幕間3 夫婦喧嘩のあとで~叱責~
「なにかあったのかしらね」
ちょっとした休憩のお茶を淹れながら、グレイスはニーナに尋ねた。
カップを受け取ったニーナは緩く首を振って溜め息を落とし、苦く笑う。
「お尋ねしたのだけれど、答えてくれないのよ。そういう年頃になられたのかしらね」
「そうねぇ。十歳ぐらいって、そうなる年頃よね」
ご婦人二人の話題に上っているのは、数日前からなんだかぎこちなくなっている主人夫妻のことだった。
仲が悪くなった様子ではない。ただ、なんだか微妙な距離ができているというか、お互いに対する遠慮のようなものが生まれているのが見て取れる。
「うちの主人ならなにか知っているんじゃないかと思って訊いてみたのだけれど、はぐらかすのよ。絶対になにか知っているわ」
グレイスはジョージが隠しごとをしていると確信していた。ニーナも同意する。
エリックの屋敷に住むことになってまだひと月程だが、主人であるエリックと家令のジョージの関係が強い信頼で結ばれていることは、少し見ていればわかることだった。
いつもは一緒にお茶を飲むというのに、ここ数日は仕事を理由に顔を見せないのも怪しい、とグレイスは言った。問い詰められるのを避けているようだ。
「今日のお出かけは、久しぶりにお二人ご一緒なのよね。喧嘩などされなければいいけど」
お茶のお替わりを注ぎながらニーナは溜め息交じりに零す。その言葉にグレイスは吹き出した。
「旦那様はそこまで子供じゃないわよ、大丈夫」
「違うわ。心配しているのは、ミシェット様のことよ」
もう一度、今度は深々と溜め息を零すニーナに、グレイスは怪訝そうな目を向ける。今まで見ていた限りで、ミシェットという少女はとても大人しく、物静かな気性のようだという認識があるのだが、教育係の乳母であるニーナの口振りでは少し違うようだ。
「ああ見えて結構頑固者なのよ、うちの姫様は。だから、殿下に突っかかっていくんじゃないかと、ここのところずっと心配で……」
「意外ねぇ。大人しくて聞き分けのよい方だと思っていたけど」
「基本的にはね。でも、とても頑固なの。決めたことはきちんと貫くわ。そこのところは亡くなったお母様にそっくりでね……」
数年前に事故で亡くなったミシェットの母親であるマリー・ソフィア公女のことを思い出し、ニーナは瞳を潤ませた。ニーナは元々マリー・ソフィアの乳母だったのだ。我が子同然に育ててきた公女の早過ぎる死は、未だにちょっと受け入れきれていなかった。
ボーン、と玄関ホールに置かれている大時計が時刻を知らせて来た。あら、と二人は顔を見合わせる。
「いけない。随分のんびりしてしまったわ」
「そうね。お支度に戻らないと」
慌てて茶器を片付けて立ち上がり、グレイスは普段の仕事へ、ニーナは出かける主人の身支度を手伝う為、部屋をあとにした。
ニーナが急いでミシェットの部屋に戻ると、小さな女主人は出かける為にドレスを選んでいる真っ最中だった。
「こちらの深緑のドレスは如何です? 赤いおリボンが映えて可愛いですよ」
ニーナがぎっくり腰になって身動き取れない間、ミシェットの身の回りのことをしてくれていた女中のノラは、引き続き彼女の世話をしてくれている。なかなか手際がよく気の利く娘だし、このまま侍女になってくれないだろうか、とニーナは密かに思っている。
ドレス選びがあまり好きではないミシェットは、ノラの薦めに首を傾げているのか頷いているのか曖昧な動きをしつつ、他のドレスにも目を向けている。
「濃紺のドレスになさいませ」
「あ、ニーナさん」
助言をしながら近づいて行くと、気づいたノラが顔を上げた。
先日、エリックの指示で仕立て屋が呼ばれ、何着か注文していた。出来上がり次第順に届けてくれる手筈になっているのだが、そのうちの三着ほどが昨日の夕方に早くも届けられていて、その中にミシェットがどうしても欲しいと言った濃紺のドレスがあったのだ。それを着て行くように薦める。
「謹慎明けの殿下は、海軍の制服で伺われる筈です。お色を揃えられては?」
