3・暇人の正体と、名も知らぬヤバい男
2008年1月9日(水曜日)
絢華はその夜、繁華街にあるラブホテルの一室にいた。このような場所に来るのは久しぶりで、独特の淫靡なムードに刺激されたせいか、絢華は本能のままに乱れてしまった。ちなみに相手は悟ではなく、名も知らぬ男である。
とは言っても、互いに顔は知っている。江藤久美子に金の入った封筒を手渡し、雅之のマンションで絢華を殴った男である。ヤリサーのパーティーからの脱出時に、黒塗りの車を運転していたのも彼だった。
その男を偶然に街で見かけ、絢華は走って後を追いかけた。実はこの一年ほど、暇人にメールを何度か送ったが反応がない。その理由を彼なら知っているのではないかと思ったのだ。
「死んだよ」
男の口から出た言葉に、さすがの絢華も目を丸くした。暇人とは文字でしか接点がなかったので、悲しみの感情は全くないが、もし本当に死んだのなら遺品から自分の悪事が露見するおそれはないだろうか。絢華は瞬時にそれを考えた。
同時に、暇人とはいったい何者だったのか、どうして死んでしまったのか、単純に興味があった。それを訊ねると男が「タダでは教えられない」と言ったので、絢華は体で支払うことにしたのだ。
婚約者のいる身ではあるが、結婚前なので不貞行為にはならない、というのが絢華の理屈だ。それに、こうなったのは悟にも責任がある。絢華を満足させるセックスをしてくれない彼が悪いのだ。
最近わかったことであるが、悟は素人の女とは殆ど経験がなく、もっぱら風俗専門だった。そのため女性から奉仕されるばかりで、相手を悦ばせることに関してはお座なりである。中年男や遊び人との濃厚なセックスに慣れた絢華には、それがどうにも不満だった。
それがどうだ、隣で怠そうに煙草をふかしている男は。百戦錬磨とまでは言わないものの、性体験がかなり豊富だと自負していた絢華を、かつて味わったことのない快感で翻弄したのである。性の世界は、まだまだ奥深い。そう思うと、絢華はこの先マグロのような悟の相手をするのが憂鬱になった。
「そろそろ教えてちょうだい、あの人なんで死んだの」
ようやく事後の余韻から抜け出し、絢華が本来の目的を思い出した。男が面倒臭そうに教えてくれた話によれば、暇人はフリーランスの株トレーダーで、30代半ばの男性。近年話題のネットトレーディングで頭角を現し、世界を相手に荒稼ぎしていたらしい。
昼間にチャットルームにいたのも、金の遣い方が豪快だったのも、それを聞けば納得がいく。しかし暇と金はあっても、彼には自由がなかった。なぜなら体に深刻な症状を抱えて、10年以上も入院生活を送っていたからだ。
「特別室にコンピューターを何台も設置して、管に繋がれたまま取引をしていたよ。その小さな画面が、奴の世界だったんだろうな」
最後はほぼ意識もなく、モニタに囲まれて息を引き取ったらしい。その原因は、若いころの交通事故である。どこかの金持ちの馬鹿息子が飲酒運転していたスポーツカーに跳ねられ、瀕死の重症を負ったのだ。
幸い命は助かったが腰から下が動かなくなり、加害者の親が積んだ示談金で、株とインターネットの勉強をして現在の地位を得た。逆境から這い上がった稀有な成功例であり、大した根性の持ち主であったのであろう。
絢華は、なぜ暇人がヤリサーを攻撃対象にしたのか理解した。彼は親の金で放蕩している連中に、強烈な憎悪を抱いていたのである。想像ではあるが、自分を跳ねた馬鹿息子にも、相応の報復をしたと考えられる。絢華はやはり暇人を敵に回さなくて良かったと安堵した。
「ねえ、私たちのやってたことがバレたりしないかしら。死んだら持ち物とか調べられるでしょう?」
暇人は、絢華の放尿している写真を持っていた。あれがバラまかれたら、非常にまずい。メールのやり取りも、かなり際どい内容が書いてあるので、絢華はそれが気がかりでならなかった。
「それは、まずないだろう」
「どうしてそんなことが言えるの」
「俺が、始末した」
