第三話
あれから幾許かの時が過ぎた。
王国はきな臭くなっている、と部下は言う。
私は私の為すべきことを成すのみだ。
「魔王様。本日は一件の謁見依頼があります」
「相手は?」
「王国で教師をやっている者で、内容は著作への陳情とのことですが、いかがされますか?」
「私は何人たりとも断る事は無い」
「承知しました」
私の部下は頭を下げて、部屋から去った。
暫くすると、扉を叩く者がいる。
「入れ」
「失礼します」
部下と共に入室したのは、派手さのない一人の女性であった。
「何用か」
「魔王様。あなたにお願いしたい事があります。あの本の出版を取りやめてはくれませんか?」
私は内心またかと思いながら「それはできない」と言った。
「お願いですから、少しだけでも考えてはくれませんか?」
「何故だ?」
私はそこで、初めて教師の言葉に興味を持った。
教師は少し怯えたものの、意を決した様に拳を固めて話し始めた。
「私のクラスだけじゃない、子どもだけではなく、大人さえも、あの本に触れたら、人の話を聞かなくなるのです!」
「何故?」
教師の言は、私には俄かに信じ難かった。
「私は決して、その様な事を著作で説いてはいない。私はただ、言葉を定義しているだけだ」
「それを、そのままに受け取る人ばかりじゃないんです」
教師はため息を吐いた。
私は不思議に思い、「続けてくれ」と伝えた。
「あなたはこうして『辞書』なるものを作りました。しかし、今まで、私たちは『空気』というか、ふわふわと明文化されない認識の中で生きてきたのです。これは、私たちにとっての『劇薬』でした」
「その様だな」
私は今までやって来た人間達を思い返して頷いた。
「その中で、一部の人はこう思ったのです。自分たちで自分たちの言葉の意味を都合よく決めてしまえばいいのでは、と」
教師が言うのは、私の辞書という発明に乗っかって好き勝手にする人間の事だろう。
「……私はそれを否定できる立場に無い」
勿論私は、古今東西の本を読み漁り、言葉の使われ方を調査し、部下にも話を聞きながら辞書を作っている。
だが、私の匙加減一つで言葉の意味を揺らす事が可能かと問われれば、著作の中でのみ、という範囲限定であるが、そうだと答えざるを得ない。
「私がやらずとも、何れ誰かがやっていただろう」
「そうかもしれませんが、あなたのように王国の手が及ばない場所で、となると、他にできる方はほぼいないと思います」
「とは言え、私は直接的な侵略行為等は行っていない。ただ、私の書いたものを出版している、それだけだ」
教師は「それはそうですが」と口籠る。
私はその様子を見て、この教師が本当に望むのは、私の本の絶版等では無く、私の考えに触れて暴走した人間の対応ではと考えた。
「教師よ、私の本を読んだ事はあるか?」
「あ、え、あの……」
教師は私の本を読んだ事が無いらしい。
私は「分かった」と言い、部下に「私の本の在庫から一冊持って来てくれ」と頼んだ。
「恐らくだが、貴公が手を焼く人間には大きく三種類がいるだろう」
「は、はい」
困惑する教師に、私は三本の指を立てた。
「一つは、論理的な話が通じる者達だ。その連中とは、我が著作の内容で議論をすれば良い。まぁ、話して分かるこの種類の人間はまずいないと思われるが」
私は最初の指を掌に折り込んだ。
「次に、感情的な話が通じる者達だ。私は感情には疎いが、恐らく彼等が求めるのは共感や承認等だろう。個別に話し、感情を見極め、満たしてやるか、方向を変えてやるか。それは貴公の腕次第だ」
私は次の指も曲げた。
「最後に一番厄介なのが、話が通じずに己のみで動く連中だ。これはまぁ、王国の行政に相談だろう。私の論理に暴力を入れたのなら、それは反逆者に他ならない」
「は、はぁ……」
私が最後の指を曲げても、教師ははっきりとした答えを返さなかった。
「如何だろうか、貴公の求める答えは渡せただろうか」
「えぇ、いや……あの……少々お時間をいただけますか、頭の中を整理したくて」
「勿論だ。座るものを用意しようか?」
「い、いやそこまでは!」
教師は服が汚れるのも厭わずに、床の上にどかりと腰を下ろした。
「あの、聞いてもいいですか?」
「勿論だ」
「あの、あなた仰ったじゃないですか、王国に通報して何とかしてもらえと。そんなことをしたら、その人々は十中八九殺されてしまう。あなたは、その人々を扇動し、王国の和を乱しているとは考えないのですか?」
私は今度は詰まらない質問が来たなと教師に少し失望した。
「貴公は、家に住まう事に罪悪感を覚えるか? 私が私の為に活動する事と、人間が愚かしい行為をする事にどんな因果がある」
「家が何か関係あるんですか?」
「例え話だ。家が無ければ不法侵入は起こらず、しかし人間は安全の為に家に住まう。私は私とこの社会からはみ出した人間を救う為に、本を書く。そもそもそうした人間は、何がきっかけであろうが何れはそうなる」
私がそう言い切ると、教師は少し困った様に微笑んだ。
「……それが、未来ある若者であったとしても?」
「そうだ。情状酌量は別として、罪は定められた行為で生じるという前提は覆してはならないはずだ」
教師は「そうですか」と小さく呟いた。
「私とて、遍く人間を救いたいとは思っている」
「えっ」
教師は私の言葉が予想外だったからか、驚いていた。
「何を驚く事がある。私が私の法で生きるのならば、別に外在化する必要はない。こうして筆を執るのは、私だから救える人間を掬い上げる為であるぞ」
「そうだったんですか……」
教師は少し考えて、「あなたに頼みたいことがあります」と言い出した。
「何だ、私に可能な事であれば力を尽くそう」
「何人かこちらで預かってほしい生徒がいます。将来的にはあなたの力になるでしょう」
「分かった。旅費は出そう」
私は自分の机から数枚の金貨と、部下から受け取った本を教師に渡した。
「えっ、こんなに受け取れません」
「私は貴公に渡したのでは無い。貴公への信用と生徒達への投資と受け取れ」
教師は戸惑いながらも、私が渡した金貨を握り込んだ。
「あれで良かったのですか」
「私が出来る事は少ない。やらぬ後悔よりもやる後悔だ。未来への投資は怠ってはならない。あれだけの金で人が救えるのであれば、安いものと思わないか?」
「魔王様……自分は貴方と共にあります」
私の当たり前は、人には尊敬すべき点と受け取られる事がある。
いつか、この様な瑣末な事を皆が当たり前と思える日を作るため、私は筆を執り続けるのだ。