紺色はエリックが好きだと言っていた海の色であり、彼が所属する海軍の制服の色でもある。ノラは手にしていた深緑のドレスを戻し、濃紺に白いレースと銀糸の刺繍が入ったドレスを差し出した。
ミシェットはドレスを見つめたままもじもじとしている。長い付き合いから、ニーナは主人の心中にすぐに気づいた。
本心ではこの濃紺のドレスを着たいと思っているのだが、喧嘩かなにかをして、微妙な距離感ができてしまったエリックのことを考え、ちょっと躊躇いが生まれているのだろう。
「国王陛下からのお召しだと伺っております。非公式なものだそうですから、正装ではなく格に合った外出着でいいでしょうし、色合いも落ち着いたこのドレスで相応しいと思いますよ」
「じゃあ、そうします」
ニーナの言うことなら間違いがないだろうと判断したのか、ミシェットは素直に頷いた。その様子に、なかなかドレスが決まらずに少し困っていたノラもホッとしたようで、すぐに準備に取り掛かる。
新しく作ってもらったドレスは、基本的に一人で脱ぎ着ができるような作りにしてもらっていたのだが、この濃紺のドレスは普段着ではない為、少し複雑なものになっている。誰かに手伝ってもらった方が綺麗に着られる。ノラに手伝ってもらいながら着付けを済ませると、ニーナが髪飾りを手にしていた。
「御髪は如何なさいます? いつものようにしますか?」
「あ、あの……その……」
鏡台の前に座らされたミシェットは、顔を真っ赤にして俯き、小さくなにかを呟いた。聞き取れなかったニーナもノラも身を屈め、小さな女主人の口許へ耳を近づける。
「大人っぽく見える髪型が、いいです」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく表情を緩めた。
「それでは、巻き髪を少し解いて、こう纏めましょうか。それで、こちらに櫛を挿して」
「ああ、でも、それでは急に変わりすぎて落ち着かないわよ。櫛ではなく、リボンでいいのではないかしら」
「ま、任せます……」
年齢の所為なのか、ミシェットはあまり自分の身形に対して要望を口にしない。興味がないわけではないと思うのだが、言われるままに、されるままに、で落ち着いてしまっている。それが珍しくも要望を口にしたので、これはいい変化だろう、と二人は思った。
リボンはドレスと揃いの濃紺にした。いつも左右の高い位置に結われている髪は、今日は後ろの方でひとつに纏めてみたのだが、それだけで随分と印象が変わる。ミシェットは鏡の中の自分をまじまじと眺め、ちょっと照れ臭そうにはにかんだ。
「外套は如何なさいます? 馬車で行かれると思いますけど」
「ミシェット様のお持ちのものは、少し生地が薄いのよ。でも、一応出してちょうだい」
外套も頼んであるが、まだ出来上がってはいない。遠出する予定もなかったのでドレスの仕立てを優先させたのだが、こういう事態になるのならば外套を先に仕立ててもらうべきだった。
ヴァンメールでは真冬の一番寒さが厳しい時季に着る外套を出す。襟に毛皮の飾りもついているし、今の時季のブライトヘイルではなら問題はない、とノラは頷いた。
エリックを待たせてはいけない、と早めに支度を始めたので、出発する予定の時間よりずっと早く準備が整ってしまった。しかし、お茶の支度をしてもらうほどの時間はない。中途半端だ。
仕方なく下の居間へと降りて行くと、そこにはエリックの姿があった。
暖炉の前に腰を下ろして本を読んでいる彼も、身支度はすっかり整っているようだった。
「早いですね」
ミシェットとニーナが降りて来たことに気づいたエリックは本を閉じ、笑みを向ける。
隣を示されたので、ミシェットはそこへ腰を下ろす。なんとなく気不味い心地がしたのだが、エリックはいつもどおりだった。
「新しく仕立てたドレスですか?」
「はい」
「ヴァンメール風のドレスも可愛らしかったですが、ブライトヘイルのも似合っていますね。よかった」
