お前に愛想を尽かされていたってのも分かってはいたから、可能性がゼロだとは思っていなかったけどな」
「ちょ、っと、待って。何の話なの?」
あの時と言うのは、わたしの知らない所で結婚の約束が結ばれた時の事なのか、それとも結婚式の夜の事なのだろうか。わたしがおにいちゃんに愛想を尽かしたなんて何を根拠にそんな勘違いが生まれたのだろうか。
頭が混乱している。むしろ混乱以前の問題だ。
「響生の事が好きなんだろう? だから俺とのこんな関係を終わりにしたくなったんじゃないのか」
わたしが響生君を好きだなんて、一体どこからそんな発想が出て来るのだろう。おにいちゃんはそんな事を本気で考えているのだろうか。
この人は何も分かっていないのだ。わたしがどんな気持でおにいちゃんと一緒にいたのか。どんな思いで終わりを告げたのか。そして今のわたしの気持さえも。何も、何も分かってなどいないのだ。
なんだか無性に腹が立つ。悔しくて悲しくて色々な感情がごちゃまぜになってしまい、一体何に対して腹を立てているのかも分からなくなりそうだった。
ふつふつと湧き上がって来るこの感情は、怒りとも悲しみともつかないそんな複雑な物で。けれどいくら抑えようとしても、体の奥から胸の裡から湧いて来て、今にも溢れ出そうとしている。
「響生君は、関係ないよ。学校で泣いちゃったのは、響生君から見ても、わたし達の関係が、他人同士のおままごとにしか見えないんだって思ったからだよ。わたしが他の男の人を好きになる事なんて、今までもこれからも絶対にあり得ないのに。分かってくれていると、思っていたのに」
慢心するわけではないけれど、将星学園に転入してからほんの三ヶ月足らずの間には、異性からの告白は何度も受けていた。だから響生君からの告白に関しては、彼には申し訳ないけれど、たいした問題ではないのだ。
もちろん鈴華ちゃんの弟で今はわたしの義理の従弟でもある響生君に対して、他の人と同列とは思えない。けれどわたしがおにいちゃんと結婚している事を知っていながらあんな行動を取ったのだから、罪悪感なんて持たない。むしろ怒っても良い立場だと思う。にもかかわらずあの時泣いてしまったのは、わたしの心の問題なのだ。
「わたしと結婚してくれたのは、この怪我のためだって分かってる。先生、昔から責任感が強かったから、放っておくなんてできなかったんだよね。でもね。こんな風に宙ぶらりんにされるくらいなら、放っておかれる方が、よっぽどましだった!」
おにいちゃんの目が、大きく見開かれる。甘えて我侭を言った事なら何度でもあったけれど、こんなに強く感情を吐露する事など一度もなかったのだ。驚きもするだろう。
その顔を眺めながら、責任感や義務なんかのためにおにいちゃんが、どれだけの物を犠牲にしたのだろうかと考える。そんな事をされてわたしが幸せを感じているなんて、本気で思われていたのだろうか。
おにいちゃんの責任感と義務感はそれで満足させられるのかもしれないけれど、それならば否定されてしまったわたしの感情は、どこに向ければ良いと言うのか。
結婚なんかしなければ。幼馴染のままでいれば、こんな辛さを感じる事もなかったのだろうか。
「先生を解放してあげるんじゃないの。わたしが解放されたいの。先生の自己満足のためにわたしと結婚、したのなら、今すぐ別れて。わたしの気持なんかどうでも良いなんて人とは、これ以上一緒にはいられない。こんな曖昧で中途半端な関係なんて、これ以上耐えられない。それならいっそ」
見えない何かに急かされているかのように、言葉と心が後から後から零れ出す。
一呼吸置いて真っ直ぐにおにいちゃんの目を見つめると、ほんの一瞬、おにいちゃんが動揺したような気がした。
「ただの、幼馴染に戻った方が、楽になれる」
わたしの言葉に、痛そうに歪められるおにいちゃんの表情。どうしてそんなに辛そうな顔をするんだろう。なにがそんなに痛いと言うのだろう。
「戻れるはずなんか、ない」
「戻れるよ。六年前の、あの事故の前に。あの頃の、わたし達に」
