第1話:……もう、いいのよ
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お読みくださった皆様、評価やブックマークで応援してくださった皆様、心よりありがとうございます!
「お姉様。私、レオン様が好きなの」
妹のリリアがそう言ったとき、セレスティアは自分の左腕を見た。
ドレスの袖の下に、黒い痣がある。
妹の呪いを代わりに引き受けた痕だ。
八年前。
最初の痣ができたのも、この左腕だった。
あの日、父は言った。
――お前は姉なのだから、リリアを守ってやってくれ。
だから守った。
一度、二度、十度。
百回を超えてからは、もう数えていない。
その妹が今日欲しいと言ったのは。
セレスティアの婚約者だった。
「……リリア。レオン様は、私の婚約者よ?」
「分かってるわ」
リリアは俯き、ぽろぽろと涙をこぼした。
「何度も諦めようとしたの。でも、好きになってしまったの……」
母が口を開いた。
「セレスティア。譲ってあげられないかしら」
やっぱり、そうなるのね。
「リリアはずっと呪いに苦しんできたでしょう?」
「お前は昔から丈夫だった」
父も続ける。
「剣も魔法も使える。これからいくらでも幸せを見つけられる。だが、リリアは違う」
――違う。
苦しんできたのは、私だ。
リリアが味わうはずだった痛みを、全部引き受けてきたのは、私だ。
「姉なのだから、これくらい譲ってやれないか?」
姉だから。
また、その言葉だった。
◆
八年前。
セレスティアが十歳、リリアが七歳のときだ。
リリアの腕に、小さな黒い痣が浮かんだ。
《黒蝕の呪い》。
身体を内側から蝕み、やがて命を奪う呪いだと医者は言った。
治癒魔法は効かなかった。
痣は日ごとに広がり、リリアは高熱にうなされ、息をするのも苦しそうになった。
「お姉ちゃん……」
伸ばされた小さな手を、セレスティアは握った。
助けたい。
そう強く願った瞬間、手のひらが熱くなった。
リリアの腕から、黒い痣がすうっと消えていく。
代わりに、セレスティアの左腕へ黒い痣が浮かんだ。
「痛っ……!」
焼けるように痛かった。
怖くて、泣いた。
それでも、妹の呼吸は楽になった。
両親は泣いて喜び、セレスティアを抱きしめた。
「ありがとう、セレスティア。さすがお姉ちゃんね」
最初は、それでよかった。
妹を助けられたことが、ただ嬉しかった。
けれど、呪いはリリアの中に根を張っていた。
数か月後、黒い痣はまた現れた。
「セレスティア、頼む」
引き受けた。
また現れた。
「リリアを助けて」
引き受けた。
何度も。
何度も。
「あなたしかいないの」
そして最後には、決まってこう言われた。
――姉なのだから。
だから、引き受け続けた。
けれど、引き受けた呪いは消えるわけではない。
今度はセレスティアの身体を蝕みはじめる。
だから毎晩、家族が眠ったあと。
セレスティアは一人で自分の身体に光魔法を当て、呪いを焼いた。
一晩で消せなければ、次の夜も。
痛みで朝まで眠れない日もあった。
一度だけ、母に言ったことがある。
「お母様、腕が痛いの」
母は困ったように笑った。
「お姉ちゃんでしょう。リリアはもっと痛かったのよ」
それきり、誰にも言わなくなった。
呪いを焼き消しても、黒い痣だけは身体に残った。
そのおかげで、リリアは元気になった。
走れるようになった。
舞踏会にも行けるようになった。
そして今では――
姉の婚約者を欲しがるほど、元気になった。
◆
「……レオン様も、同じお考えですか?」
レオンは目を逸らした。
「僕は……リリアを幸せにしてやりたい」
「そうですか」
不思議と涙は出なかった。
怒りも湧かなかった。
ただ胸の中で、何かがぷつりと切れた。
「分かりました。婚約は解消いたします」
「本当に!?」
リリアの顔が明るくなる。
「ありがとう、お姉様!」
