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蒼海の軍神と真珠  作者: 秋月 菊千代
1章 嫁入り編
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8 船幽霊



「艦長!」


 楽しかった宴会の翌々日の朝、エリックを呼ぶ船員達の声でミシェットは目を覚ました。

 昨日一日雨が降っていたので冷えた空気が残っているのか、妙に肌寒い。ぶるりと身を震わせて、毛布の上に掛けていたエリックの外套を引き寄せた。

 よっこいしょ、と吊るされた寝台から下へ降り、鏡代わりに窓硝子を覗き込み、手櫛で軽く髪を梳いて整える。いつもは頭の両脇で結われていた巻き髪は、乳母や侍女達の手が入ることがなくなり、すっかり解けて緩やかに波打つだけだ。

 背中に留め紐があるドレスはひとりで脱ぎ着ができないので、ここのところ着たまま眠ってしまっている。夏場程暑くはないので汚れた感じはしていないが、そろそろ下着は新しいものに替えたいな、と考えながら船室を出た。


 上からも下からも、バタバタ走り回る音や、なにか叫んでいる怒号のようなものが聞こえてくる。なにかあったのだろうか、と甲板へ出ると、水夫達のみならず士官達も慌ただしく動き回っていた。

 観測所や舵のある後甲板に登って行くと、そこにエリックがいた。

 声をかけようと思ったが、望遠鏡を覗き込んでいる表情は険しく、口許は舌打ちでもしそうな雰囲気だったので、言葉が出て来なくなる。


「五隻か……」


 やはり別働隊がいたか、と零れ聞こえた呟きに、ハッとする。

 二日前まで尾行していた不審船は、クラウディオ達が乗り換えた定期船を追って消えて行き、それから何事もなく静かだったのだが、レヴェラント島まであと半日かからないという距離に来て、また船が後方から近づいて来ているようなのだ。

 多少の時間稼ぎと、別の追っ手があってもすぐに気づけるようにと、大回りに遠い外洋を進んでいたのが裏目に出た。思ったよりも早く追いつかれてしまった。


 もうすぐブライトヘイル王国の領海に入る。そこを越えてもついて来るようだったら、領海侵犯として、国際協定の法の下に攻撃を加えることができる。

 しかし、さすがに五対一ではかなり分が悪い。増援を手配してくれる手筈のクラウディオはもう帰国しただろうが、こちらにはまだ向かっていないだろう。このまま交戦することはなるべく避けたかった。


「風向きはどうだ?」

「少し西寄りですが上々です」


 観測所に立つティムに声をかけると、彼は少し緊張した面持ちで答えた。


「よし。商船規定旗を下ろし、軍旗を掲げろ! 西北西方面に舵を取れ!」

「取舵了解!」


 艦長の指示に操舵手が応じ、針路を変える為に素早く舵輪を回す。同時に副官が「帆を下ろせぇ!」と水夫達に向かって声を張り上げた。

 指示を受けた水夫達がそれぞれの行動に移り、甲板は俄かに騒がしくなる。

 慌ただしく、緊張感の溢れる周囲の様子に少し怯え、ミシェットは出て行くこともできずに後甲板に上がる階段の陰で小さくなった。


「ティム、雲が来てる。あれは雷雲だろう」

「はい。そこも計算に入れてます」

「レヴェラントまで間に合うか?」

「風向きが変わらなければ、なんとか」

「ここらはこの時期荒れるからなぁ」


 エドガーがうんざりしたように零す。昨日の雨は風を伴わなかったので問題なかったが、今日は逆に風が強い。ここに雨が加わると厄介だ。ほんの少しでも嵐に変わり、この頑丈な船体でも大きく揺すられる。

 今回の航海中、天気が大きく崩れることはなかったが、冬に近い時期から北海の沖は強く時化(しけ)ることで有名なのだ。少しの天気の崩れが航行に大きく影響する。

 大陸の方ではこの冬場の時化を『北海の竜』と呼び、倦厭していた。

 しかし、長年その北海で覇権を手にしてきたブライトヘイル王国海軍の操舵手は、そんな時化ぐらいものともしない。面倒だなんだと愚痴を垂れていても、いざとなったら何食わぬ顔で切り抜けるのだ。


