11 海からの迎え
「第二、第三隊も射出成功しました!」
弩を搭載した船はあと二隻あり、それぞれが一隻目と同様に海賊船へと巨大な銛を撃ち込んだ。
三隻分で足りて丁度よかった、とアーネストは笑う。弩が足りなくても、艦隊を率いて来たのだから問題はなかったが、手っ取り早い方がいい。
「固定完了! 砲兵員も退避完了しました!」
次の報告があり、アーネストは頷く。そうして、短く「やれ」という命を下した。
「砲撃用意! ――撃ぇッ!」
号令と共に同時攻撃を示す為の旗が振られ、各船の砲門が火を噴く。その砲弾が狙ったのは、自軍の船だった。
海賊船に撃ち込んだ銛には頑丈な綱が装備されていて、その綱の端を船のメインマストに括りつけて固定してあった。その三隻の船を他の船から一斉に砲撃したのだ。
攻撃を受けた船は、予め海水を詰めた大量の樽を積み込んで重くしておき、更に巨大な弩を乗せることで元々の平衡を崩し、少しの攻撃で沈むように計算していた。指示をしたのはクラウディオだ。
船は計算どおりすぐに沈み始めた。
船体が沈み始めたことで、マストに固定されていた綱も海中に引き込まれて行く。すると、その先にある銛も引きずられ、海賊船は徐々に傾き始めた。
自分達の船が平衡を崩し始めていることに気づいた海賊達は、少し前まで突然逃げ出したエリック達を追い駆けて笑い、次に聞こえて来た砲声で「あいつら自分の船を攻撃してやがる」と笑っていたというのに、今は逆に悲鳴を上げ始める。
「おい! こっちが沈んじまうぞ!」
「ブライトヘイルの奴ら、なんてことしやがんだ!」
「ふざけるなよ、チクショウ!」
「なんてことだ!」
「船長! どうしやしょう!?」
ゴッサムは怒りに全身が震えた。
なんということをするのだ。自らの船を沈めてしまうなど、正気の沙汰とは思えない。
この大きな銛を引き抜けば道連れになるのは回避できるだろうが、どう考えても間に合う気はしない。こちらの船も既に傾き始めている。
「動ける奴ぁ脱出艇に乗り込め!」
愛する船を捨てるのは嫌だったが、自分を慕ってついて来てくれた船員達の命には代えられない。アジトに戻れば金はあるし、それで船はまた作れる。
歯軋りしながら脱出艇の用意をさせる。元々船から逃げることは想定していないので、脱出用の小舟は、強奪した財宝をアジトに持ち込むときに使う程度にしか考えておらず、二艘しか用意していない。三十人ほどいる船員の全員が乗れるかは賭けだ。
「船長、舟がねぇよ!」
怪我人を助け起こしていると、小舟の用意に行った船員のひとりが悲鳴を上げた。
なんだと、とそちらに詰め寄れば、確かに一艘しか見当たらなかった。おかしい。いつもここには二艘積んであったし、今回も海に出る前に一応の確認はしていた。見落としてはいない筈だ。
(あの女――?)
ハッと気がつく。今回の仕事の依頼人であるアイリーンと、その彼女が連れた二人の従者の姿が船上の何処にもないことに。
消えた小舟には、あの公女様が勝手に乗って行ったのだ。
なんという身勝手な女だ。乗船は許可したが、ゴッサムのものを勝手に使ってよいという許可はしていない。
怒りの持って行き場がなくなったゴッサムは、思わず雄叫びを上げた。どうにか発散しないとなにも考えられなくなる。
そうこうしてなんとか気持ちを落ち着けながら、小舟には乗れるだけ乗って海に出たら、残りの者は板にでも掴まっているように指示を出す。幸いにも陸地はすぐ目の前だ。溺れ死ぬことはない。
脱出に手間取っているうちに、船はどんどん傾いて行く。綱で繋がれたブライトヘイル軍船は既にほとんど海中に沈んでおり、こちらももういくらもしないうちに平衡を失い、海底へと引き込まれていくだろう。腹立たしい。
甲板に積んであった酒樽からは勿体ないが中身を抜き、板の代わりに使う。雨水貯水用の樽も同様だ。これで何人かは浮くことができる。
ゴッサムも樽のひとつを抱えて海に飛び込もうとしたが、そのとき、視界の端にエリックの姿が見えた。こちらの体当たりを食らってもたいした損傷のなかった軍船は、沈没していくゴッサム達の船団を見下すようにそこに在り、それが無性に癇に障った。
(ただで沈んでやる気はねぇぞ、小僧!)