「無理だ」
「無理じゃないよ」
「できない! できるはずなんか、ない」
今までのわたし達の十六年間を、そんな風に否定されたくはなかった。戻る事ができないのならば、わたし達はこのまま赤の他人になるしかないのだろうか。幼馴染のおにいちゃんと妹分。そんな関係すらも、なかった事にしてしまわなければならないのだろうか。
「そこまで、嫌われているとは思っていなかった。先生がわたしの事を好きなんかじゃないって分かっていたけど。分かっていたつもりだったけど」
ぽつり、とわたしの口から言葉が零れた。鼻の奥がつんと痛み、視界が歪む。もう最後なんだから、誰にも遠慮せずに泣いてやる。
妙に開き直ったわたしは涙を拭いもせず、まっすぐにおにいちゃんを見た。鼻をすすりながら、それでも視線はおにいちゃんに向けたまま。強く、強く、挑むような思いで睨みつけた。
「嫌われているのは、俺の方だっただろう?」
深い息とともに、言葉が零れる。
「嫌う? わたしがおにいちゃんを?」
そんな事、地球がひっくり返ったってあり得ない。
今までどんなに辛くてもどれだけ苦しくても、おにいちゃんを嫌いになどならなかった。心の中で責めていた事は否定しないけれど、嫌いになろうなんて思いもしなかった。わたしのおにいちゃんへの想いは、そんな生半可な物ではない。
これだけ感情を叩きつけている今この時でさえ、目の前にいるこの人を、好きで好きで仕方がないのに。
だから、断言する。嫌いになんてなれない。嫌えるはずなんか、ない。
「六年前、お前が言ったんじゃないか。大嫌いだって」
やや自嘲気味に口元を歪めておにいちゃんが言った言葉に、思わず思考が停止した。
「六年前って、あの、事故の時? それとも、病院?」
「事故の時。お前が落ちる直前に、俺に言った言葉だよ」
必死に記憶を辿ってみる。おにいちゃんがお引越しの事を話してくれていなかった事が悲しくて、頭の中がいっぱいだった。探しに来てくれたおにいちゃんの背中に体を預ける直前、おにいちゃんに投げつけた言葉。
「おにいちゃんのうそつき、だいっきらい?」
ばかとも言ったような気がするけれど、さすがに六年前の十歳児の記憶力。はっきりとは覚えていない。
「その後すぐにお前の体が傾いて。慌てて伸ばした手が間に合わなくて、俺の目の前から、お前が消えたんだ」
苦しそうな掠れた声に、胸が痛む。
わたしは落ちてから病院までの記憶がないけれど、おにいちゃんはその全てを見ていたのだと。今になってようやく気付いた。
「後を追って飛び降りれば間に合うかも、なんて一瞬馬鹿な事も考えたけどな」
共倒れてしまっては、シャレにならない。とにかく助けなくては。おにいちゃんは必死でそう思い直し、落下地点を推測して、崖下に駆けつけた。途中木々で体が傷ついても、気にならなかった。
そして血まみれで気を失っているわたしの姿を見て、おにいちゃんは、心の中で自分自身を何度も罵った。
救急車の中でも意識を取り戻す事なく集中治療室に運び込まれたわたしを、その前の廊下で待つしかなかったおにいちゃん。消防署からの連絡でわたしの両親が駆け付けるまで、ずっと一人、何を思っていたのだろう。
わたしはずっと自分の事だけしか考えていなくて。おにいちゃんがどう感じていたかなんて、考えた事もなくて。ただ、わたしに大怪我をさせたと思い込んでその罪悪感だけを抱き続けているのだと。そう、思っていた。
「お前の脚に大きな傷跡と後遺症が残ると聞かされて、どれだけ俺が自分を責めたか、なんて、まなには関係のない事かもしれないけど」
自嘲気味に歪む口元を、ただ無言で見詰める。涙はいつの間にか止まっていた。
「入院中まなが俺に会いたがっているって、お前の両親から何度も言われたけど、会いに行く事ができなかった。嫌われた上にこんな怪我までさせて、どの面下げて会いに行ける?」
それでもわたしは会いたかった。おにいちゃんはすぐにこの町からいなくなってしまうと分かっていたから。ひと言でいいから謝りたかった。それなのに。
