第14話:勇者の噂
秋の終わりに、不穏な知らせが届いた。
ミルダ村を訪れた旅の商人が、宿屋でこんな話をしていたという。
「勇者ライオス殿が、この地方を調べて回っているそうだ。魔王の残滓を探しているとか」
吾輩がそれを知ったのは、ベルン神父がアイリスの家を訪ねてきた夜のことだった。
「気になる話があってな」とベルンが言った。
「勇者様が、このあたりを回っていらっしゃるらしい」
アイリスが顔を上げた。
「勇者ライオス様が? なんで?」
「魔王の魂が、完全に消滅したか確かめているとのことだ」
アイリスがシフォンを見た。シフォンは暖炉の前で丸まって寝ていた。
「……シフォンに、何か関係あるんですか」
「わからない」とベルンが静かに言った。
「ただ、聖獣様のことが広く知られている今、勇者様がこの村を素通りされるとは考えにくい」
部屋が少し静まった。
吾輩は影の中で、静かに緊張していた。
ライオス。
吾輩を討伐した男だ。
あの夜の記憶は、今でも鮮明だ。金髪、傷だらけの鎧、しかし澄んだ目。光の剣で吾輩の渾身の魔力を弾き返し、胸を貫いた。あの強さは本物だった。
そのライオスが近づいている。
吾輩は現在の状況を整理した。
魔力の回復量は討伐前の二割五分程度。直接対決は不可能だ。影として存在している以上、ライオスに「魔王の痕跡」として察知される可能性はある——あの男の眼力なら、普通の猫の影でないことに気づくかもしれない。
どう対処するか。
逃げるのは得策ではない。シフォンを抱えて逃亡すれば、それ自体が怪しまれる。
聖獣として村人に守られているこの状況は、実は最良の盾だ。村人百人が「シフォン様は聖獣だ」と信じているところへ、勇者が「その猫は危険だ」と言っても、村人は信じまい。
むしろ——堂々としていればいい。
吾輩は魔王だ。恐れて隠れるような真似はしない。
しかし、注意は必要だ。ライオスは只者ではない。
三日後、ベルンからまた知らせが来た。
「勇者様が、来週にも村に来られるかもしれないと」
アイリスが「え」と声を上げた。
「本当に来るの? 勇者ライオス様が?」
「そのようだ。ウェスパル村の聖獣の噂を聞き、確かめに来るとのこと」
村がざわめいた。
勇者来訪の知らせは、翌日には村中に広まった。子供たちは大喜びで走り回り、大人たちは急に家の外壁を磨き始め、村の入り口に飾り旗を立てようという意見が出た。
「勇者様をお迎えする準備をしなければ!」
「聖獣様と勇者様が同じ村に! これは大事だ!」
吾輩は、その騒ぎを冷静に眺めながら思った。
大事だ。確かに大事だ——ただし、村人たちとは全く別の意味で。
その夜、吾輩は珍しく、能動的に考え込んだ。
ライオスとどう向き合うか。
最悪の場合:ライオスが影を調べ、魔王の気配を察知する。そして討伐を試みる。
その場合、吾輩は逃げるか戦うか。
逃げれば——シフォンを連れて逃亡することになる。アイリスは? ガリスは? 村人たちは?
吾輩はその考えの途中で、止まった。
なぜアイリスのことを考えたのか。
逃げる際に「アイリスはどうなる」などということを、吾輩はなぜ考えたのか。
計画上は、関係のない話だ。吾輩が逃げれば、聖獣が消えた村は元の静かな村に戻る。それで済む話だ。アイリスも、ガリスも、ルカも——何も変わらない。
しかし、変わる。
吾輩がいなくなれば、シフォンの不思議な「奇跡」も起きなくなる。聖獣の守護もなくなる。村への献上品もなくなる。アイリスの家の食材が豊かになっていたのは、聖獣のご縁者ということで村人が気を遣っていたからでもある。
それが、なくなる。
吾輩は、そのことを——気にしていた。
なぜ気にするのか。吾輩には関係ない。関係ないはずだ。
シフォンが寝返りを打った。
吾輩の影の上で、丸まった体がもぞりと動いた。ルカが隣でくっついて眠っていた。
吾輩はその二匹の寝顔を——正確には気配を——しばらく感じていた。
逃げることは、今は考えない。
堂々と迎えればいい。吾輩はヴァルキスだ。誰かに気を遣って隠れるような存在ではない。
ただし——準備は必要だ。
準備といっても、大げさなものではない。
まず、影を徹底的に制御する練習をした。普段はシフォンの動きに連動して魔王の形に変形しそうになる影を、常に「ただの猫の影」として固定する。これは意外に難しかった。感情が動くと影も動く。
あの日、シフォンが村人に撫でられた時、影が翼の形になりかけた——あの現象を完全に抑えなければならない。ライオスの目の前で影が魔王の形になれば、一瞬で看破される。
次に、魔力の気配を限りなく薄くすること。影から一切の魔力を漏らさない。吾輩がここにいることを、魔力的に察知できないようにする。
これが最も難しかった。魔力を完全に遮断すれば、影から腕を出すことも、地脈から吸収することも、何もできなくなる。しかし「薄くする」という加減が必要で、その調整は繊細な作業だった。
三日間、その練習を続けた。
一日目:影の形の固定はできたが、魔力の遮断が強すぎて腕が出せなくなった。シフォンに「ミャア」と催促されて観念して遮断を解いた。
二日目:遮断の加減を調整した。シフォンに料理を作れる程度の魔力は保ちつつ、外部への漏洩を最小化する。難しかったが、午後には安定してきた。
三日目:ほぼ完成した。表面上はただの猫の影に見えるはずだ。余程魔力に敏感な者でなければ、吾輩の存在には気づけない。
シフォンは吾輩が練習しているとは知らず、日常通り過ごしていた。朝食を食べて、日向で丸まって、ルカにちょっかいをかけられて、うんざりした顔をして、吾輩に料理を要求して、また寝る。いつも通りだった。
その「いつも通り」の日常が——準備の支えになっていた。
落ち着いて練習できる理由が、この日常にはあった。
吾輩はそれを、少し意外に思った。
かつての魔王城では、危機に際して緊張が増し、集中が乱れることがあった。しかし今は——シフォンの寝息を聞きながら、逆に落ち着いて準備ができた。
なぜかは、考えないことにした。
準備の最終日の夜、アイリスが台所で一人、何か縫い物をしていた。
珍しく夜遅くまで起きていた。
シフォンが台所に入って、アイリスの足元に座った。
「眠れないの、シフォン?」とアイリスが言った。
「ミャア」とシフォンが答えた。
「私も眠れなくてさ」とアイリスが針を止めた。
「勇者様が来るって聞いて、なんか緊張してて」
シフォンがアイリスの膝に前足をかけた。
「シフォンは大丈夫? 怖い人じゃないと思うけど……でも、なんか、ね」
吾輩はその言葉を聞いた。
アイリスが何を心配しているか、吾輩にはわかった。勇者が来て、シフォンに何かするのではないかと、心配しているのだ。
心配している。シフォンのことを。
吾輩のことを——間接的に。
「大丈夫だよね、シフォン」とアイリスが言った。
「あなたは聖獣様なんだから、誰も変なことできないよ」
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
アイリスが「うん、そうだね」と笑った。
吾輩は影の中で、静かに決意した。
ライオスが来ても、何も変えない。この日常を、崩させない。
それは計画のためだ。この場所が必要だから。この環境が必要だから。
そういうことだ。
それだけの理由だ。