ゴッサムは抱えていた樽を放り出すと腰から鉤つきの縄を取り出し、それを目の前の軍船に向かって投げつける。鉤がしっかりとかかったことを確認すると助走をつけ、そのままレディ・エスター号へと飛びついた。
鉤縄でゴッサムが渡って来たことは、誰も気づいていなかった。
水夫達は乗り込んで来た海賊達を捕縛し、死体になった者は甲板の上に並べたり、船体の被害状況を確認していたのだが、そのうちの一人が悲鳴を上げて倒れた。それを傍で見ていた仲間が、あっ、と声を上げたと同時に斬りつけられて悲鳴を上げる。
ざわめきに気づいたエリックが振り返ると、そこにはゴッサムが立っていた。
髪を振り乱し、肩で大きく息をしている老海賊は、剣とナイフを携え、血走った目でエリックを睨めつけている。
「儂の船は沈んじまうよ。貴様の所為でな! 王子!」
剣先がまっすぐにエリックの喉許を指し示す。
「自業自得ではないか、海賊!」
「止せ、コレット大尉」
襲って来たから反撃に遭っただけのことだ。それについて物言いをつけるとは、逆恨みもいいところではないか。そんな覚悟もなく長年海賊をやってきたのか、と歯を剥くコレットを制し、エリックは静かにゴッサムを見つめた。
「その恨みを、俺の首で贖うつもりか」
「ああ、そうさ! 一対一で勝負しろ!」
立場は違えど同じ船乗りとして、自分の船を失う悲しみやつらさはよくわかる。
だが、それとこれとはまた別の話だ。
エリックが静かに「断る」とひとことだけ告げると、老海賊は虚を突かれたようだ。その身体から一瞬力が抜けた瞬間を狙い、じりじりと距離を詰めていた水夫や士官が飛びかかった。
完全なる多勢に無勢ではたいした抵抗ができる筈もなく、ゴッサムの手からは武器が奪われ、そのまま背中の方へ腕を捻り上げられると、四人がかりで全身を甲板の上に抑えつけられる。いくら老齢とはいえ、その筋肉のつき方を見て、これくらいの人数でもないと抑え込めないという判断は正しかった。
手脚も完全に抑えつけられたゴッサムは、罵声交じりの悪態を吐きまくった。
「チクショウ! 卑怯だぞ、小僧!」
「卑怯で結構。これでも一応は指揮官だからな、決闘などという愚を犯すわけにはいかん」
ゴッサムの太い腕に縄をかけながらその返答を聞いていたコレットは、どの口がそれを言うのか、と呆れる。敵船にたった一人で突撃したのはついさっきのことではないか。
念には念を入れてしっかりと縄で縛り上げると、卑怯者、腰抜け、と喚いて五月蝿いので猿轡を噛ませ、捕縛を済ませた他の海賊達のところへ引きずって行った。
怪我を負った者には一応簡単な手当てをしてやり、人数を数えてみると、生きているのが二十人ほどで、死んだのが八人だった。残りは海の中だ。
こちらの被害も確認してみると死んだ者は幸いにもいなかった。あとは何人か骨を折った者と深く斬られた者がいるようだが、命に係わりそうな重篤な大怪我を負った者は三人ほどで、結果としてエリック達の大勝利と言えた。
アーネスト達の援軍があったからの勝利なので素直には喜べないが、長年南海を荒らしていた海賊ゴッサムを捕らえられたのは最大の僥倖だ。
海中にいるゴッサムの仲間達のことはどうしようかとも思うが、そちらは向かって来ているアーネスト達の艦隊に任せておけばいい。もしかすると、先程の緊急事態を知らせる砲声に気づいた南方支部からの艦隊がやって来て、手柄を取って行くかも知れないが、それでもいいと思う。コレットあたりが怒りそうだが、今のエリック達には、逃げ出す海賊達を捕まえるような余裕が少し足りない。
「ベン、舵はどうだ?」
怪我の手当てをしているエドガーに代わり、舵はまだベンが握っている。
ゴッサム達の船から船尾にも体当たりを食らっていたので、どうなっているのか不安があったが、様子を確認していたベンや水夫達からは「問題ありません」という頼もしい答えが返った。頷き返しつつ、コレットからも船体の被害状況を聞き取る。航行に問題はない範囲の損傷だとわかり、エリックは安堵した。
「下に落ちた者がいたら助けてやれ。すぐに小舟の用意を頼む」
エリックはまだ僅かに痛む右目のあたりを押さえながら指示を出し、自分もその舟に乗り込むことにして歩き出す。