こちらの国では、レースやリボンを使うらしい。故郷ではあまりそういうものは使わず、生地に刺繍をするのが伝統的だった。生地も、ヴァンメールでは正装にしか使わないような絹地が主流らしく、いつもと違う肌触りにちょっとそわそわする。
嫌味ではない讃辞を贈るエリックの口調に、さすがだな、と控えていたニーナは思う。男性はこういう場合、照れてはっきり言えなかったりもするのだが、彼は特にそういうものを抱かないらしい。
(でも、もうちょっと褒めて差し上げてもいいと思いますよ、殿下)
あまりお洒落に興味のないミシェットだが、思春期に差しかかってきている年頃の女の子だ。褒め言葉はいくら並べ立ててもいいのだ。ここが本人も言う『無骨者』な点なのだろう。惜しい。
エリックはニーナが言っていたとおり、軍服を着込んでいる。その姿に、思わず視線をじっと固定させてしまった。
「どうかしましたか?」
幼い妻がじっと胸のあたりを見つめているので、思わず首を傾げると、彼女は慌てて首を振った。
「その制服を見たのは、久しぶりだと思いまして……」
濃紺の生地によく映える金の肩章や房飾りなどがあしらわれた制服は、ヴァンメールの宮殿で初めて出会ったとき以来、目にしていなかったものだ。船上での彼は、同じ濃紺の制服でも肩章や房飾りのないものを着ていた。
ああ、とエリックは気づいたように己の服を見下ろし、微笑んだ。
「これは一応、将校の服装なんです。緊急のときを除いて、登城する際には正式なものでないといけないので」
式典や儀典の際にはここに勲章などもつけるのだという。今日はそういうものではないので、軍服だけなのだ。
因みに、船上で着ていた飾りのないものは下士官の服なのだとか。動きやすさなどの実用性を重視した結果、あの服装に落ち着いたらしい。だから副官のコレットよりも飾りが少ない質素なものだったのだな、と納得する。
「なんだか、とても懐かしい気持ちになります」
出会った日のことを思い出すと、まだ最近のことだというのに、何年も前のことのようにも感じる。
そうですね、とエリックも頷いた。いろいろとあったひと月だった。
そっと手を伸ばし、妻の小さな手を握る。ふにふにと柔らかい感触を確かめるように親指で手の甲を撫で摩ると、ミシェットが少し擽ったそうにした。
「旦那様、馬車のご用意が整いました」
ジョージの言葉にエリックはミシェットの手を離して立ち上がり、改めて手を差し出した。その手を掴んで立ち上がると、自然と腕の方へと導かれ、大人の人がするように腕を組むことになった。その仕種にミシェットの胸のうちは僅かに高鳴った。
エリックは基本的にミシェットを子供扱いしない。その行動は子供扱いしているように見えるかも知れないが、意見をきちんと聞いてくれたり、自分と対等な人間として扱ってくれている。それがとても嬉しい。
ミシェットもエリックに相応しい人間になりたいと思っている。けれど、年齢と共に培われる経験に基づくものは追いつきようもないので、せめて身形だけでも釣り合う人になりたいと思ったのだが、上手くいっただろうか。子供の浅知恵に過ぎなかっただろうか。
「言い忘れていましたけど」
馬車が走り出すと、エリックが思い出したように口を開いた。
「その髪型、いいですね。いつもと違っていて、ちょっと驚きました」
「似合いますか?」
「はい。女の人は髪型ひとつで雰囲気が変わるものだとは思っていましたが、ミシェットも違わずで驚きました」
その言葉に嬉しくなる。
エリックはいろいろ見ていてくれている。それがこんなにも嬉しい。
ここ数日、気持ち的に少しぎくしゃくとしていたのだが、エリックの言葉でミシェットの中にあった変な蟠りはあっさりと氷解した。
「あの、どうして今日は、私まで呼ばれたのでしょうか?」
気持ちが楽になると、躊躇いがちだった言葉もスラスラと出てくるようになる。ミシェットは訊きたくても口に出せずにいた疑問を、ようやく口にした。
「異母兄上に会うだけですよ。謁見というほど格式張ったものでもないし、そんなに身構えなくても大丈夫です」
