5:地獄の教室・その1
アズライトがカナリアとして生を受け、早くも十年が経過した。
ハイハイすると手が汚れるのが嫌だったので、親が見ていないときは、魔力を使って体を宙に浮かせるエアハイハイなどの移動手段を使っていたが、それ以外では基本的には手のかからないいい子という認識をされていた。
初期は困惑したものの、サイガとマーガレットはいい両親だったし、王子であった自分の周りには存在しない、損得抜きで愛情に満ち溢れた人間も周りに多く居た。
相変わらずひねくれてはいるが、以前よりはマシになったと自覚している。今の両親はかつての肉親よりも真の親であると思っているし、仮に今、元の王子に戻ったとしても彼らに敬意を表し、ひざまずくだろう。
「この生活も悪くないもにょ……ものだ」
噛んだ。まだ舌たらずなので、ちょっと難しい言い回しをしようとするとすぐ噛み噛みになる。
カナリアは商家の一人娘ということもあり、すでに個室が与えられている。姿見の前に立ち、毎日自分の姿を確認する。ずいぶんちんまりした姿になったものだと思うが、今日からは少し状況が変わる。
「あまりゆーちょーにもちてられ……してられん」
そう言うとカナリアは、普段着ている洋服の上に紺色のコートを羽織った。今日からカナリアは、特別な授業を受けることになっている。その学園の制服代わりである。
「にあわん……」
袖を通すと指先が少し出るくらいぶかぶかだ。それもそのはず、カナリアは飛び級という形で魔法の授業を受けるが、そんな例はほとんど無いのでサイズが合う制服が無いのだ。というわけで、かろうじて着られそうな外套のみが支給された。
衣装に着られている感じだが、我慢しつつカナリアは自室から出て階段を降りる。すると、階下にはサイガとマーガレットが既に待機していた。
「あら、もう着替えたの。よく似合っているわよ」
「はっはっは! しかし、魔術部門だけとはいえ、まさか十歳で合格するとはな。しかも名門だ。お父さんは鼻が高いぞ」
「おふたりのおかげです」
カナリアはお世辞抜きに礼を述べた。この生活を守るために、カナリアはどうしてもこの場所に行かねばならなかった。
合格自体は以前の技術を持ち越しているから可能だっただろうが、当然学費も掛かるし、何より両親が反対したらそれまでである。そこを快く了承してくれた事は本当に感謝している。
今日は初日なので、両親に付き従ってカナリアは道を歩く。辺りの人たちは、神童と褒めてくれている。両親は嬉しそうだが、カナリアは適当に相槌を打つだけだ。
(そう……何としてもあのバカの暴走を止めねば!)
カナリアは、幼いながらも整った顔立ちの下に決意を固める。今日は、カナリアの――いや、ラーヴル王国の未来を決める一日となるのだから。
カナリアの通う学園は、歩いていける距離にある。飛び級といってもあくまで魔術だけなので、カナリアは魔術のクラスだけを受けることになっている。
だがそれでいい。真の目的は魔術の勉強ではないのだから。
「えっ!? 今日はアズライト王子も来られているんですか!?」
「はい。言うと驚かれると思ったので……」
学園にたどり着くと、受付を担当している事務員らしき女性と、両親が騒いでいるのが聞こえた。
「しかしなぜ王子が? 王族の方々が民間の学校に来るものなんですかね?」
「我々もそう思いましたし、私自身はあまり内情に詳しくないのですが、民の事も知るべきだと判断されたとか」
「ええ……でも、その、王子って……」
マーガレットが、口に出しづらそうに途中で言葉を切る。サイガも同様に顔を曇らせる。それもそのはず、十五歳となったアズライト王子は、その膨大な魔力と人を寄せ付けない態度で恐れられている。
(あーあ……我ながら嫌われてるなあ)
カナリアはげんなりしながらも、計画通りに事が進んでいることに半分安堵した。
出来ればアズライト王子が勝手に改心してほしいなと思っていたのだが、生育環境が変わっていない以上、もう一人の自分は前と同じ、人間滅ぶべし慈悲はないルートを驀進中のようだ。