それに気づいたコレットが慌てて駆けつけ、押し留めようとする。
「艦長――いいえ、エリック殿下。頭を打たれているのなら、無理はいけません。すぐに船医に診せてください」
本人でさえも時折忘れているようにも見えるが、エリックは軍人であると同時に、ブライトヘイルの王位継承権の第三位にある王子なのだ。万が一のことがあってはいけない。
コレットの切羽詰まった様子に、エリックも頷き返す。けれど、これだけは自分の手でしなければいけないことなのだ。袖を掴むコレットの手をそっと外し、肩を竦めた。
「約束したんだ。俺が迎えに行く、と」
ミシェットは震えていた。
涙に歪む視界に、はらはらと金糸の髪が落ちてくる。
「あらあらぁ。駄目じゃないの、ミシェット。せっかく痛くないようにしてあげようとしていたのに」
頭を撃ち抜けば一瞬だったのに、とアイリーンは嘆かわしげに言った。
その言葉のとおり、ほんの少し前までミシェットの可愛らしい額は、アイリーンの構えた短銃の銃口に狙われていた。彼女の指が撃鉄にかかり、引き金を引いた瞬間、身動きできなかったミシェットをティムが渾身の力で引き倒したのだ。お陰で髪の毛が数本撃たれただけで済んだ。
アイリーンは漕ぎ手を務める従者に舟を進めるように命じ、自分は短銃に火薬と弾を込める作業を始めた。
「叔母様……叔母様、どうして……」
血が止まらないティムの傷口を押さえながら、ミシェットはアイリーンに濡れた目を向けた。
嫌われているのは知っていた。憎んでさえいるのだろう。けれど、そんな思いを抱かれるようなことを、彼女にしてしまった覚えはない。
アイリーンは弾込めの終わった短銃を銃帯に戻し、もう一挺の銃にも弾を込め始める。勢いは落ち着いたとはいえ、雨はまだ降っているので、火薬を濡らさないように慎重に。
「どうして? ……そうね。あなたはなにも知らないんですものね」
小舟同士にはまだ少し距離があるし、軽い時間潰しのつもりだろうか、アイリーンは笑みを浮かべた。
「昔――そうね、十二年くらい前のことかしら。私もお姉様も、まだ十七のときだったわ」
花も恥じらう年頃の双子の公女達は、ある夜会の折り、アンリ・コトーという青年と出会った。
成人したのだから、今後の為にももう少し社交を学ぶべきだ、と両親と共に夜会に参加したアンリはあまり背も高くなく、美丈夫というほどに整った容貌ではなかったが、精悍さの中に少し幼さが残る笑顔が魅力的な柔和な青年だった。貴族ではないが古い家柄の商人の息子で、彼の両親も大公と親しく、とてもいい人達だった。
若かったアイリーンは、ふたつ年上のその青年の浮かべる優しげな笑みに、一目で恋をした。
女性から積極的に言い寄るのははしたないと思われるだろうが、アイリーンは気にしなかった。公位を継がない自分には政略結婚など無用のものだったし、結婚相手は自由にしていいと父からも言われていた。だから、アイリーンはアンリを夫に迎えたいと思い、彼にもそのように伝えていた。
しかし、アンリが選んだのは、姉のマリー・ソフィアだった。
宮殿の花園にある美しい四阿の前で、姉の前に膝を突いて「無礼を承知で求婚します」と告げた彼の姿を見たアイリーンは、絶望に囚われた。
頬を染め、綺麗な若葉色の瞳を潤ませた姉は、本当に美しかった。
その美しい姉の薔薇色に染まる愛らしい唇が「はい」と、僅かに震えながらうっとりと呟いた声が、今でもはっきりと思い出せる。あの声を夢に聞き、何度魘されて目を覚ましたことか。
「あなたはね、マリー・ミシェット。大好きで大嫌いなアンリ・コトーと、生まれたときから私のものをすべて奪う憎らしいソフィアお姉様の子供なの」
アイリーンからの好意を無視したアンリが許せなかった。
アイリーンの気持ちを知っていながら求婚を受けたマリー・ソフィアも、二人の結婚を許した父も、絶対に許せなかった。
「あなたはこの世に生まれたときから罪深いのよ、マリー・ミシェット!」
過去の記憶を思い出した所為で手元が狂い、砲身に入れる筈だった弾が零れ落ちる。それに気づいたアイリーンは静かに深い呼吸を繰り返し、心を鎮めていく。
舟の舳先がごつんとミシェット達の舟にぶつかり、僅かに揺らした。
