幕間1 嵐のお茶会~嵐の前の静けさ~
夫の屋敷で暮らし始めて、五日が過ぎた。
屋敷の使用人達は気のいい人ばかりで、突然やって来たミシェットや乳母のニーナに優しくしてくれた。
不在がちなエリックに代わって家のことを取り仕切っているのは、ジョージ・ウィルソンという白髪交じりの男性で、年齢は五十代の半ばほどらしい。元は幼いエリックの世話係兼家庭教師を務めていたこともあるらしいのだが、彼が十八になって独立した際、信用できる人間に任せたい、とアーネストから請われて家令の職を拝したのだという。
外向きのことを中心に取り仕切るジョージに代わり、本来なら女主人の行う内向きのことを取り仕切るのは、家政婦長と呼ばれる彼の妻であるグレイスだ。
そのウィルソン夫妻が留守がちな主人に代わって音頭を取ることで、レヴェラント公爵邸は機能していた。
「あの」
ミシェットは厨房の入口のところで声をかけた。中にいたのは大柄な料理人で、スープを煮込んでいるところだった。
男にはミシェットの声が聞こえていなかったようで、振り向きもしない。
ちょっと躊躇ったが、もう一度「あの、すみません」と声をかける。
反応したのは、裏口から入って来た若い見習い料理人の女だった。ちょっと、と男の背中を肘で突く。
「……何処のガキが入って来やがった」
振り返った大男は、その厳つい顔に深い皺を刻み込んでミシェットを睨みつけた。その迫力に気圧されて思わず後退る。
「なに言ってるんです!? 奥様でしょ!」
女が顔色を変えて料理人を怒鳴った。料理人はますます顔を険しくする。
「申し訳ございませんね、奥様。なにかご用でしたかしら?」
「あ、はい……ちょっと厨房をお借りしたかったのです」
「厨房を? それなら、どうぞお入りください」
なにをする気なのだろう、と首を傾げながらも、女はミシェットを中に招き入れた。
礼を言って中に入るが、大男は不機嫌そうにミシェットを見つめている。
「あの、お邪魔してごめんなさい。お菓子を作りたいので、少し場所と材料を貸して頂いてもいいでしょうか?」
無口な大男はなんだか恐かったが、ミシェットははっきりと目的を告げ、お願いをした。
女が男の背中を小突く。すると男は渋々といった様子でミシェットの前に立ち、厳つい顔でジッと見下ろして来た。
「俺は料理長のブランドンという。こっちはメアリ。あとは今、裏にいるナンシーと、使いに出ているネッドとニコルってのがおります」
「マリー・ミシェットです。五日前にこちらのお屋敷に参りました」
ドレスをつまんでちょこんとお辞儀をすると、ブランドンはミシェットの頭の天辺から爪先までじろりと見て、ちょっと待ってろ、とぶっきら棒に言って奥の小部屋に消えた。
少しして戻って来ると、前掛けを差し出してきた。ちょっと驚いて目を丸くしていると、服が汚れるから、と短く言われた。どうやら厨房の使用許可は下りたようだ。
礼を言ってそれを受け取り、着けてみる。少し大きかったので、引きずらないように持ち上げて少し折り、改めて腰紐を結び直す。
「手伝いはいるのか?」
「大丈夫です」
メアリが後ろの方を直してくれるので任せながら、調理はひとりでできる、と答える。
わかった、とブランドンは頷き、足場になる空箱を持って来て置いてくれた。作業台はミシェットの胸の高さくらいだったので、これはとても助かる。
箱に上がって、持ってきた帳面を開いた。
「なんです、それ? レシピですか?」
「はい。亡くなった母にもらったものです」
母がまだ健在だった頃、ミシェットが喜んで食べていたお菓子の作り方を集めてくれたものだ。作ってくれていたのはニーナなので、詳しい作り方は彼女に訊けばいいことなのだが、母が丁寧に書き記してくれたこれを眺めるのが好きだった。
