第2話:私が、知りたいのです
「セレスティア様、今日はお休みでは?」
王都の神殿にある食堂。
昼食より少し早い時間に姿を見せたセレスティアに、若い神官が声をかけた。
あの夜から、ひと月が過ぎていた。
「ええ。今日は訓練もありませんから」
「それなのに、もう食堂へ?」
「今日の焼き菓子が、楽しみで」
神官は目を丸くした。
それから、くすりと笑う。
「今日は蜂蜜入りですよ」
「まあ」
セレスティアの顔が明るくなった。
神殿に来てから、毎日が少しずつ変わっていた。
誰かの呪いを引き受けることもない。
痛みで眠れない夜もない。
そして、好きなお菓子を、誰かに譲らず食べていい。
そんな当たり前のことが、今でも少し嬉しかった。
◆
昼食は、焼きたてのパンと野菜のスープ。
それに、小さな焼き菓子が一つ。
向かいに座った若い神官が、思い出したように言った。
「そういえば、ご実家からまた手紙が届いております」
「いつものように、処分してください」
「承知しました。それから、レオン様からも。今週で五通目です」
「そちらもお願いします」
実家を離れてから、手紙は何度も届いていた。
けれど、セレスティアは一度も返事を書いていない。
神官は少し迷ってから、声をひそめた。
「あの……あの夜の討伐に出た先輩から、その後のことを聞いたのですが」
「何でしょう」
「負傷者の治療と後始末のために、しばらく現地に残っていたそうなんです」
「そうでしたか」
「お屋敷の庭は、半分が焼け野原になったそうです。窓も塀も壊れて、修繕にはかなりかかるとか」
「そうですか」
「負傷した騎士の治療費や、壊れた施設の修繕費も、相当な額になるそうです。神殿からも討伐費用の請求が出ているとか」
「そうですか」
「あの場にいた領兵や騎士たちから話が広まって……。『長女に呪いを押しつけていた家』だと、すっかり噂になっているそうです。夜会の招待状も、ぱったり届かなくなったとか」
「そうですか」
「リリア様は呪いから回復されたそうですが、屋敷には閉じこもったままだとか。社交界での評判も、すっかり変わってしまったそうです」
セレスティアは、静かにスープを飲んだ。
「そうですか」
「それに、レオン様のご実家が今回の騒ぎを問題視して、リリア様との縁談を取りやめたそうです」
なるほど、とセレスティアは思った。
それで、週に五通なのか。
「……あの、セレスティア様。先ほどから『そうですか』ばかりですね」
「そうですか?」
セレスティアはスプーンを置いた。
「もう、私の家ではありませんから」
それよりも、と彼女は器に目を落とす。
「今日のスープ、いつもより美味しいですね」
神官は、なんとも言えない顔で笑った。
セレスティアは焼き菓子を一口かじる。
甘い。
蜂蜜の香りが、口いっぱいに広がった。
自然と、口元がゆるんだ。
「セレスティア様、本当にお菓子がお好きなのですね」
「ええ、とても」
「でしたら、私の分もどうぞ」
「ありがとうございます。でも、あなたもお好きなのでしょう?」
「それは、まあ……」
「でしたら、ご自分で召し上がってください」
神官は目を丸くした。
昔は、好きなお菓子を最後まで食べられたことがなかった。
リリアが欲しがれば、譲るのが当たり前だったから。
けれど今は、自分の分は自分で食べていい。
そして、誰かに我慢させてまで、もらう必要もない。
セレスティアは、残りの焼き菓子を大切に口へ運んだ。
「……とても、美味しいです」
◆
昼食後。
セレスティアは、神殿長の執務室に呼ばれた。
机の上には、一通の報告書が置かれていた。
「北部から調査依頼が届いた。読んでみてくれるかね」
「私が、ですか?」
「《黒蝕の呪い》に関わる可能性がある。君の経験が参考になるかもしれないと思ってね」
セレスティアは報告書に目を通した。
北部の森で、狩人が狼型の魔物を一頭仕留めた。
その体には、黒い痣がまだらに浮かんでいた。
矢は心臓を貫き、魔物はその場で息絶えたという。
だが、奇妙なことが起きた。
魔物が死んだあとも、黒い痣は消えなかったのだ。
現地の神官が通常の浄化を試みたものの、痣には何の変化もなかった。
さらに、死骸は少しずつ黒い靄を放ち始めた。
肉も骨も、まるで靄に溶けるように崩れていく。
そして三日後。
死骸は跡形もなく消え、黒い靄もどこかへ散ってしまった。
セレスティアの指が止まった。
黒い痣。
黒い靄。
あの夜、実家の庭で斬った獣を思い出した。
呪われた魔物そのものは、珍しくない。
だが、宿主が死んだあとも呪いらしきものが残り、死骸を黒い靄へ変えてしまうなど、聞いたことがなかった。
あの夜の獣は、リリアの身体から噴き出した呪いそのものだった。
普通の剣でつけた傷は塞がり、光魔法を纏わせた剣でしか断ち切れなかった。
けれど、今回の狼型の魔物は、狩人の矢で死んでいる。
死んだのは、魔物の身体だけだったのだろうか。
報告書の末尾には、現地の神官の所見が添えられていた。
――《黒蝕の呪い》と酷似。ただし、同一の呪いであるかは不明。
「心当たりがあるようだね」
「……はい」
あの夜、リリアを蝕んでいた呪いは消えた。
自分の剣で、確かに断ち切った。
けれど。
八年前、リリアがなぜ呪われたのか。