「だからね、ミシェット。あなたは死ななくてはいけないの」
「叔母様……」
「あなたのお母様にすべてを奪われてきたのだから、今度は私が奪う番よ。お姉様が受け継ぐ筈だった大公位も、美しいヴァンメールも、みんな私のものにするの」
ミシェットは嫌々と首を振った。けれど、アイリーンは微笑みながら銃口を向ける。この距離なら外しようもない。
「お父様とお母様によろしくね。私がどれだけ二人を恨んでいたか、伝えてちょうだい」
さようなら、と紅い唇が優しく微笑んだ。そんな笑みを向けてくれたのは初めてのことで、それが余計に悲しかった。
入り江に銃声が響いた。
しかし、ミシェットにはなんの痛みもない。勢いで瞑っていた目を恐る恐る開けると、アイリーンが上半身を捻るようにして、舟から落ちて行く姿が目の前にあった。
「ミシェット!」
叔母が落水した音に被さるように、ミシェットを呼ぶ声がした。
ハッとして振り向くと、そこには想像どおりの人の姿があったので、ミシェットは泣きそうになる。
「よくやった、コレット大尉! 褒賞は弾むぞ」
「艦長はもう少し射撃の訓練をした方がいいと思いますよ」
役目を終えた銃を降ろしたコレットは、拳闘の腕ばかり上げていく筋力馬鹿の上官からの讃辞に、溜め息交じりに零した。
上手く当たってよかった。射撃の腕は海軍の中ではいい方なのだが、精密さを求められるのは苦手なのだ。
アイリーンの従者達は落ちた公女を救い出そうとしているが、手早くとはなかなかいかないもののようで、なんとか舟に引き上げた頃には、エリック達の舟も相当近くにまで来ていた。
腕から止め処なく血を流しながらも、そんな怪我などよりもミシェットの命を奪うことの方が重要なようで、アイリーンの双眸は目の前の小さな姪の姿を捉えて離さない。
先程構えていた銃は海に落としてしまったので、腰に佩いていた短銃に手を伸ばすが、こちらもたった今水に浸かって使いものにならなくなったところだ。貧民街の女のような品のない舌打ちがアイリーンの口許を歪める。
しかし、こんな程度で諦めがつくようなら、わざわざ国を出てまで追って来ない。
アイリーンは不安定な舟の底を蹴り、ミシェットへ飛びかかった。
小さなミシェットは悲鳴を上げることもできず、驚きに固まった表情のまま海の中へ突き飛ばされていた。
その勢いで小舟は転覆しそうになるが、中にいたティムがなんとか平衡を保ち、傾いたところを元に戻した。
「お嬢さん!」
入り江のだいぶ陸地寄りに来ているとはいえ、元々帆船の港代わりに使われていたような場所なので、水深はまだかなり深い。アイリーンでさえも頭の出ないほどのところなのだから、小さなミシェットが足などつく筈もない。
急げ、とエリックは漕ぎ手の水夫を急かす。水夫達もまた、あの可愛らしい少女が海に沈められたことに憤り、力の限り速く漕ぎ始めた。
二人が沈んだところが激しく波立っている。ミシェットが抵抗しているのだろう。
島国に育ったというのに、海に出たことがないと言っていたミシェットは、もしかすると泳げないのかも知れない――そんな考えに至ったエリックは、さっと青褪めた。
服を着たまま泳ぐのは慣れている者でもコツがいる。因りによって今のミシェットは、ドレスの他に外套と雨具まで着込んで、身体がかなり重たくなっている筈だ。その布が水を吸ってしまったら、たとえ泳げたとしても、あの小さな身体では浮き上がって来ることも困難かも知れない。
そのエリックの予感は的中していた。
ミシェットは押さえつけてくる叔母の腕から逃れようと必死に藻掻くが、手足がどんどん重たくなっていく。上に行きたいのに、下へ引きずり込まれるかのようだ。
どうしよう、助けて、と浮上できない恐怖にミシェットは焦った。その追い討ちをかけるように、アイリーンが鬼のような形相でミシェットの首を締めつけている。
「ねえ」
誰かが囁いた。
海の中で喋れる筈もないというのに、耳許で話しかけられたかのように、やけにはっきりとした声だった。
その声はアイリーンにも聞こえていたようで、首を押さえつけていた手が緩む。
目の前には白い女の顔があった。
(あ……今朝の……?)
