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私の姉は、きれいなクズ  作者: 水上栞
第五章 魔界から来た毒の花嫁
29/49

2・あたし、泣く芝居だけは上手いんです

 

2007年5月22日(火曜日)




「ちょっと待って、いきなりどうしたんだい」



 絢華の頬を伝う大粒の涙に、悟が慌てふためく。場所は、悟が所有するマンションのリビング。突然「話がある」と訪ねてきた絢華が、ソファに座るなり俯き、やがて泣き出してしまったのだ。女に免疫のない悟でなくても、困惑するのは当然だろう。



「ご、ごめんなさい、私……」



 演技力は皆無と言われる絢華だが、泣き真似だけは天才的である。長いまつ毛に縁どられた瞳が涙で膨らみ、紅を刷いたように頬が染まるのを見て、悟は対面のソファから降りて絢華の足元に片膝をついた。



「と、とりあえず落ち着いて、ゆっくり話してみて」



 岩のような顔を顰めて、悟が絢華の手を取った。二人の肉体的な接触は、これが初めてだ。不器用な手つきであるものの、潤んだ情欲が悟の指先から感じられる。三十路を過ぎて独り身なのは、もしや女性に興味がないのではと疑っていたが、単純に奥手を拗らせた結果らしい。目の端でその様子を確認し、絢華は一気に畳みかけることにした。



「このお部屋を……、最後に目に焼き付けておきたくて」


「部屋?」



 悟が怪訝そうな顔をした。婚約以来、絢華がこのマンションに来たのは一度きりである。17階からの景色を眺めながらお茶を一杯飲んだだけで、あとは三井の実家で過ごすことが多かった。その部屋に、絢華が夜半に突然訪ねてきた。いったい何が起こっているのか理解できず、悟は絢華の言葉を待った。



「このお部屋で、悟さんと暮らす日を夢見ていました。ここで、ゼロから二人で夫婦の暮らしを作っていくんだと思っていたんです」



 悟が、はっとしたように絢華を見た。泣き笑いのような顔で悟の目を見つめている。その儚げな表情が悟の心を搔き乱した。



「でも、それは世間知らずの私が、勝手に描いた夢でした。悟さんはご長男ですから、ご実家で暮らすのが務めなのですよね」



 これに関しては、悟にもわずかな罪の意識があった。昨今の若い女性は夫の親との同居を嫌がるので、あえて婚約前はその話をしなかった。結婚が決まった後に、当然のこととして押し切ってしまえば、きっと諦めるだろうと思っていたのである。絢華はか細い肩を震わせ、なおも言葉を続けた。



「だから、せめてこのお部屋を見納めしておこうと思ったんです。そしたら涙が出ちゃって。ごめんなさい」



 そう言いながら絢華は無理に笑顔を作り、ぽろりと涙を零した。大芝居にも程があるが、哀れな悟は頭がくらくらする感覚に陥った。この健気な女性を守りたいという熱量が、長男として植え付けられた洗脳を解いた瞬間である。






「絢華さん、ここで二人で暮らそう」



 ついに悟の口からその言葉が漏れたのは、既に深夜を回ったころ。二人は寝室のベッドの上で、情事の余韻に浸っていた。リビングで話をしているうち、目に涙を湛えた絢華が悟にしなだれかかり、辛抱たまらなくなった悟がそのまま行為に及んだのだ。


 悟にとっては、かつて経験したことのない激情であったが、絢華にとってはシナリオの一部である。上等ではあるがセンスがいまいちの寝具の上で、恥ずかしげに毛布で胸元を押さえながら、絢華は大きな瞳を見開いて驚いた表情を作った。



「でも、ご実家が……」



 皆まで言わせず、悟が決意を込めた口調で絢華に宣言した。悟はお坊っちゃま育ちではあるが頭脳は明晰なので、いったん筋道が通ってしまえば意志が固い。



「僕が説得するよ。絢華さんが言っていたように、本来は二人でゼロからスタートするのが夫婦の在り方だと思う。僕は親に甘えて生きてきたけど、結婚して一家の主になるんなら、それくらいの覚悟がなくちゃね」


「悟さん、ありがとう。私……、幸せです」



 悟の胸に擦り寄り甘い声を出しながら、絢華は心の中でガッツポーズをした。これで理想の結婚生活へ一歩近づいた。あとは横やりが入らないよう、さらに足場を固める必要がある。それに関しては、絢華にある企みがあった。