「あれ、お嬢さん?」


 階段の陰で縮こまっていると声をかけられた。確か彼は、副操舵手のベンだ。


「どうしたんですか? あ、朝飯食いました?」


 食事は士官も水夫も仕事をしながら交替で摂っている。ベンも食事を終え、エドガーと交替する為に甲板に上がって来たところだった。

 いらない、とミシェットは首を振った。食べてはいないがお腹は減っていない。

 たくさん食べないと大きくなれないんだぞ、とベンが諭していると、そのやり取りに気づいたエリックが上から降りて来た。


「ミシェット……どうしたんですか?」

「エリック様」


 先程までの恐い顔ではなく、いつもの様子のエリックにホッとする。


「ここは少しバタついているので危ないですよ」


 船室に戻るように言ってくるので、ミシェットは不安げに見つめ返してしょんぼりと下を向いた。

 漏れ聞こえてきた話の内容から、船員達に緊張が走っていることはわかっている。そんな場所にいては邪魔になるし、迷惑だということもわかっているのだが、あの広い艦長室にひとりでいるのもなんだか落ち着かない。


 ミシェットが上手く自分の気持ちを口にできずにもじもじしていると、エリックは少し考え込み、ミシェットを立たせた。


「脚は痛みますか?」

「いいえ、大丈夫です。もらったお薬が効いています」


 船医に相談してみた結果、片頭痛持ちのティムの常備薬を分けてもらったのだ。念の為、一回分を半量にして飲ませてみたのだが、丁度よかったらしい。


「今日は多分、一緒にいることはできません。それでもいいなら上にいますか?」


 その提案に申し訳ない気持ちになった。けれど、エリックが見える位置にいれることは嬉しかった。

 エリックはいつもの外套にきちんと袖を通させ、指先が見えるくらいまで捲り上げてやると、裾も引っ張り上げて腰のあたりで結んでやる。これなら引きずることはない。

 こっちへ、と手を引いてエドガーの傍に行くと、傍らの木箱に座らせる。ここなら他の場所よりは比較的邪魔にはならない。


「今日は風が強いのでよく揺れます。海に放り出されないように気をつけてください」


 頷くミシェットの腰に綱を括りつけている。命綱だろうか。

 体重の軽いミシェットなら、簡単に海に放り出されてしまいそうだ。それくらいに今日の海は波が高い。


「ここをこう引けば解けますから、用足しに行くときは自分で行けますね?」

「大丈夫です。我儘言ってごめんなさい」

「これくらいなら気にすることないですよ。あと、これ。よかったら持っていてください」


 林檎をひとつ懐から取り出し、しっかりと握らせる。水分補給と軽食の替わりだろう。

 礼を言ったミシェットの頭を撫でると、エリックはメインマストの下で指示を飛ばしているコレットのところへ行ってしまう。


「酔ったらそこのバケツ使ってくださいね」


 エドガーと舵取りを交替したベンが木箱の脇を示す。だいぶ船の揺れには慣れてきたのだが、今日は今回の航海中で一番波が高いようなので、もしかすると具合が悪くなるかも知れないということだ。

 礼を言って頷き、甲板の上の人々に目を遣る。陽気な水夫達はいつもよりもきびきびした動きで甲板を走り回り、担当の仕事を手際よくこなしていっている。今日は楽しげな船歌を歌っていないところからも強い緊張感が伝わってきた。


 マストを見上げると、いつもより多くの檣楼(しょうろう)員が上がり、指示を受けて帆の上げ下ろしを行っていた。

 大きく風を孕んだ帆は力強くレディ・エスター号を推し進める。海面から随分高い位置にある後甲板にいるというのに、時折水飛沫が頬にかかった。

 この船は足の速さが自慢だとエリックが言っていた。強い風を受けて滑るように海上を走る今がもしかすると最大船速なのかも知れない。確かに速い。


 エリックの姿を捜すと、既にコレットの許を離れ、下に降りて行くところだった。忙しそうである。

 姿が見えないことは不安だったが、今日はついて回るわけにはいかない。ミシェットがこの船にいるだけで迷惑かも知れないのに、これ以上仕事の邪魔はしたくなかった。


 もらった林檎を眺め、袖口できゅっきゅっと磨いてみる。真っ赤な果実は美味しそうに艶めき、ミシェットに微笑みかけているようだった。

 こんなところを乳母が見たら怒られそうだが、今はいないし、と自分自身に言い訳しつつ、乗組員達がよくしているように丸のままの林檎に直接齧りついた。こんな食べ方をしたのは初めてでどうすればいいのか迷ったが、噛み切って咀嚼する。先日の宴会でもらったものより酸味が強かったが、とても美味しい。