遠目に見たのではっきりとはしないが、ミシェットには不思議な確信があった。彼女は林檎を拾った不思議な女の人だ。
「あなた、マリーナね?」
白い女は確かにそう尋ねた。海の中ではっきりと唇を動かし、喋ったのだ。
驚いたアイリーンは止めていた息をガボッと吐き出してしまい、大量の気泡と化した酸素の中を慌てて水面へと浮き上がる。
押さえつけていた叔母の手がようやく離れたので、ミシェットも慌てて上がろうとするが、手脚が思ったように動かず、逆に下へ沈んで行ってしまう。
焦っていると女の腕がそっとミシェットを支え、上へと連れて行ってくれた。
「ミシェット!」
途切れていた酸素を大量に吸い込んで咳込んでいると、エリックの心配そうな声が聞こえてくる。
上に戻って来れた、と安堵しつつ目線を移動させると、自分を抱き留めている女の人と目が合った。
不思議な目をしていた。虹色に輝くような色合いでいて、硝子のように透明で澄んでいて、この世のものとは思えない瞳だった。
「久しぶりね、マリーナ。少し縮んだ?」
女の人はにっこりと微笑みながらミシェットにそう言った。その声は先程海の中で聞いたものと同じだった。
「――…誰?」
ミシェットがぼんやりと尋ねると、女の人はくすくすと笑う。
「リドウィニアよ。忘れちゃった?」
「知ら、な……い……」
「あら?」
リドウィニアと名乗った女の腕の中で、ミシェットはことりと意識を手放した。海中で藻掻いて疲れたし、暴れて水をたくさん飲んだことも小さな身体には負担だった。
相変わらず副官が止めるのも聞かずに、エリックは入り江へと飛び込み、急いでミシェットの元へ向かう。呆れたコレットが漕ぎ手達に追うように指示をした。泳ぐのも舟を漕ぐのも変わりないというのに。
アイリーンは小舟の縁に掴まりながら、怯えた目でリドウィニアの姿を凝視していた。
「なっ、なんなのよ、あなた……!」
誰何の声が上擦って震える。それは決してアイリーンが小心者だからではない。誰だって、こんな得体の知れない不気味な女が突然目の前に現れたら、恐ろしくなって震えてしまうことだろう。
リドウィニアは感情のこもらない不思議な虹色の瞳で、アイリーンをじっと見つめた。
二人が見つめ合っているところには、アイリーンの従者達も、コレット達も、張りつめた緊張感から誰もなにも言えない。固唾を呑むようにただ静かに二人の様子を窺うことしかできなかった。
そこへエリックが泳ぎ着く。
不思議な女は、あろうことか一糸纏わぬ姿であり、水の中とはいえ真っ白な形よい乳房を晒していて、大変に目のやり場に困る姿だった。まったく気にした様子がないので余計に困ってしまう。
エリックはどうしようかと戸惑うが、そんな彼に気づいたリドウィニアがアイリーンから目を離し、こちらに笑顔を向けた。
「あら、エステル。どうしたの?」
彼女はエリックに向かい、まるで旧知の友のように声をかけてきた。
その親しげな様子に更に戸惑うと、彼女はミシェットをそっとこちらに押し遣ってくる。
「マリーナを迎えに来たのね? 眠ってしまったみたいだから、連れて行ってあげて」
言われるままに気を失っているミシェットを受け取ると、リドウィニアは頷くようににっこりと微笑み、もう一度アイリーンの方へ向き直った。
「あなた、不思議ね。あなたからはマリーナとジュリオの匂いがするの。何故かしら?」
「な、なんのことよ……」
「あなたのことに決まっているじゃない。ねえ、みんな?」
リドウィニアが振り返って声をかけると、一人、また一人、と海中から女達が顔を覗かせた。その入り江にいた者達は皆驚愕に震え、息を呑んで言葉を失った。
女達は全部で十二人いた。
皆一様に真珠のように色が白く、その美しい肌を晒していても気にすることなく、淡い微笑みを浮かべてアイリーンのことを見つめていた。
「おかしいわね」
「そうね、おかしいわ」