父は安堵の息をつき、母は胸を撫で下ろした。
レオンまで、ほっとした顔をしていた。
ああ、そうか。
この人たちにとって、私が何かを譲るのは「ありがたいこと」ですらない。
姉なのだから、当然なのだ。
「ではお父様、こちらに署名を」
セレスティアは二枚の書類を差し出した。
一枚目は、婚約解消の届け。
二枚目は――いつか使う日が来るかもしれないと、ずっと鞄の底にしまっていたもの。
父は疑いもせず、二枚続けて署名した。
そして二枚目の表題に目を落とし、表情を変えた。
「……セレスティア。これは何だ」
「絶縁状です」
セレスティアは、署名済みの書類を素早く取り上げた。
「何を馬鹿なことを! 婚約者を譲れと言われたくらいで、家族を捨てるつもりか!」
「いいえ」
セレスティアは左腕の袖をまくった。
手首から肘へ。
肘から肩へ。
黒い痣は、さらにドレスの下まで続いている。
リリアの顔から笑みが消えた。
「これは、八年間あなたから引き受けてきた呪いの痕です」
誰も、何も言わなかった。
「お菓子を譲りました」
一つずつ、数える。
「ドレスも譲りました。誕生日のお祝いも、王立学院へ進む夢も」
黒い痣に目を落とす。
「健康も」
最後に、レオンを見た。
「婚約者も」
もう、十分だった。
「私がリリアに譲らなければならない理由は、『姉だから』なのでしょう?」
父は答えなかった。
セレスティアは微笑んだ。
「でしたら、姉でなくなればいいのではありませんか?」
「待って、セレスティア!」
母が立ち上がった。
「婚約者を譲ってほしいと言っただけじゃない! あなたなら大丈夫だと思ったのよ!」
セレスティアなら大丈夫。
セレスティアなら我慢できる。
セレスティアなら耐えられる。
八年間、ずっとそうだった。
「ええ、大丈夫です」
母の顔が明るくなる。
「私は一人でも大丈夫です」
母の表情が固まった。
「ですから――もう、耐えません」
その日のうちに、セレスティアは家を出た。
◆
翌朝。
屋敷に悲鳴が響いた。
「お母様ぁっ!」
リリアの右腕に、黒い痣が浮かんでいた。
いつもなら、姉を呼べば消えるもの。
けれど、その姉はもういない。
「セレスティアを呼び戻せ! 今すぐだ!」
父が怒鳴ると、使用人は困った顔をした。
「セレスティア様は昨夜、王都の神殿へ向かわれました。それに……昨日付で、正式に当家の籍を抜けておられます」
父の顔が強張った。
自分で署名した、あの絶縁状だった。
「そんなものは後だ! リリアが苦しんでいるんだぞ!」
だが、セレスティアは戻らなかった。
痣は止まらない。
その夜には肩まで。
翌朝には胸元まで。
熱が出て、息が苦しくなった。
「お姉様……お姉様……」
何度呼んでも、姉は来なかった。
三日目。
黒い痣が、リリアの全身を覆った。
「嫌……お姉様……!」
次の瞬間。
黒い靄がリリアの身体から噴き出した。
「きゃあああっ!」
靄は窓を突き破って庭へ流れ出し、渦を巻き、膨れ上がっていく。
四本の脚。
捻れた角。
背中から伸びる、無数の黒い腕。
巨大な黒い獣が、屋敷の庭に立っていた。
八年間。
セレスティアがたった一人で、暴走を食い止め続けてきた呪いだった。
◆
駆けつけた領兵たちが火球を放った。
爆炎が獣を包む。
だが、炎が消えたとき、獣は無傷だった。
雷も。
氷も。
風も効かない。
騎士の剣で裂いた傷さえ、瞬く間に塞がってしまう。
前脚の一振りで、騎士が吹き飛ばされた。
「下がれ!」
神殿から駆けつけた神官が叫ぶ。
「普通の攻撃では倒せません! あれに効くのは光の魔法だけです!」
「光……」
父の顔色が変わった。
「セレスティアだ! あいつなら光魔法が使える! 誰か、セレスティアを――」
「その必要はありません」
人々が振り返る。
白銀の胸当てに籠手、脛当てを身に着けた女性が歩いてきた。
長い髪を後ろで束ね、腰には細身の剣。
真っ直ぐに、獣だけを見ている。