 黙って林檎を齧っていると、ベンがにこにことこちらを眺めていることに気づいた。

 ここの乗組員達はみんな人がいい。ミシェットのすることに嫌な顔をする人は誰もいないし、危ないことがあれば注意もしてくれるし、手助けもしてくれる。みんなが見守るように眺めてくれていた。


「ラクレア艦長は本当にいい上官ですよ」


 ミシェットが退屈していると思ったのか、元々お喋りが好きな人なのか、ベンが話し出した。

 彼が前に乗船していたのは、グリンフォード侯爵という男が提督を務める艦隊の旗艦船だった。その提督は指揮官としては優れていたらしいのだが、下士官や水夫に対しての扱いが酷く、乗組員達はうんざりとしていたという。特に面倒だったのが、朝礼に話される提督からの訓戒で、それが自分の過去の自慢話ばかりだった。ブライトヘイルはここ三十年ほどは大きな戦もなく、乗組員のほとんどが壮絶な海戦の経験がない者が多かったので、その話を聞くのは本当に苦痛だったのだ。


 老齢のグリンフォード提督は、海賊退治を嫌っていて、そんなものは新米指揮官にでもやらせておけ、という持論の人だった。自分のような高位貴族であり立派な武勲を持つ者は、海賊などという小物は相手にしない、ということだ。

 そこで指揮官としての頭角を現したのが、エリックだった。

 グリンフォード提督はそれが気に入らなくて、今でもエリックと対立しているのは有名なのだという。


 気に入らない下士官や水夫はすぐにクビにし、役立たずはくれてやる、とエリックの下へ押しつけていたのだという。ベンもそうしてクビを切られたひとりだったが、結果的にはそれがよかった。

 エリックはまだ若かったが勤勉で、王の子であることを鼻にかけることもなく、下級水夫にまで気を配ってくれるような気さくな人だった。同じ貴族でもここまで違うものかと驚愕したものだ、とベンは懐かしそうに笑みを浮かべる。


 そんないい人だから、政略結婚で生まれた縁でも、きっとあなたを大切にしてくれるだろう――ベンはそう言いたいようだった。

 部下達から慕われている人だとは思っていたが、右腕的存在のコレット以外からはっきりと言葉にして聞かされたのは初めてだ。我がことのように嬉しくなり、笑顔で頷く。


 丁度そのとき、船体が大きく上下した。大きな波に乗り上げたらしい。

 あっ、と思ったときには手の中から食べかけの林檎が飛び出し、ぽーんと勢いよく背後に飛んで行った。

 慌てて振り返り、縁をちゃんと掴んで波間へ目を向ける。真っ青な海面に真っ赤な林檎はよく映え、何処にあるのかすぐにわかった。


「どうしました?」


 唐突に海の方へ振り返ったミシェットに、ベンが驚いたように声をかける。木箱の上に膝立ちになったので、そのまま身を乗り出すのではないかと思ったのだ。


「林檎が落ちてしまいました。まだ半分も食べてなかったのに……」


 エリックからもらったものなのに、と悲しげに零すと、ベンは「それは残念でしたねぇ」と笑った。


 どんどん離れて行く赤にしょんぼりと肩を落としていると、そのすぐ傍に女の人が顔を出したのが見えた。

 驚いて目を擦り、もう一度目を凝らして見てみるが、やはりそこには女の人の顔があった。見間違いではなかったらしい。


 こんな大海原のど真ん中でいったいどうしたというのだろうか。言葉もなくその女の人を見ていると、彼女は白い指先を伸ばし、食べかけの林檎を掬い上げた。そうして林檎の香りを嗅ぐように顔に近づけると、うっとりと微笑んだのだ。