いいお母様ですね、とメアリが笑いながら、書いてある材料を持って来てくれる。ブランドンは少し恐い顔で彼女を睨んだが、なにも言わずにスープの煮込み作業に戻った。
「牛酪に小麦粉と卵と……砂糖はこれ、使ったことあります?」
どん、と巨大な蝋燭のようなものを置かれる。いいえ、とミシェットは驚いて首を振った。こんなもの見たこともない。
「これを、こうやって砕いて使うんですよ。ご自分でやりますか?」
大工道具のような鑿と木槌を差し出して尋ねられるので、ミシェットは思わず頷く。やったことはないが、手伝いはいらないと言ってしまったので、これくらい自分でやらなければ。
メアリは傍らで芋の皮剥きを始めながら、コツを教えてくれる。感謝しつつ、指示されたとおりに棒糖を砕いて必要な量を用意する。
砂糖の塊をせっせと砕きながら、今まではこういうのもすべて使いやすいように用意してもらっていたのだな、と気づかされた。全部自分一人でできるような気がしていたが、そんな簡単なことではなかったようだ。
使うものが揃ったので、書いてあるとおりの手順で混ぜ始める。
「あら、お上手ですこと」
小さな手が迷いなく作業を進めていることに、メアリが感心したように言う。ねえ、と横目で様子を窺っていたブランドンに話を振ると、彼は唸るような声で頷いた。
「ばあやに習いました。私の唯一の特技です」
恥ずかしげに特技とは言うけれど、実はレシピノートに書かれているものは、まだ三種類ほどしか作れない。けれど、これから少しずつ練習していきたいと思っている。
そう答えると、ブランドンが大きく頷いてくれる。
「いい心がけだ。お前も見習え、メアリ」
「今度からパン焼きを任せてくれるなら、もう少し頑張りますよ」
「……まだ早い。もうしばらくは下拵えだ」
そんな遣り取りをしていると、ただいまぁ、とお下げ髪の女が野菜を抱えて入って来た。彼女がナンシーだろう。
「あら、誰? その子」
野菜を貯蔵場所に仕分けながら、見慣れない子供がいることに気づいた。
いやだわ、とメアリが呆れたように言う。
「ブランドンさんだけかと思ったら、あんたも知らないの? 奥様よ」
「えっ!」
驚嘆の声を上げたナンシーの手から玉葱が転がり落ちる。
「小柄な方だとは聞いてたけど、あらあらぁ……」
ナンシーは目を真ん丸にしたまま、ミシェットのことを見つめてきた。心底驚いている様子が窺える。
名乗って挨拶をすると、彼女も同様に返してくれた。
「つかぬことをお訊きしますけれど、奥様。お年はおいくつなんですか?」
「九つです」
まあ、と女達が明らかに驚いた声を上げた。ブランドンがそんな女達を一喝する。お喋りをするのはいいが、手元が疎かになりすぎている。
そういう反応があることはわかっていた。少し悲しく、何処となく恥ずかしく思いながら、ミシェットは作業を続けた。
捏ね上がった生地を丸め、濡れ布巾を被せて置く。その間に竈の用意をしておかなければ、とミシェットは煮炊き場の方へ向かった。
火の扱いは危ないと思ったのか、竈はブランドンが準備してくれると言う。心配させるのも迷惑かと思い、素直にお願いし、天板を二枚拝借した。
「お菓子作りだなんて、どうしてご自分で? 言ってくだされば、私達でご用意しましたのに」
ナンシーは訊きたがりの性分のようだ。ミシェットが天板に油を引いていると、興味津々の様子で尋ねてきた。
「エリック様――旦那様が、今日から床上げされたので、お茶請けにしようと思って」
そこまで重症ではなかったのだが、しばらく安静にしているようにと診断を受けていた屋敷の主人は、今朝まで寝室で過ごしていた。肩の痛みも取れたので床上げとし、今日は朝食を食べてからジョージと共に書斎に籠もっている。
午前中は忙しくしているが午後はなんとか時間を作るので、お茶は一緒にしよう、と朝食の席で言われていたので思いついたのだ。