「確かにマリーナの匂いがする」
「ジュリオの匂いもする」
「でも、真珠を持っていない」
「おかしいわ」
「おかしいわね」
「マリーナなら真珠を持っているのに」
「ジュリオも真珠を持っているのに」
「でも、この子は持っていない」
「じゃあ、この子は誰?」
女達は次々に言葉を繋げていき、最後に首を傾げてアイリーンを見つめる。その一様に揃った動きに、ひっ、とアイリーンは息を呑んだ。
真珠、とエリックは呟く。彼女達の言う真珠とは、ヴァンメール公国の国宝『碧洋の真珠』のことだろうか。
女達はエリック達を押し遣り、ぐるりとアイリーンを取り囲んだ。その硝子のような不思議な瞳で凝視しながら。
「きっと、マリーナとジュリオの子供よ」
「ああ、きっとそうね」
「マリーナとジュリオの子供ね」
「お帰りなさい」
「お帰りなさい」
「待っていたわ」
女達はまた口々に言い、アイリーンへと手を伸ばした。
引き攣った表情で逃れようとするアイリーンの腕を取り、にこにこと揃って嬉しそうに笑っている。
「さあ、行きましょう。私達はあなたを歓迎するわ」
リドウィニアが微笑んで告げ、アイリーンの腕を引いた。いや、とアイリーンが呟く。
「なにするの! 離しなさい!」
必死に女達の腕を振りほどこうと身を捩っているが、女達はそれを聞き入れることなく、行きましょう、行きましょう、と口々に言ってアイリーンを連れ去ろうとする。彼女は恐怖から悲鳴を上げた。
「離しなさい! やめなさい!」
「公女様!」
従者達が悲鳴じみた声を上げて腕を伸ばすが、その指先が届かなかった先で、アイリーンは絶叫と共に海中へと消えた。
アイリーンの声が余韻を残して消えていくと、しばらくして入り江には静寂が満ちる。
誰も身動きひとつ取れなかった。アイリーンが消えて行った先を言葉もなく見つめることしかできなかった。
最初に動いたのはエリックだった。ミシェットを重たくしている雨具と外套を剥ぎ取り、コレット達の舟の方へ引いて行く。気を失ってくれているので楽だった。
「ティムが怪我をしているようだ。誰かあっちの舟に移ってくれ」
水夫達の手を借りてミシェットを舟に上げながら、ティムが身動き取れずにいることを伝える。きちんと確認したわけではないが、あの様子では自分で櫂を握ることは無理そうだ。
水夫達は持ってきていた毛布でミシェットを包むと、顔は血の気を失って真っ青だがちゃんと呼吸をしていることを確認し、一様に安堵の表情を覗かせる。アイリーンに沈められた姿を見ているときは、皆が揃って生きた心地がしなかった。
ティムを救出に行く為にも早く上がれ、とコレットがエリックに手を差し出す。
「――…艦長っ!」
しかし、コレットの手を掴んだ筈のエリックの手から急に力が抜け、そのまますっぽ抜けて海中に戻ってしまう。慌てたコレットが身を乗り出してその袖を捕まえると小舟が傾き、今度は水夫達が慌ててコレットの腰を掴んで引き留めた。
「艦長! 艦長、しっかりしてください!」
呼びかけてもエリックの瞼は微かに震えるだけで開くことがない。やはり先程の乱戦時にゴッサムに殴られた影響だろうか。
「起きてくださいよ、艦長! あなた重いんだから、自力で上がってくれないと困るんですけど!」
コレットは沈もうとする上官の身体を必死に引っ張る。だが、それを上にまで引き上げるのは無理だ。コレットが非力なのではない。エリックの方が体格がいいのだから仕方がないことだろう。
両脇から水夫達にも手伝ってもらい、なんとか引っ張り上げることに成功する。
こういうときに問題があるのは頭の中だ。ぐったりとした身体を横たえ、頭を固定した。早く船医に診せなければ。
その前にティムだ、とコレットは漕ぎ手に指示を出す。銃を構えていたアイリーンの姿から想像するに、恐らく撃たれて出血している筈だ。弾が残っているなら破傷風になる恐れもある。
急げ、と声を掛け合った。