 彼女は凝視しているミシェットの視線に気づいたのか、こちらを見てにっこりと微笑み手を振ったかと思うと、とぷりと海中に姿を消した。


「お嬢さん? ちゃんと座ってないと、今度はお嬢さんが飛び出しますよ」


 はしたなくもあんぐりと口を開けて女の人が消えたあたりを凝視していると、身を乗り出してきてさすがに危ないと感じたのか、窘めるようにベンが言ってきた。

 ミシェットは今自分が目にしたものが信じられないまま、言われたように座り直す。


「……そんなに林檎を落としたのが悲しいんですか?」


 様子のおかしいミシェットに、ベンは怪訝そうな目を向ける。林檎など貯蔵庫に行けばまだまだあるのだから、誰かに取って来させようか、と尋ねるが、ミシェットは茫然とした顔のままゆるく首を振った。


「どうしたんです?」

「いいえ。あの、今……海に、女の人が……」


 自分でも信じられない気持ちのまま、たった今見たことを口にすると、ベンは思いっきり眉間に皺を刻んだ。


「止してくださいよ。船幽霊(シーレーン)でも見たって言うんですか?」


 美しい容姿と歌声で船乗りを惑わし、船を沈めてしまうという伝説の船幽霊を見たとは、なんとも不吉な話ではないか。冗談でもやめて欲しい。

 やはり見間違いだったのだろうか、とミシェットは思うが、それにしてはやけにはっきりとあの姿が目に焼きついている。


「ベン、針路ずれてる! 面舵!」


 羅針盤を掲げたティムが後ろから怒鳴りつけた。ベンは慌てて舵を切る。

 気を遣ってくれていたベンの仕事の邪魔をしてしまったようだ。ミシェットは口を噤み、膝を抱えて木箱の上で小さくなった。

 しょんぼりしていると、エリックがエドガーと共に上がって来た。

 俯いて悲しげな様子の幼い妻の姿に、エリックは怪訝そうな顔をした。ベンは慌てて「俺なにもしてないです!」と言った。


「お嬢さん、船幽霊見たって言うんですよ……」

「え?」

「そりゃまた……縁起でもねぇな」


 不揃いな髭の生えた顎を撫で摩り、エドガーが苦笑した。

 違うんです、とミシェットはエリックに訴えた。


「林檎を落としてしまって。そうしたら、海の中から女の人が出て来て……私の林檎を拾って、また海に消えてしまったんです」

「林檎を?」

「はい。にこにこ顔で」


 食べかけの上に落としてしまったものだというのに、なんだか嬉しそうな笑顔だった。林檎が好きな人だったんだろうか、などと見当外れなことが思い浮かぶ。

 エリックはエドガーと顔を見合わせ、お互いに懐を探った。出てきたのは林檎と蜜柑だった。小腹が空いたとき用に貯蔵庫からくすねて来たのだ。


「……考えることは同じか」

「はははっ。そのようですねぇ」


 二人はそれをミシェットに渡した。

 様子を窺っていたティムやコレットも興味を惹かれたのか、ミシェット達のまわりに集まって来た。舵を握るベンだけが後ろの方で伸び上がり、気にしている。


「取り敢えず、海に投げてみてください」


 海の方を指し示されたので、ミシェットは言われたとおりにまずは林檎を投げ込み、それから蜜柑も投げ込んだ。進むレディ・エスター号の立てる白波に押され、赤と橙は少し遠くに流される。


 なにも変化のないまま遠ざかって行く二点を見送っていると、波間に紛れて白い影がすっと立ち上がり、次の瞬間には赤い点が消えていた。全員が自分の目を疑った次の瞬間、また白い影が海面に現れる。ぎゃあッ、とコレットが悲鳴を上げた。


 ふたつの果物は見える範囲から消えていた。

 望遠鏡で行方を追っていたらしいコレットは、悲鳴を上げたときの口のまま固まり、果物達が消えたあたりを見続けている。


「……マーティン・コレット大尉?」


 微動だにしないコレットに、エリックが改まった口調で呼びかける。コレットは錆びついた発条仕掛けのようにぎこちなく振り向くと、あうあう、と言葉にならない声を零しながら口を開閉させた。