旦那様には内緒なのです、と頬を染めてはにかみながら告げるミシェットの姿に、女達は微笑んだ。
「奥様、生地はしばらく寝かせるのでしょう? 手が空くのなら、焼き林檎も作りません?」
林檎を掲げ持ったメアリからの提案に、ミシェットは小首を傾げる。
「焼き林檎ですか?」
冬場に風邪をひくと、乳母がよく作ってくれていた。なので、焼き林檎を食べるというと、ミシェットには病人食のような考えがあった。
「林檎は殿下の好物だ」
後ろからブランドンがぬっと現れ、作業台の上にメアリから受け取った真っ赤な林檎を置いた。
言われてみれば、船にいるときは懐に必ずと言っていいほど林檎が忍ばせてあったし、気がつくと林檎を齧っていたような気がする。よく動き回るので小腹が空いての補給物資だと思っていたが、ただ単に好物だったのか。
なるほど、と頷くが、困ってしまって眉を下げる。
「でも、作ったことありません」
レシピノートにも書かれていなかったと思う。さすがに勘だけで作れるほどには料理に精通していない。
「教えてやる」
ブランドの大きな身体が横に立ち、ミシェットにナイフを差し出した。
「昼の仕込みは終わって、俺の手は空いている。問題はない」
それでもミシェットが戸惑うと、彼は「向上心のある奴は好きだ」と付け足した。ノートに書かれたレシピを少しずつでも覚えていきたい、と答えたことが気に入られたようだ。
素直に礼を言ってナイフを受け取り、教えを乞うことにした。
「まずは芯をくり抜く。ここをこうして、こうする。指に気をつけろ」
「はい」
ミシェットは手本に見せられたとおりにナイフを動かしてみる。意外と難しい。
慎重にナイフを扱っていると、メアリとナンシーが不安そうな顔で見つめてくる。慣れない手つきが危なっかしくて恐いらしい。ブランドンもなにか言いたげに見ているが、それを気にするような余裕はない。
少し歪だったがなんとか言われたとおりにやると、ブランドンが微かに笑った。その笑顔が出来栄えを褒めてくれているようで、達成感が込み上げてくる。嬉しくなってミシェットもにっこり微笑み返す。
「私、エリック様が林檎が好きだなんて知らなかったです」
くり抜いた部分に詰め込む為の材料を用意してくれたメアリに向かって言うと、メアリも、傍で聞いていたブランドンとナンシーも微笑んだ。
「一緒に暮らし始めたばかりなのですから仕方ないですよ」
「これからたくさん覚えていけばいいことじゃないですか。ねえ、料理長」
「ああ、そうだな」
今日は林檎が好きだということを覚えた。まずはそれでいいではないか、と相変わらずぶっきら棒に言われたので、ミシェットは頷いた。
それからもブランドンの講習は続き、ミシェットはなんとか焼き林檎の仕込みを完成させられた。そのときには丁度昼食の時間だった。
寝かせてある生地を作業台の端で保管してもらい、厨房の面々と別れて食堂へと向かう。
食堂の扉を開けようとしていると、丁度エリックが上から降りて来たところだった。彼はミシェットの姿に気づくと、すぐに扉を開けてくれた。
今日のエリックは軍服ではない。朝も見て思ったが、エリックと出会ってからの半月程はずっと軍服姿だったので、見慣れなくてとても不思議な感じだった。
ミシェットの視線に気づいたエリックが、自分の服装を確認する。
「おかしいところでもありますか?」
「いいえ。ちょっと違う人のように見えてしまったので」
エリックは背が高いので、どんな服装でも見栄えがする。けれど、体格ががっしりとしているので、軍服の方が似合うようだと思った。
「そういえば、ばあやさんが探していましたよ」
テーブルについて料理が運ばれてくるのを待つ間、思い出したようにエリックが言った。
「え? 出歩いていたのですか?」
実はニーナは、一昨日からぎっくり腰になって寝込んでいる。