エリックは笑顔でそう答えるが、ややして少し難しそうな表情になる。
「あまり緊張されたりとかするのもどうかと思っていたので、言わないでおいたのですが……たぶん、外交官の何人かが同席します。それと、宰相も」
格式張ったものでも大袈裟なものでもない非公式な召喚なのは事実だが、面倒な役職の人間達が同席することになっているのは聞いている。それがどういう意味なのか、エリックにはわかっていた。
そんな話を聞かされたミシェットは驚く。
「えっ……わ、私、どうすれば……」
まだ幼いミシェットにはそういう場面での立ち居振る舞いに対する知識がない。なにか無礼を働いてしまわないだろうか、と急に不安になり、青褪めた。
そんな妻の震える手を握り、大丈夫、とエリックは囁いた。
「なにがあっても毅然と顔を上げていてください。それで問題ありません」
「エリック様……」
しっかりとした口調で伝えると、ミシェットはホッとしたようだ。青褪めていた顔色が戻ってくる。
(どうせ責められるのは俺だけだ)
揃って呼び出された理由はわかっている。先日のフレデリックの件のことも含んでいるから、恐らくメリーウェザーも同席することになるだろう。
面倒だが仕方がない。ミシェットが関わる以上、これは外交問題なのだから。
そうこうしているうちに王城へと辿り着き、入城口に控えていた侍従の手によって馬車の扉が開かれ、速やかに小広間へと案内される。この部屋は軽微な陳情などの略式の謁見に使われるものだ。
ミシェットは初めて入るブライトヘイル王国の宮殿に緊張しながら、隣を並んで歩くエリックの腕をしっかりと掴む。微かに震えるその手に、エリックがそっと手を重ねてくれたのが心強い。
「レヴェラント公爵ご到着です」
案内の侍従が扉の前で声を張り上げると、内側から扉が開かれた。
正面の奥には既にアーネストが腰を下ろしていて、その左手側に外務大臣であるクラウディオと、彼の補佐官も兼任している次席外交官のジェシー・モリスが控えている。
アーネストの手前には、予想したとおりにメリーウェザーとフレデリックが並んでいて、彼女達より上座寄りには宰相であるエドマンド・デンゼルが立っていた。
部屋の中程まで進んでエリックが胸に手を当てて跪いたので、ミシェットも同じく両腕を胸の前で交差させるヴァンメール式の最敬礼で跪く。
「お召しにより参上致しました、陛下」
「よく来た、レヴェラント公」
爵位で異母弟を呼ぶアーネストの声音は、いつものふざけた長兄のものではなく、威厳に満ちた統治者のものだった。応じるエリックも臣下の礼を取っている。
「マリー・ミシェット公孫殿下も、突然お呼び立てして申し訳なかった。どうぞこちらへ」
頷き、勧めに従って玉座の近くへと進む。フレデリックが一瞬こちらへ視線を寄越したが、少し項垂れるようにして、すぐに視線を前へと向け直した。
さて、とアーネストが切り出すと、クラウディオが進み出る。
「レヴェラント公からの申し出により、ブラッドストーン公爵夫人とご子息にもご足労頂きました。本来なら当人同士で解決できる問題ではありますが、マリー・ミシェット公孫殿下が関わる以上、これは外交問題となります」
どういう呼び出しだったのかは、エリック達が来るより前に既に説明されていたらしい。クラウディオの厳しい口調に、フレデリックは僅かに俯いた。
「フレデリック・ラクレア。顔を上げろ」
アーネストの口調も厳しい。普段は優しい叔父達とはまったく違う声音に、フレデリックは泣き出しそうな顔をしている。
「確かにミシェットは可愛らしい。お前が一目惚れをしたとしても不思議はないし、それを責めるつもりもない。だが、まだ公表していないとはいえ、彼女は既にレヴェラント公爵夫人――エリックの妻であり、お前の義叔母上となっている。そして、政治的な事情で同盟国より輿入れした次期国主であられる。その人に横恋慕して、それがどういうことになるかまでは、まだわからなかったか?」
「……はい」
「では、今知ったな?」