 数日後、三井家では家族会議が行われていた。実家での同居を取りやめて、マンションで絢華と二人で暮らすと悟が言い出したことに、母親が猛烈に反対したからだ。


 彼女は自分も姑と同居し、三井家の作法やしきたりを叩きこまれてきた。屈辱的な思いも数えきれないほどあったが、歯を食いしばって耐えた。そうやって育てたのが長男の悟であり、今度はそれを嫁に継承させる義務があると信じていた。それなのに、息子が嫁の肩を持ち出したのだ。



「私は絶対に反対よ。三井の家に入るんなら、うちのやり方を教育しないといけないわ」


「母さん、考えが古いよ。だいたい、やり方って何? 家事や親戚付き合いは、その時々で臨機応変にやって行けばいい話だろう」


「いいわけないでしょう、そんな甘えた気持ちで、三井の嫁が務まるわけがないわ!」



 母親はこめかみに青筋を立てて、どうしても譲れないと訴え続けた。しかしその金切り声を遮ったのは、彼女の味方であるはずの夫であった。



「いいじゃないか、若い人たちのやりたいようにさせてやりなさい」



 その言葉を聞いて、母親は信じられないといったように顔を引きつらせ、やがて何かを喚きながら泣き出してしまった。三井家は家長の権力が強い。夫がそう言えば、それは決定事項なのだ。悟だけが不思議そうに、なぜ急に父親が自分たちの意見を受け入れたのか、首を捻るばかりであった。




 実はいきなり父親が翻意したのは、絢華の圧力によるところが大きい。絢華は「人には必ず後ろ暗いところがある」という考えのもと、悟の両親を尾行していた。その結果、義母の方はあまり家から出ないため芳しい情報は得られなかったが、義父の方は大きな収穫があった。なんと、人妻と不倫関係にあったのだ。


 それが発覚したのは、ゴルフ練習場である。義父は毎週水曜日の休診日にゴルフの打ちっぱなしに通っているが、そこである女性と落ち合いホテルへ行っていた。ゴルフバッグを担いで家から出るため、誰も浮気を疑わなかったらしい。


 絢華が相手の女性を調べると、中学生の子どもがいる40代の既婚者だった。義父が60代なので、一応は若い女の部類に入るのだろうが、絢華の採点では顔が50点でスタイルは60点。そこらのスーパーで見かけるレベルの中年女である。どうやら一過性の遊びではなく、老いらくの真剣交際と推測された。



「あら、お義父さま?」



 新品のゴルフシューズを履いて、肩にはルコックの練習用クラブケース。いかにも初心者を装った絢華が声をかけると、車に乗り込もうとしていた義父と愛人は、ぎょっとしたように身を堅くした。まさか、息子の嫁に見つかるとは思わなかったのだろう。絢華は無邪気なふりをして、義父に笑顔で話しかけた。



「お義父さまがこちらの練習場にいらっしゃると聞いて、ご指導いただこうと思って来てみたんです。私、ゴルフを始めたばかりなので」



 絢華が「ゴルフを始めたい」と言うと、悟がすぐにウェアや道具を買い与え「父に習うと良い」と勧めたのだ。まさかその目的が自分の父親の不倫を暴くためだと知ったら仰天するだろう。


 当の義父はどう答えていいか考えあぐねているようで、茫然と絢華を見つめたままだ。女の方は慌てて車の助手席に潜り込み、俯いて背中を丸めている。絢華は車のドアを半開きにしたままの義父に歩み寄ると、無邪気から一転して黒い笑みを浮かべた。



「何だかお邪魔しちゃったみたいですね。大丈夫ですよ、お義母さまには言いませんから」



 そう言い残すと絢華は、ひとりで練習場へ消えていった。義父が絢華に逆らえなくなったのは、それが原因である。妻に不倫が露見するのもまずいが、相手の女の夫にバレるのはもっとまずい。離婚問題に発展すれば、彼女は受験生の子を抱えて路頭に迷うし、自分も近隣の噂になって患者からの信用が地に落ちてしまう。




 こうして絢華はまんまと自分の要望を通してしまった。しかし、それで気が収まらないのは義母である。自分は姑に従順に従ってきたのに、嫁ばかり甘やかされるのは我慢がならなかった。どうにかして絢華よりも優位に立ちたい。自分と同じ目に遭わせたい。その感情が結婚式を待たずして、水面下で嫁姑の確執を深刻化させていった。





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― 新着の感想 ―
[良い点] みんなスネが傷だらけだよー!(褒めてます) [一言] 尾行うますぎるw 職業選択を間違え続けてますね。嫁におさまるのがむしろ勿体無い。
[良い点] 流れるように敵と味方と協力者ができていって笑ってしまった 楽しすぎる
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