「お姉様!」
リリアが駆け寄った。
「来てくれたのね!」
「勘違いしないでください」
リリアの足が止まる。
「え……?」
「神殿からの討伐依頼で来ただけです」
セレスティアは剣を抜き、切っ先を獣へ向けた。
「あなたを助けに来たわけではありません」
獣が咆哮した。
大地が震える。
セレスティアは左手を刃に添えた。
白い光が、柄から切っ先へ走る。
剣が眩い光に包まれた。
その瞬間。
獣が一歩、後ずさった。
炎にも、雷にも、騎士たちの剣にも怯まなかった怪物が。
初めて、人間を恐れた。
セレスティアが地面を蹴った。
◆
振り下ろされた前脚を、横に跳んでかわす。
直後、地面が砕けた。
舞い上がった土煙へ、逆に踏み込む。
白い軌跡が走った。
黒い前脚が、宙を舞う。
獣が絶叫した。
切り口から黒い靄が噴き出す。
だが、刃に残った光がそれを焼き、傷は塞がらない。
「効いている……!」
背中の黒い腕が、一斉にセレスティアへ襲いかかった。
斬る。
かわす。
弾く。
一本が肩を掠め、鎧が裂けて血が飛んだ。
それでも、セレスティアは止まらない。
リリアは、ただ見ていた。
姉が剣を使えることは知っていた。
光魔法が使えることも。
けれど、姉が毎晩何と戦っていたのかは、考えたことすらなかった。
獣が大きく口を開く。
黒い光が集まっていく。
「全員伏せろ!」
放たれた黒い奔流を、セレスティアは逃げずに受け止めた。
左手から、白い光の壁が広がる。
黒と白が激突した。
「くっ……!」
じりじりと押される。
足が地面を削る。
光の壁に亀裂が走った。
「こんなものを……」
母が口元を押さえる。
「セレスティアは、ずっと……?」
神官が静かに言った。
「呪いを引き受ければ、今度は自分が呪われます。彼女は自分に移った呪いを、光魔法で焼き続けてきたのでしょう」
そして、獣を見上げる。
「人の身体の中にある呪いは、斬ることができません。ですが、外に出た今なら――断ち切れます」
「そんな……」
母の顔から血の気が引いた。
「私、知らなかった……」
その瞬間、八年前の声が蘇った。
――お母様、腕が痛いの。
そして、自分が返した言葉も。
――お姉ちゃんでしょう。リリアはもっと痛かったのよ。
母の膝から、力が抜けた。
「……言ってた」
父が振り返る。
「え?」
「セレスティアは……ちゃんと言ってた……」
知らなかったのではない。
知ろうとしなかった。
セレスティアなら大丈夫。
丈夫だから。
強いから。
姉だから。
それだけで、終わらせていた。
黒い奔流が途切れた。
同時に、光の壁が砕け散る。
その向こうに、セレスティアは立っていた。
息は荒い。
額から血が流れている。
それでも、剣を握っている。
「セレスティア……」
父の唇が震えた。
「お前は、ずっと……こんなことを?」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「ええ」
剣を構え直す。
「姉でしたから」
そして、再び走り出した。
◆
黒い腕の群れへ、真正面から突っ込む。
斬る。
走る。
斬る。
白い光が、黒い夜を切り裂いていく。
八年間。
私はこいつと、自分の身体の中で戦ってきた。
眠れない夜も。
焼けるように痛む夜も。
泣きたい夜も。
ずっと。
でも、今日は違う。
もう、私の身体を戦場にしなくていい。
一本。
また一本。
黒い腕が落ちる。
そして、最後の一本を斬り落とした。
獣が咆哮する。
セレスティアは剣を両手で握った。
八年間。
妹のために。
家族のために。
自分を削って使ってきた力。
その光を、今度は自分を解き放つために使う。
白い光が、剣へ集まっていく。
「これで――」
踏み込む。
「終わりです!」
振り抜いた。
巨大な光の刃が、夜を走った。
獣の巨体が、真っ二つに割れる。
最後の咆哮。