アーネストの言葉は責めるものではない。諭すような雰囲気だが、今のフレデリックには同じようなものだろう。頷きながら俯き、上着の裾を握り締めた。
「レヴェラント公。貴公はヴァンメール公国で既に婚姻宣誓書に署名を済ませているというが、相違ないか?」
「はい、陛下。確かに署名し、大公閣下に保管して頂いております」
「では、我が国のものにも署名しろ」
そう言って手を振ると、デンゼルが抱えていた分厚い台帳を差し出して来た。歴代の王族達の婚姻宣誓台帳だ。
「本来は、再来週に行う披露会で署名する予定だったが、そこまで待つ必要はない。ペンを取れ」
「陛下……」
「貴公の考えは余も把握している。だが、それとこれは話が別だ。公孫殿下の立場を明確にする為にも、署名をしろ」
控えていたモリスが玉座の傍から小物用のテーブルを借りて来て、躊躇うエリックの目の前に置いた。デンゼルが台帳を乗せて記帳の用意を整え、ペンを差し出す。
責められるのを覚悟で登城したが、まさかこういう展開になるとは思わなかった。インクで汚れないように袖口を少し引き上げてから、今年の頭に結婚した従兄弟達の名前の下に自分の名前を書きつける。
エリックの名前を確認したデンゼルは、受け取ったペンを今度はミシェットに差し出した。
「公孫殿下もご署名ください」
なにがなんだかわからずまわりを見回すが、皆静かに頷きを返すだけでなにも言わない。
戸惑いつつもペンを受け取り、エリックの隣に名前を書いた。
二人の署名が終わると、クラウディオが進み出て来てその台帳を抱えてアーネストの前へ行き、確認させる。アーネストがそれに頷くと、今度は宰相であるデンゼルの許へ行って確認させた。
「確認したな? デンゼル」
「はい、確かに」
「ではすぐに公示しろ。今日中に布令を出せ」
「かしこまりました」
デンゼルは一礼すると部屋の隅に控えていた侍従に、広報官に文書を作成するように伝えろ、と言いつけた。侍従は命を遂行すべくすぐに退室して行く。
エリックは王の行動に憮然として黙り込んだ。
フレデリックが求婚に来たと聞いた翌日、すぐにアーネストに書状をしたため、自分の考えを伝えていた。それなのに、今日呼び出されてみればこれだ。
ブライトヘイル王国では離婚は違法ではない。正当な手続きを踏めば問題ないのだ。
しかし、それでも傷がつくのは否めない。それを回避する為に、披露会を中止にできないか、と書状で打診していたのだ。
どういうつもりか、と責めたい気持ちで国王のことを見ると、彼はかなり怒っているようだった。表情がいつもと全然違う。
アーネストの青い瞳が、息子を慰めるように抱き締めているメリーウェザーを睨みつける。
「ブラッドストーン公爵夫人。今回のことは、あなたが息子を甘やかしたことが原因だ。それを反省して頂きたい」
「お言葉ですが、陛下」
「言い訳は結構だ! あなたは事の重大さがわかっていない!」
口を開きかけたメリーウェザーを語気荒く制し、アーネストは立ち上がる。
「お前もだ、レヴェラント公。政治のことなどたいして考えようともしないくせに、変なところにばかり気を回しよって」
溜め息交じりに吐き捨ててクラウディオへ手を差し出し、心得ていた外務大臣はその手に書状を手渡した。それは数日前にエリックが上奏したものだ。
「この書面でお前の意見はよくわかった。お前の優しさもな。だが、その優しさが公孫殿下を傷つけることも知れ、愚か者!」
「……落ち着いてください、陛下」
アーネストの頬が紅潮して気が昂っていることを察したクラウディオが、宥めるようにそっとその肩に手を乗せる。そのままゆっくりと押して玉座に座らせると、居合わせる面々に振り返った。
「今回のレヴェラント公とマリー・ミシェット公孫殿下の婚姻は、ヴァンメール公国との盟約です。簡単には破棄できないものです。例え、婚姻する為の理由がなくなったとしても」
クラウディオも書状の内容は確かめたらしい。責めるような目つきでエリックを見据えると、懐から別の書状を出して見せる。