そもそもの原因は、エリックの見舞いに来たアーネストが帰り際に、ミシェットの為の薬湯を運んでいたニーナにぶつかったことだった。
アーネストは余所見をしているくせに足早に歩いていたので、曲がり角で出くわした際、お互いに避けることができなかったのだ。王宮にいるときなら余裕ですれ違えたのだろうが、エリックの屋敷の廊下では道幅が違い、気づいたときにはニーナが引っ繰り返ったところだったという。
その前にも、ミシェットが船から飛び降りる瞬間を目撃して腰を抜かしていたこともあり、どうにも腰のあたりに疲労が蓄積していたらしく、転んだ瞬間に筋を違えてのぎっくり腰となったようだった。
部屋に忘れた印章を取りに戻ったとき、へっぴり腰で伝い歩きをしているニーナを見かけたのだ。どうしたのかと問えば、ミシェットがいなくなった、と心配そうにしていたので、出かけてはいないから安心して寝ていろ、と部屋に運んでやったのだという。
まあ、とミシェットは目を丸くした。
「その……重くなかったですか?」
女性に対してこう言ってはなんだが、ニーナはだいぶふくよかな体型をしている。ふわふわしていてミシェットは大好きなのだが、抱えて運ぶとなると、少し重たいのではないかと思われた。
「そうでもなかったですよ」
持ち上げるのにはなんの支障もなかったが、腰を気遣いながら運ぶ方が大変だった。
「ばあやさん一人くらい、異母姉上とクソガキ四人を抱えたときに比べれば、なんともないです」
運ばれてきたスープに口をつけながら、盛大な溜め息だ。そのときのことを思い出したのだろう。
それはいったいどんな状況だ、とミシェットは首を傾げた。
エリックがまだ十代の頃、背がすっかりと伸びて筋肉がついてきたのを見た異母姉が、ちょっと私のことを抱き上げてみなさい、と要求したところ、僕も、私も、と甥姪達も飛びかかって来たのだ。その結果、異母姉を腕に抱え、下の二人が両肩にしがみつき、上の子が背中に飛び乗ったかと思ったら、よちよち歩きの末っ子が異母姉の爪先にぶら下がる――という体勢になってしまったのだという。
一緒にいた異母兄達は笑い転げるばかりで助けてはくれないし、根性を見せろ、と異母姉は叱るし、子供達は暴れて痛いしで散々な目に遭ったのだった。
「エリック様は、力持ちなのですね……」
「それ、前にも言っていましたね」
心から驚いて呟くと、エリックが笑う。確かに以前にも、ミシェットを抱えてくれた彼に言ったような気がする。
「殿下、お食事中に失礼致します」
給仕係りと入れ違いにジョージがやって来る。彼は銀盆に一通の手紙とナイフを乗せていて、それをエリックに差し出した。
「ブラッドストーン公爵夫人からお手紙でございます」
「え……」
受け取ろうと手を伸ばしたエリックの指先が、直前で躊躇うように止まる。なにかを訴えかけるようにジョージに目を向けたが、優秀な家令は無言で盆を突き出した。
その圧に諦めたように手紙とナイフを受け取り、封を切る。
ざっと目を通して溜め息をつき、テーブルの端に置いた。
「持って来た者は?」
「待たせております。お返事を頂いて来るようにと言いつかったらしいので」
「そうか……」
帰ってくれていればよかったのに、と少し恨めしく思いながら、右目に触れる。
「あと何日で消えると思う?」
眼底出血による目の充血はだいぶ引いたが、青痣はまだ消えていない。
「そうですね……あと、四、五日は無理ではないかと思いますが」
青黒く腫れ上がっていたのはだいぶ落ち着いたが、今は斑模様で汚く見える。目立たないくらいになるのを待つとなると、やはり五日は必要だと思われた。
そうだよなあ、ともう一度溜め息を零した。
「明日の午後、顔を見せろと言って寄越した。断った方が賢明だと思うんだが、どう思う?」
「断らない方が賢明だと思いますよ」