まるで誰かを殺してきたような声の響きに、絢華は得体のしれない恐ろしさを感じた。さっきは快感に夢中でよく見えていなかったが、男の体には見慣れない外国の文字でいくつものタトゥーが彫られ、それらを歪めるように引きつった形の傷が散っている。
多くは切り傷だが、肩の辺りの黒ずんで丸く凹んだような傷は、きっと銃創だ。絢華はこの男にあれこれ質問するのは危険だと察した。さっさと服を着てこの場を立ち去れと、脳が警告音を発している。しかし彼は絢華の知る中で、最も魅力的なセックスを与えてくれる男でもあった。
「ねえ、連絡先を教えてくれる?」
欲に負けて、絢華は男の胸に擦り寄った。悟との退屈な性生活のスパイスに、何としてもこの刺激的な快楽が欲しい。しかし男は絢華の頭を押しのけて、床に放ってあったシャツを拾い上げた。
「勘弁してくれ」
思ってもみなかった拒絶に、絢華は戸惑った。自分から男に連絡先を聞いたのは初めてだったが、まさか断られるとは予想しなかった。「どうして」という表情で固まっている絢華に、男は感情のこもらない声で先を続けた。
「派手に男遊びをしているようだから、どれほどの手練かと思ったが、話にならない」
男がズボンにシャツを入れながら、呆れたように肩を竦める。
「あんた程度の美人は掃いて捨てるほどいるし、もっといい体の女もたくさんいる。男を悦ばせる術を知っている女もな」
絢華は打ちのめされ、呆然とした。自分を求めない男などいないと信じて生きてきたのに、目の前の男にとっては「抱く値打ちがない女」だという。これほどの屈辱があるだろうか。しかし彼は絢華の周りにいる有象無象の男たちと違って、性的に抜きんでた魅力をそなえている。それだけに及第点をもらえなかったことは、絢華のプライドを深く傷つけた。
男が自動精算機に金を入れながら「出るぞ」と絢華を背中で急かす。絢華はのろのろと下着を着けながら、もうあの快楽が味わえないことに絶望していた。こんなことなら、知らないほうがよかったかもしれない。まるでひと口だけ味わった蜜の味を思い出しながら、泥水をすするような日々が待っているのだ。
そんな中、いよいよ結婚式の日が近づいてきた。式場選びや日取りなど、三井家から口出しされることはある程度覚悟していたが、新郎としての自覚を持ち始めた悟が、全て自分が仕切るつもりでいた母親を抑えて頑張ってくれた。
しかしそのせいで、絢華に対する義母の恨みは深くなる。とは言え、表立って嫁いびりをすれば、息子と夫に叱られてしまうため、顔では理解ある姑をよそおいながら、ひっそりと影で陰湿な嫌がらせをするようになった。
その最たるものが、冷蔵庫である。結婚に際して、絢華たちはキッチンの電化製品を買い揃えることにしたのだが、いざ納品されてみると冷蔵庫だけが注文したものと違う。オーブンやコーヒーメーカーまで、何日もカタログを見ながら選んだトータルなデザインのシリーズなのに、一つだけ色も形も全く違うものが届いたのだ。絢華は驚いて電気店にクレームを入れたが、なんと悟が型番の変更をしていたことが判明した。
「ああ、それ最新型にしてもらったんだ。言うの忘れてたよ、ごめん」
仕事から帰って来た悟をつかまえて問いただしてみれば、同じメーカーから最新型で高機能な冷蔵庫が発売されていたので、そちらに変更したという。いかにも、キッチンのコーディネートに無関心な人間の考えそうなことだ。しかし、家電に関しては絢華に丸投げだった悟が、なぜ急に型番の変更をしたのか。さらに突っ込んで聞いてみると、やはり母親からの入れ知恵であった。
「母さんが、せっかく買うなら最新の方がいいって勧めてくれたんだ。君だって、使い勝手がいい方が便利だろ?」
全く悪気はなかったようで、悟はにこにこしながらそう答えた。新妻の夢であるキッチン計画を台無しにされて、絢華は怒りが爆発しそうだったが、ここでキレるのは悪手と判断した。せっかく悟を味方につけたのだ。このままうまく操縦する必要がある。絢華はそっと悟の指に自分の指を絡めた。男に頼みごとをするときは、肉体が接触している方が、していないよりはるかに有効である。