「昨夜、海賊ゴッサム及び、マリー・ミシェット公孫殿下暗殺幇助の被疑者である侍女達の護送を担っていたグリンフォード侯爵が帰国し、ヴァンメール大公閣下からの書状を受け取りました。こちらは同封されていたお祖父様からあなたへのお手紙です、公孫殿下」
そう言ってミシェットの前に来て腰を折り、目線を合わせて手渡してくれる。ミシェットへ、と書かれた文字は、懐かしい祖父の筆跡だった。
「我々は大公閣下に、脅威はまだ去っていない、とお伝えしました。大公閣下も同様のお考えであり、それは即ち、公孫殿下のお命はまだ狙われる危険性があるということです」
クラウディオの朗たる声が響き、エリックは眉を寄せた。
「それは、どういう……」
「そんなこともわからんのか、愚か者」
疑問を口にしようとしたエリックを制し、アーネストが苛立たしげな声を零す。気を利かせた侍従が持って来た水を飲み干して再び立ち上がると、深々と盛大に溜め息を零した。
「いいか? ヴァンメール公国の公位継承権は、現在ミシェットが第一位だ。それに続くのは誰だか知っているか?」
そんな質問を投げかけられ、エリックは言葉に詰まる。マリーとジュリアンという名前の子が一位と二位になることは知っているのだが、それ以上のことはよくわからない。
夫が戸惑っている様子を見兼ねて、ミシェットは躊躇いがちに口を開いた。
「第二位はアイリーン叔母様です。その次は、たぶん……叔母様のお子様だと思います」
しかし、その叔母は今は行方知れずになっている。そのあたりの継承権が今はどうなったのかはよくわからない。
そのとおり、とクラウディオが頷いた。
「アイリーン公女殿下が行方知れずであることをお伝えしましたところ、生死は問わず、公女殿下の継承権を剥奪されることをお決めになられたそうです。そして、現在第二位になられるのは、公女殿下のご子息、フィリップ・ジュリオ公子でいらっしゃいます」
ミシェットはハッと双眸を瞠った。
(叔母様のお子様の名前、初めて知った……)
ジュリオ――それはエル・ダンテス家の祖であり、人魚のマリーナ姫を娶った大公の名前とされている。代々世継ぎの男子に受け継がれているジュリアンという名前は、彼に因んでいる。
叔母はやはり、息子に大公位を継がせたかったのだ。
「ここまで話せば、いくらお前でもわかるだろう」
アーネストは理解の遅い末弟を睨みつける。エリックは長兄の言葉に頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
ミシェットを邪魔に思っているのはアイリーンで、その彼女がいなくなったのだから、ミシェットにはもう危険はないと思っていた。しかし、そのアイリーンには当然彼女を支持する人間達がついていたであろうし、その者達がアイリーンの遺児という存在を担ぎ、次の大公へと推し戴こうと画策しても不思議はない。その考えに至らなかった自分の思慮の浅さにエリックは愕然とする。
解決などまだしていなかったのだ。ミシェットはまだ命を狙われる危険性が確実にある。そんな状態でヴァンメール公国へ帰れる筈もない。
エリックが事態を理解して黙り込んだのを見届けると、アーネストはメリーウェザーとフレデリックに向き直る。
「わかったか、フレデリック? ちょっといいなぁ、とお前が思い込んだ程度の感情で、この婚姻関係を解消することはできない。ミシェットの命に係わるんだ」
「…………」
「返事をしろ」
「……はい、陛下」
「ブラッドストーン公爵夫人も、息子によく言い聞かせることだ。世の中には望めば手に入るものばかりではないということを」
メリーウェザーは決して甘い母親ではない。けれど、その身分と財力から、望んだものは大抵与えられてしまうので、そういった方面で我慢をさせるということはさせたことがなかった。だから、フレデリックは自分の考えるままに行動したのだろう。
王からの言葉に、メリーウェザーは膝を折って頭を垂れた。公の場を除き、彼女が臣下の礼を取るのは初めてのことだった。