あのまま別れれば、それきりになってしまったのだろうか。ただの幼馴染として、苦い痛みと共に記憶の中に沈んでしまったのだろうか。
けれどどうしてもそれはできなかった、とおにいちゃんが言った。
「それでも。嫌われていても、構わないと思った。俺のそばに縛り付けておけるのならそれでいいと。お前の怪我につけ込むような、卑怯な真似をしてでも」
だから、わたしの両親に申し出た。わたしの一生の責任を持ちたいのだと。六年間離れていても確実に繋がっていられる、そんな約束を結んだのだと言った。
「なん、で? どうして? わたしの気持ちはどうなるの?」
「それは、本気で悪いと思った。今も心から思っている」
思わず頭を抱えた。まだ少し眩暈を感じている事もあったけれど、それだけではない。
「じゃあ、どうしてあんな事、言ったの?」
結婚式の夜、おにいちゃんから告げられた言葉。おにいちゃんを慕うわたしの心を拒絶し、わたしを絶望に突き落としたあの言葉。
キスはおろか、わたしには指一本触れないと。
おにいちゃんは何も言わずにただじっとわたしを見ている。感情の機微があまり表れないその整った顔。けれど眼鏡越しに見えるおにいちゃんの目に浮かんでは消えていく感情の色。それに気付いているのもそれが分かるのも、きっとわたしくらいなものだと思う。
今まさに色々な感情がない交ぜになった揺れる瞳で、わたしを見つめている。
「ああでも言わないと、俺の歯止めが利かなかった」
「歯止め?」
「六年間。いや、八年か。本当はもっと前からだったかもしれない。ずっと誤魔化して来た感情を抑えるために、俺自身への戒めを込めていたんだ。嫌われていると分かっていても、止められる自信がなかった。だから」
頭が、くらくらした。
「まなの心と体を俺から守るために。俺の自己満足のために手を出したりしないと決めたんだ」
畳の上に正座していて良かった。もしも立ったまま話していたりしたら、間違いなくしゃがみこんでしまっていただろう。
胸が苦しい。でもこれは、おにいちゃんの言葉のせいだけではないかもしれない。熱が上がって来ているような気がする。
「突然結婚なんて事になって驚いたけど、わたしはすごく嬉しかったのに。幸せだったのに。なのにおにいちゃんのあの言葉で、わたしは、わたしが、どんなに」
止まっていたはずの涙が、言葉と一緒に溢れ出る。ここまで言っているのに、どうしてまだ分からないのだろう、この人は。
目を閉じ、大きな息を吐いた。
「朴念仁」
呟いて、そして気付く。わたしも今までずっと、おにいちゃんの気持ちを知らなかった事に。知らずに勝手に浮かれて勝手に落ち込んでいただけだと言う事に。
ああ、そうか。そうだったのだ。結局わたし達は、お互いの気持ちを知ろうとしなかったのだ。知るのが怖くて、目を塞いでいたのだ。
顔を上げると、どうやら『朴念仁』が堪えているらしく、口元を僅かに引きつらせたおにいちゃんの、なんとも言えない微妙な表情と出会った。それがなんだかおかしくて、わたしの肩から力が抜けたのが分かる。
「ねえ、先生。あの、約束は? お父さん達とじゃなく、わたしとしたあの約束。覚えてる?」
奇妙なほどに、心は静かだった。静かだからこそ、わたし自身の言葉でさえもが胸の裡にしみ込んで来る。
はっと気がついたように、おにいちゃんが頷く。
「十六になったら、お前を女として見てやる。十六になったら、迎えに行くってやつか?」
ちゃんと覚えていてくれたんだ。忘れたわけじゃなかったんだ。固く引き結んでいた口元が、意識しないのにわずかに綻んだのがわかる。
「両親との約束を優先しすぎて、忘れたのかと思ってた」
「忘れるわけが、ない」
忘れるわけが、ない。その言葉が、胸に沁みた。ちゃんと覚えていてくれた。その場限りの調子のいい口約束じゃなかった事が、こんなに嬉しくてこんなに幸せだなんて。
「うん。わたしも、忘れた事なんかなかった。あの約束があったからリハビリも頑張れたし、寂しくても我慢できたんだから」