「だいじょうぶです! 王子と学べてちあわ……しあわせまである!」
ここで引いては意味が無い。カナリアはサイガのズボンを引っ張り、ここで学ばせてくださいアピールをする。
「うーん……まあ、さすがに初日に問題は起きんだろう。カナリア、父さんたちは仕事が終わったら迎えに来るから、危ないことをするんじゃないぞ」
「わかりました!」
サイガはカナリアの頭を撫で、マーガレットは優しく娘を抱きしめる。それから何度も振り返り、幼い娘の身を案じながら帰っていった。
「大丈夫よ。ちゃんと今日は引率の先生が付いているし、王子はあくまで他の人がどんな者か見に来ているだけだから」
カナリアを引率しながら、事務員が安心させるように囁いた。カナリアは無言で頷く。
(全然大丈夫じゃないんだよなぁ……)
と突っ込みたかったが我慢した。というのも、王子が魔術教室に参加するのは、今日が最初で最後になるからだ。しかも退学。
つまり、平民の生まれであるカナリアが王子と接触するチャンスは今日しかない。
事務員はカナリアを教室へと連れて行くと、担当する教師に引き渡した。
「初めましてカナリアちゃん。私はルキナ。ルキナ先生と呼んでちょうだいね」
「おひさしぶ……はじめまして」
眼鏡をかけた亜麻色の若い女教師ルキナ。大人しく目立たない感じの女性だが、一応アズライトの初担任ということでかろうじて覚えていた。とはいえ、カナリアとしては初対面なので、慌てて言い直す。
「実はもう一人、今日から入る新入生がいるんだけど……一応カナリアちゃんとは同級生ってことになるわね」
そう言って、ルキナは教室のドアを開ける。どちらかというとルキナの方が緊張しているように見える。カナリアの記憶では、確かまだ教師としてはそれほど経験が無いはずだったし無理もない。
そして、教室に入ると、初めて会うよく知った顔が見えた。
「彼はアズライト=ラーヴル。この国の一番偉い人の息子……王子様って言えば分かるかしら?」
「よくわかります」
アズライトは面倒くさそうかつ偉そうに教卓の椅子に腰かけていた。今日は自己紹介をするということで、前に居るのだ。ちなみに立って待つべきなのだが、勝手に座ったのを覚えている。
教室には男女の学生が三十名ほどいるが、大体がアズライトと同じ十五前後の若者たちだ。明らかに委縮している。そこにさらに、ドアから謎のチビが乱入なのだから、生徒達は困惑している。
「は、はーい! それじゃあ今日の授業を開始する前に、新しいクラスメイトを二人紹介しま~す!」
ルキナは極力明るい声を出し、ニコニコとしているが、よく見ると額に汗をかいている。アズライトの時は気にもしなかったが、こんなに気を遣わせてしまって今更ながらに申し訳なかった。
「えーと、まずはこちらがアークイラ商会の娘さんのカナリアちゃん。なんと十歳で魔力試験を合格した才女よ。でもみんなと比べて小さいから、優しくしてあげてね」
「よろしくおねがいします」
カナリアはぺこりと頭を下げる。その様子に多少和んだのか、ぱらぱらと拍手が湧く。問題は次だ。
「え、えーとぉ、次に紹介するのが……紹介する必要ないかもしれないけど、かの有名なアズライト王子です。皆さんと年頃は一緒だから……その、仲良くね?」
気軽に接してね、とはさすがに言えないようだった。
一方、紹介されているアズライトは、面倒くさそうに椅子に座ったままだった。
もともと来たくて来たわけではない、お前も王子なのだから民の生活くらい見てこいと父に言われ、一番適性があった魔力教室をチョイスしただけである。
「……ふん」
アズライトは挨拶をしなかった。二度と会わない連中になぜ挨拶をしなければならないのか。ここまではカナリアの記憶通りである。
「あいさつくらいしろ! かわいげないガキめ!」
「……なんだこのクソガキは?」
傍から見ていると不遜な態度にイライラしてしまい、カナリアはクレームを入れた。自分より遥かに格下のチビに文句を言われ、アズライトは怒りとも呆れとも言えない、なんとも微妙な表情になる。
なお、担任のルキナは顔面蒼白になっていた。