嫌々そうに尋ねると、ジョージが渋い表情をして助言した。そういう答えがくることはわかっていたが、同意して欲しかった。
「すみません、ミシェット。件の異母姉が、顔を見せろと言ってきました。明日の午後はお付き合い頂けますか?」
なんだかわからずに食事を進めていたミシェットに、エリックが告げる。えっ、と驚いて目を見開いた。
「お姉様、ですか……?」
「はい。気の強い人ですが、取って食いやしませんし、気負わなくていいです」
なんだか嫌そうな顔をしている。アーネストといるときと同じような顔なので、きっと少し苦手な相手なのだろう、とミシェットは夫の心中を思った。
わかりました、と素直に頷くと、エリックはまた微妙な顔をする。
「……断ってもいいんですよ?」
「え? でも……」
「無理をすることはないので」
「…………」
断って欲しそうな雰囲気で付け足す。
彼がなにを訴えかけているのかわからず、ジョージに目を向けてみる。彼は無言でエリックの旋毛のあたりを見下ろしていた。
「私はお伺いすることをお断りする理由はありませんけれど、エリック様は謹慎中ではなかったのですか? 出歩いていいのですか?」
「ああ、そうだ!」
ミシェットに指摘され、今思い出したかのように手を打つ。
エリックはひと月の謹慎中なのだ。指揮官として無謀な行動を取り、部隊に損害を与えたという理由なのだが、要は作戦中に怪我人が多く出たので、船の修復期間も含めてしばらく静養しろというお達しだった。
もっとも、エリックは普段サボり気味な王族としての職務があるので、怪我が治ったら王宮に来てそちらの方をやれ、という国王命令が出ているので、他の部下達のように半分休暇という期間にはならないのだが。
異母姉のところに訪問しなくていい理由を見つけたエリックは、ジョージに嬉々としてそう伝える。
その言葉を承ったジョージはなにか言いたげだったが、使いの者にそのように伝えると答え、小さく溜め息を落としながら退室して行った。
「ミシェットのお陰で助かりました」
「……お姉様のことが苦手なのですか?」
にこにこと子供のような笑顔を浮かべたエリックに、ミシェットは戸惑う。二人の異母兄達に対しても微妙な表情を見せてはいたが、異母姉に対してはもっと顕著になっている。
「そういうわけでもないですが……まあ、あまり」
妻からの指摘に、エリックは口ごもった。どうやら的を射た指摘だったらしい。
図星を突かれて恥ずかしくなったのか、エリックはさっさと食事を終え、席を立った。
「残りの仕事を片付けてきます。四時までには終わらせられると思いますので、少し待っていてください」
「はい。頑張ってください」
食後の飲み物は書斎に運んでもらうように指示を出し、エリックは食堂を出て行った。残ったミシェットも食事を片付け、一度ニーナの部屋に向かうことにする。
部屋に戻る途中で、食事を運んでいる女中の姿に気づく。声をかけてみると乳母の食事だったので、運ぶのを替わらせてもらう。奥様にそのようなことはさせられません、と女中は困ったように少し抵抗したが、ミシェットが頼むと譲ってくれた。
ドアをノックして開けるまでは苦労したが、なんとか盆を落とさずに部屋の中に入る。
「まあ、ミシェット様!」
「お昼ご飯を持って来たの」
とことこと入って来たミシェットの姿にニーナは驚いたようだが、腰が痛み、身動きが取れずに申し訳なさがっている。
「今まで何処に行っていらしたのです? 心配しました」
午前中に姿が見えなかったことを案じていたニーナは、少し咎めるような口調で尋ねる。
「ごめんなさい。厨房に行っていたの」
「厨房ですか?」
寝台の上に食事を乗せてもらって恐縮しながら、ニーナは首を傾げる。そんなところになにをしに行っていたのだろう、と思うが、すぐにミシェットの好きなことを思い出す。
「お菓子を作っていたのですね?」