誰も、その理由を調べようとはしなかった。
医者は呪いの名を告げたが、誰が、何のためにかけたのかまでは分からなかった。
両親が求めたのは、呪いの原因ではなく、目の前の娘を楽にすることだった。
そして、その役目はいつも自分に回ってきた。
「この件は、別の者に任せても構わない」
神殿長が静かに言った。
「君にとっては、つらい記憶に関わる話だろう」
「……断っても、よろしいのですか?」
「もちろんだ。君には、選ぶ権利がある」
選ぶ権利。
家を出るまでの八年間、自分の望みを尋ねられたことなど、ほとんどなかった。
「一晩、考えてもよろしいでしょうか」
「無論だ。返事は明日でいい」
◆
その夜。
セレスティアは窓辺に座り、左腕の袖をまくった。
あれほど濃かった黒い痣は、今では薄い灰色の痕になっている。
指先で、そっと触れた。
もう、痛くない。
だからこそ、考えられる。
あの呪いは、どこから来たのだろう。
リリアを呪ったのは、誰だったのだろう。
そもそも、なぜリリアだったのだろう。
八年間、考える余裕さえなかった問いだった。
北部の狼型魔物を思い出す。
狩人の矢で命を落としながら、黒い痣だけは残っていたという。
もし、呪いが宿主とは別に存在できるものなら。
あの夜、庭に現れた獣も、単なる呪いの暴走ではなかったのかもしれない。
そこまで考えて、セレスティアは首を振った。
まだ、何も分かっていない。
分からないからこそ、調べる必要がある。
けれど、それを自分がする必要はあるのだろうか。
神殿長は、断ってもいいと言ってくれた。
別の誰かが調べても、きっと構わない。
妹を守るためではない。
家族の期待に応えるためでもない。
それでも。
知りたい。
セレスティアは、左腕の袖を静かに下ろした。
◆
翌朝。
セレスティアは神殿長の執務室を訪ねた。
「昨日の件かな?」
「はい。北部の調査に、私も参加させてください」
神殿長は、少しだけ表情を曇らせた。
「君が背負ってきたものを、これ以上背負い続ける必要はないのだよ」
「分かっています」
セレスティアは微笑んだ。
「妹のためではありません。家族のためでもありません」
そして、まっすぐに神殿長を見た。
「私が、知りたいのです」
「……そうか」
神殿長は頷いた。
「では、調査団に加わってもらおう。王国呪術調査局からも一人、調査官が派遣されている。今日、こちらで合流する予定だ」
「承知しました。ありがとうございます」
執務室を出ると、廊下に一人の青年が立っていた。
黒い外套に、王国呪術調査局の紋章。
青年は手にした書類から顔を上げた。
「セレスティア殿ですね。アシュレイ・ヴェルナーです。北部の調査を担当します」
「よろしくお願いいたします」
「神殿長から、あなたにも参加を打診していると伺いました。お引き受けになったのですね」
「はい。先ほど、お返事をしたところです」
アシュレイは短く頷いた。
「調査団の顔合わせは明日ですが、その前に一つだけ」
「何でしょう」
「報告書は、読まれましたか」
「ええ」
「どう思われました」
セレスティアは、少しだけ目を瞬かせた。
呪いについて、自分の考えを聞かれたのは初めてだった。
「……呪いは、宿主とは別のものかもしれません。狼型の魔物は矢で倒せても、取り憑いていた呪いまでは消えなかったのではないかと」
アシュレイは小さく頷いた。
「同じ見立てです」
「では、報告書にあった黒い靄は……」
「まだ分かりません。死骸も黒い靄も残っていませんから、まずは手がかりを探すところからでしょう」
彼は手元の書類を閉じた。
「現地でも、あなたの見立てを聞かせてください」
「……私の話を、聞いてくださるのですね」
アシュレイは、わずかに眉を寄せた。
「もちろんです。あなたは実際に呪いを経験した方でしょう」
当たり前のことを聞かれた、という顔だった。
「あなたの知識は、今回の調査に必要です」
セレスティアは、思わず小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
アシュレイは一礼した。
「では、明日の顔合わせで」
それだけ言って、彼は去っていった。
確かに、無愛想な人だ。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
自分の考えを聞いてもらえることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
もう少し、話してみたい。
そう思った。
廊下には、朝の光が差し込んでいた。
窓の向こうには、まだ知らない土地が広がっている。
そこに何が待っているのかは、分からない。
けれど怖くはなかった。
今度は、誰かに命じられたわけではない。
誰かのために、我慢する必要もない。
ただ、自分が知りたいから。
セレスティアは窓の向こうを見つめた。
北部の森には、まだ答えの出ていない問いが待っている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
セレスティアが家族から離れ、自分の道を選ぶまでの物語は、ここでいったん完結となります。
彼女の新たな旅については、またいつかお届けできればと思います。