おにいちゃんが大きな息を吐き出した。背中を少し丸めて俯き加減になり、そのまましばらく動かない。
わたしは仕方なく、そんなおにいちゃんを黙って見つめていた。
「結局、お互い嫌われていると思い込んでいただけだって事か」
ようやく口を開いたかと思ったら、おにいちゃんは左手で髪の毛をぐしゃぐしゃっとかき上げた。それがなんだかかっこ良くて思わず見惚れてしまうわたしは、馬鹿かもしれない。
「でも、思い込んでいても一緒にいたいって、わたしも先生も、案外健気?」
「まなはともかく、俺も健気かよ」
本当は「二人とも純情よね」とか何とか言おうと思ったけれど、おにいちゃんが嫌そうに眉根を寄せたからやめておく。でもその嫌そうな顔がなんだか可愛くて、思わず頬が緩んだ。
「わたしは先生の事、ずっと、好きだよ?」
そして零れ落ちる、わたしの気持ち。わたしの心。六年間伝える事ができなかった、わたしの想い。
弾かれたように顔を上げたおにいちゃんは、とても驚いたように目を見開いてから、今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた。
「お前、不意討ち。ってーか、俺より先に言うなよ」
「ずっと言いたかったんだもん。先生が好き。おにいちゃんが好き。大好き。一番好き」
「あー、分かったから」
「だめ! 三ヶ月間我慢した分、今言ってるの! 好き好き好き好き! 世界で一番、おにいちゃんがだーい好き!」
調子に乗っていたらおにいちゃんが徐に立ち上がり、布団を越えてわたしの目の前まで来た。ただでさえ長身なので、座ったままのわたしはほとんど真上を見上げる状態になってしまい、ぽかんと口を開いた間抜けな顔をしていたようだ。
しゃがみこんでもまだわたしより少し上にあるおにいちゃんの顔をぼんやりと見る。眼鏡の奥に見える目がとても優しい色で、呆けたように見惚れてしまう。
伸びて来た手が頬に触れて、ようやく我に返った。
「まだ熱いな」
それが熱の事をさしている事と、さらには至近距離で顔を覗き込まれている事に気付き、一気に顔に熱が集中する。
「まな」
わたしの名前を呼ぶその声に、いつもよりも熱が込もっているような気がした。
綺麗に整った顔が近付いて来るのを、不思議な気持ちで見つめる。これは夢なんじゃないだろうか。
「おにいちゃ……」
その時、突然襖が開け放たれた。
「はい。時間切れです」
おにいちゃんの動きが凍りついたように止まる。わたしは慌てておにいちゃんから体を離し、その拍子によろけて、畳の上にころりと転がってしまった。
「タイミングを計っていましたね?」
低く唸るような声でおにいちゃんが言うけれど、胡桃沢先生はにこやかな微笑を口元に刷いたままだった。
「三十分のところ、おおまけにおまけして四十八分よ。文句を言われる筋合いはないと思うけど」
転がったわたしを起こしてくれながら、姉がやはり笑顔で言う。
「おねえちゃん。もしかして全部聞いてた?」
「悪いとは思ったけどねー。可愛い妹が幸せになれるかどうか、確かめたかったんだもの。ごめんね、まな?」
「いいよ、もう」
小首を傾げて謝られると、たとえ本気で申し訳ないと思っていない事がわかっていても、許すしかなかった。
一部始終聞かれていたんだと思うと顔から火が出るくらいに恥ずかしくて、怒りなどどこかに吹き飛んで行ってしまう。
「それで? 真奈美さんはどうしますか?」
おにいちゃんの恨めしげな視線など、痛くも痒くもない。そんな笑顔で、胡桃沢先生がわたしに訊ねた。
わたしは胡桃沢先生の顔を見つめ、体を支えてくれている姉の顔を見つめ、最後におにいちゃんの顔を見つめる。おにいちゃんは何も言わず、ただじっとわたしの目を見ていた。
まだおにいちゃんの気持はちゃんと聞いていないけれど、わたしの想いを伝えられた事で、ずっと心の中で引っかかっていた何かが吹っ切れた気がする。
一つ、大きく深呼吸をした。
「帰り、ます」
わたしの言葉に、胡桃沢先生が
「そうおっしゃると思っていましたよ」
と大きく頷いた。