「――…うっ、……腕……でし、た……」

「腕?」


 訝しげに問い返すと、はい、とコレットはやはりぎこちなく首を上下させる。


「白い腕、が……海の中から……」


 あれはほっそりとした女の腕だった、と今にも吐きそうな青い顔で言うので、全員で思わず顔を見合わせる。

 見間違いではなかったのだ、とミシェットは安心すると同時に、ではあの女性はいったいなんなのか、という新しい疑問が頭をもたげた。


「本当に船幽霊なら、後ろの連中沈めて欲しいですね」


 舵を取りながら話を聞いていたベンが、表情を青褪めさせながらそう零した。果物をやったのだから、その謝礼代わりにやってしまってくれはしないだろうか、と軽口を叩く。


 まったくそのとおりだ、と皆で応じたとき、ドドン、と音が響いた。

 耳馴染みのその音に乗組員全員が身構えた瞬間、遥か後方で二つの水柱が上がる。きゃあ、とミシェットが驚いて悲鳴を上げ、そんな彼女を庇うようにエリックが抱き締めた。


「会敵用意! 砲門開け!」


 エリックが声を張り上げると、すぐにコレットが「伝令!」と続いて声を張り上げた。甲板のあちこちで艦長の命令を復唱し始める。


「ベン、替われ!」


 言うや否や奪い取るように舵輪に取りつき、エドガーが大きく舵を切った。

 後ろの五隻の船とはまだ距離は十分すぎるほどにある。まったく掠りもしない距離で攻撃してくるなど、威嚇にしても中途半端ではないか。

 応戦準備をしつつ、増援と合流するまでこのまま逃げ切れれば幸いだ。


「艦長! 旗が上がりました!」


 気象観測と同時に後方の船も望遠鏡の視界に収めたティムが声を張り上げた。先程までは先日の不審船同様、所属を表す旗をなにも掲げていなかったのだ。

 エリックも望遠鏡を取り出し、船団を見遣った。


「――…こいつは、驚いたな……」


 思ってもみなかった旗印を見つけ、エリックの声は不謹慎にも弾んだ。


「海賊ゴッサムじゃないか」


 マルス王国と隣のウルシア王国、向かいのハイレン共和国近海を荒らし回り、南海域では有名な大海賊である。

 被害に遭った商船は数知れず、討伐に赴いた各国の海軍船も何隻も沈められ、誰も手出しできないまま二十年以上が過ぎているという海賊団は、船長のエイドリアン・ゴッサムに高額な賞金が懸けられている。

 南海を拠点にしていたので北海側のブライトヘイル王国には特に関係がなかったが、それでも名前を知っているくらいの存在だ。そんな奴に目をつけられたとは、光栄と喜ぶべきか、不運と嘆くべきか。

 では先程の威嚇にもならない砲撃は、挨拶か挑発なのだろう。


(面白いじゃないか)


 喧嘩っ早い性質(たち)でもなく、そこまで好戦的な性格をしているわけでもないが、強敵との対峙には心が高揚する。

 しかし、さすがにそんな大海賊相手に一隻だけで交戦するほど、エリックは短絡的でも愚かでもない。今はとにかく逃げ切ることが最優先事項だ。


檣楼(マスト)! レヴェラントは見えたか!?」


 メインマストの一番上にいる檣楼員に向かって声を張り上げると、いいえ、という残念な答えが返る。目的地まではまだ少し距離があるらしい。

 ゴッサムから二弾目の砲撃はない。やはりあれは軽い挨拶代わりだったのだろう。

 では、こちらも少し挑発してやろうではないか、とエリックは声を張り上げる。


「部隊旗を掲げろ!」


 国際規定で決められている掲揚旗のうち、軍船が掲げるように定められているのは所属を表す国旗及び軍旗、そして、旗艦が掲げる提督旗か部隊旗だ。

 指示を受けた檣楼員が甲板から部隊旗を受け取り、軍旗の下に掲げた。


 高く澄んだ晴天に翻るのは、鮮やかな緋色に黒々と描かれた猛る竜とそれを貫く剣の紋。竜は荒れる北海を表し、剣は騎士王が興したブライトヘイルでは王の証である。

 現在のブライトヘイル王国海軍船に於いて剣の紋を使うことが許されているのは、国王アーネストの所有するクイーン・ステラ号と、王弟エリックの乗船レディ・エスター号の二隻のみ。たとえ海賊といえども、船乗りでそれを知らない者はいないだろう。


 王族らしさどころか貴族らしささえも持ち合わせていないようなエリックだが、挑発を受けて黙っているほどに矜持は低くない。

 後方の船団を睨みつけながら獰猛に笑うエリックの姿に、ミシェットは胸の奥がぎゅうっとなるのを感じた。


「誰に喧嘩を売っているのか、知れ。ゴッサム」





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