白い光に包まれ、黒い靄は夜空へ溶けるように消えていった。
◆
静かになった庭で、セレスティアは剣を鞘に納めた。
「お姉様……」
リリアが泣きながら近づいてくる。
「ごめんなさい。知らなかったの。こんなに苦しいなんて……お姉様が、ずっとこんな思いをしていたなんて」
小さな手が差し出された。
「だから……帰ってきて」
セレスティアは、その手を見る。
昔なら、握っただろう。
妹だから。
家族だから。
姉だから。
「嫌です」
リリアの手が止まった。
「……え?」
「呪いは消えました。もう、私がいなくても生きていけます」
「でも……」
リリアの声が震える。
「私たち、姉妹でしょう?」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「三日前までは」
リリアの顔が歪んだ。
父が歩み寄り、深く頭を下げた。
「私たちが悪かった。お前がしてくれていたことを、何も分かっていなかった」
「帰ってきて、セレスティア」
母が泣いている。
「今度こそ、あなたを大切にするから」
「もう何も我慢させない」
レオンも一歩前に出た。
「セレスティア。僕も――」
「結構です」
言葉を遮る。
「私はもう、あなたの婚約者ではありません」
「でも僕は……君がこんなに苦しんでいたなんて、知らなくて――」
「大丈夫です!」
四人が、はっと顔を上げた。
その言葉は、何度も言われてきた。
セレスティアなら大丈夫。
姉だから、我慢できる。
耐えられる。
だから、妹に譲ってあげなさい。
でも、今日だけは意味が違う。
涙が一粒、頬を伝った。
それでも、セレスティアは笑った。
「私はもう、あなたたちがいなくても、大丈夫なんです」
背を向ける。
「セレスティア!」
父が名前を呼ぶ。
彼女は、振り返らなかった。
◆
それから、セレスティアは王都の神殿に仕える剣士になった。
もう、誰かの呪いを自分の身体に引き受けることはない。
呪われた魔物を、光を纏わせた剣で斬る。
それが新しい仕事になった。
身体を覆っていた黒い痣も、少しずつ薄くなっていった。
ある日。
訓練を終えたセレスティアに、若い神官が声をかけた。
「セレスティア様。ご実家から、また手紙が届いております」
「捨ててください」
「……読まなくてよろしいので?」
「はい」
「それから、レオン様という方からも」
「それもお願いします」
神官が苦笑する。
そのとき。
「セレスティア様ー!」
訓練場の向こうで、新人の少女が手を振っていた。
「次の訓練、お願いします!」
「ええ。今行きます」
セレスティアは歩き出す。
ふと、八年前の自分を思い出した。
小さな妹の手を握り、黒い痣に覆われた腕の痛みに、ひとりで耐えていた十歳の少女。
――どうして、そこまでするの?
もし今の自分が尋ねたなら、あの子はきっと笑って答えるだろう。
――だって、お姉ちゃんだから。
セレスティアは目を閉じた。
そして、八年前の自分にだけ聞こえるように、小さく呟いた。
「……もう、いいのよ」
目を開ける。
その先には、自分で選んだ道が続いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
本作はこの一話で、いったん完結です。
もし「セレスティアのその後も見てみたい」と思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
皆様の反応を見ながら、続きを書くかどうか決めたいと思います。
セレスティアの新しい人生が、もう少し続くのか。
それとも、このまま王都で幸せに暮らすのか。
全ては応援次第です!
【10/20追記】
皆様からの熱い応援をいただき、第2話の公開が決定しました!
10月23日(金)20時20分公開予定
第2話『私が、知りたいのです』
引き続き、セレスティアの物語をお楽しみいただければ嬉しいです!