こくりと頷くので、ニーナはようやく安心した。
「お姿は見えないのに、殿下は心配ないとしか仰らないし、どうしていたのかと思いましたけれど……厨房の方々にはちゃんとご挨拶なさいましたか?」
「はい。いい人達ばかりでした」
ニーナが食事をする間、ミシェットは傍で午前中にあったことを話して聞かせた。
料理長はとても身体が大きな人だったこととか、メアリとナンシーとは仲良くなれそうだとか、棒糖を砕くことを初めてしたとか、そういうことを一生懸命話すと、ニーナは嬉しそうににこにこと頷いてくれた。
「ブランドンさんに習って、焼き林檎を作っているんです。下拵えは終わったので、お茶の時間になったら焼くの」
「まあ。ナイフなどで指を切られませんでしたか?」
「大丈夫。ちょっと難しかったけど……。ばあやはいつもあんな苦労をして作ってくれていたのね」
「慣れてしまえばどうということはありませんよ」
「そうなのね。私も早くそうなりたい」
今の小さな手では林檎を持つのも結構大変なのだ。もう少し大人になったら、なんでも簡単にできるようになるだろうか。
そんなミシェットの様子を見て、ニーナは心から安堵する。突然遠い異国の地に嫁ぐことになり、生活習慣も違う地で見知らぬ人々に囲まれて暮らすのは気疲れも多く、泣き暮らすことになるかと思えば、なかなかに積極的に交流を育もうとしているようだ。大人しい性分の子だったので案じていたのだが、上手くやっていけそうだ。
「そういうわけで、午後も厨房にいると思うの。だから、心配しないでね」
「わかりました。ばあやはお部屋で寝かせてもらいます」
「うん。早く治してね」
食事の終わった盆を持ち上げ、厨房に行くついでに下げることにする。そんなことは女中にやらせるべきだ、とニーナが言うが、行き先は同じなのだからミシェットがやればいいことだ、と笑顔で振りきる。
「ああ、ミシェット様。足はもう大丈夫なのですか? 薬湯を……」
「もう痛くないです。でも、寝る前に頂きます」
「わかりました。お菓子作り頑張ってくださいましね」
「はぁい」
元気に頷いて廊下に出ると、まっすぐ厨房に向かった。
ごめんください、と声をかけて厨房を覗くと、またブランドンが大きな鍋を掻き混ぜている姿が目に入る。彼の耳にはまたミシェットの声は届かなかったらしく、今度は見知らぬ男の人が出て来て、戸口に立つ小さな姿に怪訝そうな目を向けた。
「……なにか?」
「食器を下げに来ました」
ニーナの食器を見せると、男はそれを受け取り、奥の洗い場にいたナンシーに渡した。
「あら、奥様!」
食器を受け取るときに振り返ったナンシーが、ミシェットの姿に気づいて笑顔を向けてくれる。それを合図にミシェットは厨房の中へ入って行った。
男はまた怪訝な顔をした。彼もミシェットのことは知らないらしい。
改めて名乗ると、男は慌てて姿勢を正し、ニコルと名乗った。午前中は買い出しに行っていたうちの一人だ。
「仕上げに来たのか」
鍋を掻き混ぜながら、ブランドンが尋ねる。はい、と元気よく頷くと、手を止めて作業台に来てくれた。
「置いて行ったレシピを見て、勝手に同じものを作らせてもらった」
ナンシーに手伝ってもらって前掛けをつけているミシェットに向かい、ブランドンがもう一塊のクッキー生地を出してきた。
何故そんなことを、と不思議に思っていると、「ブラッドストーンの配達人が来ただろう?」とムスッとした表情で答えた。
どうしてそんなことを知っているのだろうか、と思えば、ブラッドストーン公爵家の文書配達人はナンシーに気があるので、帰りに必ず厨房の裏手に顔を出すのだとか。
「あれが来たあとは、大抵嵐の襲撃がある」
「嵐……ですか?」
そうだ、とブランドンが頷くと、ナンシーやニコルも苦笑した。
「殿下がこの世で三番目に苦手にしている局地的小型暴風雨だ」




