コズミック・ケバブ
昔からそうだ。
俺はケバブに目がなくて、ケバブ屋を見かけると、用もないのにふらふらと近づいていってしまう。
それはきっと、あの回転する肉の魔力のせいなのだろう。
子供が回す独楽よりも遅く、美容室の店頭を彩る、赤と青のネオンよりも早く。
絶妙な速度で回り続ける、無数の脂滴る肉の塊が、俺を惹き付けてやまないのだ。
その日も、俺はとある駅前の通りでケバブ屋を見つけて、少し離れた場所から、ゆっくり回る塊肉のことを眺めていた。
するとこちらの存在に気づいたのか、傍らで作業をしていた店主が微笑むと、くいくいっ、と俺に手招きをしてみせた。
店主は灰色の髪に灰色の髭を持った、陽気な顔つきの外国人だった。
俺は好意に甘えて、焚き火に寄っていく蛾のような足取りで店先に近づくと、塊肉をじっと見つめた。
そしてこう質問した。
「これは、何でできてるんですか?」
それは、純粋な興味からの質問だった。
ケバブに愛着を抱いてから随分な時間が経つが、よく考えてみれば、これがなんの肉でできているかを知らない。
少なくとも牛肉は入っているだろうが、鶏肉や、他の動物の肉も混ぜこまれているのかもしれない。
予想としては羊肉が入っていそうだが、大穴として豚肉の可能性も……なんて。
俺が勝手に想像を膨らませていると、ずっと刃物の手入れをしていた店主が、ふと、屈託のない笑顔をこちらに向けた。
そして、流暢な日本語でこう答えた。
「時間ですよ」
「えっ?」
「これは、時間そのものでできているのです」
店主は、刃物にこびり付いた肉を剥がしながら、至極落ち着いた口調でそう言った。
そして俺が質問するでもなく、ただ目を見開いているのを見て、店主は再び口を開いた。
「この宇宙には時間が流れていますが、その宇宙にも終わりというものがあり、時間は無限ではありません。
その限られた時間……いわば宇宙の『残り時間』を形にすると、こんな風な塊肉になるのです」
正直なところ、彼の言葉は抽象的かつ、あまりに突拍子のないものだったので、俺はその内容を深く理解できなかった。
しかしその直後、俺の視線は自然と、前方で回転する肉の方へと注がれていた。
塊は何度か削がれた形跡があり、食欲を唆る茶色の肉が、まるで化石の眠る地層のように現れている。
店主は話を続けた。
「つまり、この塊肉を削ぎ落とすと、削ぎ落とした分だけ、宇宙の寿命が縮まるということになります。
これから流れるはずだった時間は、一度削ぎ落とされれば、二度と戻ることはありませんから」
「……。」
「削ぎ落とされた肉の一片は、誰かが過ごせたはずの日常の時間であり、世界が営みを続けるための『時間』そのものなのです。
そしてそういった、本来『ありえた』はずの時間に詰まった快楽、幸福、平和、愛情などは、全てそのまま、肉の味に変換されるのです」
店主は刃物の手入れを終えると、左に顔を向けて、ゆっくりと回る塊肉を感慨深げに眺めた。
「この店を始めてから、もう随分経ちましたが、この塊肉も、最初はもっと大きかったのですよ。
ケバブサンドが大人気でして、一日に何度も何度も削がねばならず……」
そう呟く店主の髭には、色鮮やかなニンジン色のソースがくっついていた。
茶色っぽくて太い彼の指が、窓枠から垂れ下がったメニュー表を、とんとんと叩いて指差す。
どうです、あなたも。
果たして本当にそう言われたのか、それともその問いかけは、俺の欲望が生んだ幻聴だったのか。
今となっては知る由もないが、結局、俺は大盛りのケバブサンドを注文した。
それはすぐに完成した。
薄いパンという上着をまとった肉と、鮮やかなキャベツの緑は、とても蠱惑的な色合いをしていて。
ああ。
いまの俺の手の中に、何千年分の時間が握られているのだろう。
パンから溢れ出すほどに盛られた肉は、そのひとつひとつが、これから先、全宇宙を均等に流れたはずの、『存在した』はずの時間の断片なのだ。
そう、本来ならありえたはずの時間が、俺のケバブサンドのために消えた。
未来の様々な可能性や日常を奪ったという点で、これは俺が悪いのだろうか?
いや。
『ありえた』というのは、本質的には『無い』のと同義だ。
例えば有精卵を割ったら、本来『ありえた』雛が過ごすはずだった時間と、この世界への影響を奪うことになる。
ただその時間というのは、いわば仮想上の、空想上の時間で、この世に一度として存在したことの『ない』時間なのだ。
そこで、こう考えてみよう。
俺のケバブサンドのために消えた時間は、もしかしたら、稀代の科学者が永久機関を作る『はず』の時間だったかもしれないし、はたまた、人類が滅亡していて、ただ森や川が息をするだけの時間だったかもしれない。
どちらもありえたことだが、これらはあくまで可能性の話で、それが有意義であろうとあるまいと、どちらの時間も実際に「流れた」ことはないのだ。
最初から『ない』ものに、それを奪う罪を付加することはできないだろう。
そしてもうひとつ重要なのは……ケバブサンドを頼むという行為は、宇宙には影響を及ぼすが、俺の持つ『時間』には一切の影響を及ぼさないということだ。
ケバブ肉の構造を分析すると、恐らく外側がもっとも「未来」の時間であり、中心部に近づくほど、現在に近づくはずだ。
つまり、いま俺のケバブサンドのために失われた時間というのは、宇宙が消滅する寸前の、途方もない未来の時間なのだ。
その時間が無くなったからといって、二十一世紀を生きる俺の寿命や、その周りを取り巻く環境が、致命的に変化するとは考えにくい。
仮に『過去』をケバブにして奪い去ったなら、奪わなければありえた発明や人間の行動によって、俺そのものの存在が消えたり、別人に変化するなどの影響があるかもしれない。
しかし、『未来』をケバブにすることによって生じる、俺に対しての影響は全くないばかりか、そもそも未来の時間は消えているため、損害を被る存在がいないのだ。
よって、誰も俺を責めることはなく、俺が宇宙の時間をケバブにして奪ったことを知る者は、誰一人としていない。
そうして、あの日ケバブを食べた俺は、今も変わらず生きている。
宇宙全体の時間の総量が減ろうが減るまいが、俺がこれから過ごす時間というのは、既に決まっているのだ。
そしていつか、宇宙ケバブを食べたのとは関係なく、自分の持つ時間を使い果たして死ぬ。
そう、誰かが途方もない勢いでケバブを削ぎ落とし、『現在』に近い肉をサンドにしない限りは……。




