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終焉

日曜日の午前、眩いばかりの陽光が差し込むリビングで、早苗の精神は完全に死を迎えていた。


 椅子に縛り付けられ、夫と幼馴染による野卑な情事を「公開処刑」として見せつけられた衝撃。

それは、銀行員として理路整然と積み上げてきた彼女の人生という塔を、根底から爆破するには十分すぎるほどの暴力だった。


「……さあ、お姉さん。自分のお部屋に行こう? 景色がいい場所だよ」


 萌は、事後特有の弛緩した体で、黒いレースのベビードールを翻しながら早苗に近づいた。結束バンドをハサミで切り刻むと、力なく崩れ落ちる早苗の腕を強引に引き、二階へと引きずっていく。優太はその背中を、まるでゴミ出しでも眺めるような冷ややかな目で見送っていた。


 寝室の掃き出し窓が開け放たれる。五月の爽やかな初夏の風が、皮肉なほど心地よくカーテンを揺らした。萌は早苗をベランダの冷たいコンクリートの上へと突き飛ばし、迷いなくサッシを閉めた。


「早く飛び降りて楽になりなよ。お姉さんがいない方が、みんな幸せなんだから。……あ、鍵、中からかけておくね?」


 カチリ、という無機質な金属音が、早苗の世界を断絶した。


 早苗は膝を抱え、ただ震えていた。思考は停止し、瞳からは光が失われている。自分がなぜここにいるのか、なぜあんなものを見せられたのか、もはや理解する機能さえ壊れていた。


 窓の向こう側では、萌と優太が再びベッドに倒れ込むのが見えた。早苗が飛び降りる「音」を合図にするかのような、狂気的な二回戦の始まり。シーツが波打ち、激しい肉体の衝突音が窓越しに微かに響いてくる。早苗はその音を聞きながら、焦点の合わない目でアスファルトの地面を見つめ続けていた。


 だが、早苗は動かなかった。死ぬ勇気さえも、彼女の壊れた脳内からは消失していた。



 正午を過ぎ、太陽が天頂を越えて西に傾いても、早苗は微動だにしなかった。


 リビングから聞こえてくる萌と優太の笑い声、階下で義母・正江が鼻歌を歌いながら家事をこなす気配。それらすべてが、早苗にとっては遠い星の出来事のように感じられた。


 午後六時。夕闇が佐藤家を包み始める。


 早苗の体は夜露に濡れ、芯から冷え切っていたが、彼女は空腹も寒さも感じていなかった。もはや言葉を発することもできず、ただ濁った瞳で虚空を凝視し、壊れた時計のように時折肩を震わせるだけだ。


 食事と酒を楽しんでいた萌と優太が、夜の帳が降りた頃に再び寝室に現れた。


「……しぶといね、お姉さん。自分でやる勇気もないんだ」


 萌が窓越しに、忌々しげに吐き捨てた。


「……予定が狂ったな。あいつ、このままじゃ明日になってもそこに座ってるぞ。……仕方ない。俺たちが『手伝って』やろう」


 優太の言葉に、萌と正江が暗闇の中で頷いた。


 彼らにとって、早苗はもはや人間ではない。


 自分たちの欲望を満たすため、そして高額な生命保険金を手に入れるための「障害物」であり、清算されるべき「負債」に過ぎなかった。


 深夜二時。住宅街の街灯が頼りなく光る中、佐藤家は死のような静寂に包まれていた。



 ベランダの鍵が静かに開けられる。



 優太、萌、そして正江の三人が、一人の「物」を囲むように集まった。


「……お姉さん、最後だよ」


 萌が早苗の耳元で冷たく囁いた。


 早苗には、もはや抗う力も、逃げる意思もなかった。自分を抱え上げる優太の腕。かつてその腕に抱かれて「一生守る」という誓いを聞いたはずだった。だが、今の彼女には、その腕は単なる重機の一部のようにしか感じられない。


 優太が早苗の両足を持ち上げ、萌がその背中を、正江が腰を、一斉に力任せに押し出した。 


 早苗の体はベランダの手すりに一度引っかかり、まるで振り子のように夜空に放り出された。


「――さよなら、早苗」


 優太が最後の一押しとして彼女の足を空へ跳ね上げた。


 早苗の体は、重力に逆らうことなく、頭から垂直に、漆黒のアスファルトへと転落していった。





 ――ゴン、グシャッ。





 夜の静寂を暴力的に切り裂く、湿った、それでいて硬質な破壊音。


 人間の頭蓋が硬い地面に叩きつけられたときの発する、絶望的な音。


 早苗の体は、自らが選んだ「完璧な家庭」のすぐ足元で、無惨に折れ曲がり、赤黒い液体が静かに広がり始めた。


「……やったわね。これで、全部片付いたわ」


 正江が勝ち誇ったように呟いた。


 だが、その瞬間、静まり返っていた住宅街の窓に次々と明かりが灯った。あまりにも異常な「物音」に、人々が異変を察知したのだ。


「誰か落ちたぞ!」「救急車だ! 早く!!」


 悲鳴が連鎖し、数分もしないうちに、暗闇を切り裂く赤色灯の群れが佐藤家を包囲していった。





 病院の集中治療室(ICU)。




 早苗は「一命」を取り留めた。しかし、それはもはや、かつての彼女が知る「生命」とはかけ離れたものだった。


 脳への激しい損傷により、前頭葉から側頭葉にかけての機能は全滅。医師から告げられた診断は、回復の見込みが一切ない「遷延性意識障害」――植物人間だった。



 早苗が目を覚ますことは、もう二度とない。


 彼女の意識は、あの深夜二時のベランダで感じた「浮遊感」と、地面に激突する直前の「絶望」の刹那に、永遠に閉じ込められたのだ。

 警察の捜査は、萌たちが考えていたよりも遥かに冷徹で迅速だった。

 「自殺」として処理するには、現場はあまりにも不自然だった。早苗の腕に残されたビニール紐の鬱血痕、ベランダの手すりに残された複数の、それでいて早苗のものではない指紋。


 そして何より、近隣住民の証言が決定打となった。

「昼間から女性の叫び声が聞こえていた」「あざ笑うような声がしていた」「夜中に三人で何かを話している声がした」。


 優太、萌、そして正江の三人は、殺人未遂の容疑であっさりと逮捕された。


 警察の取り調べ室で、彼らの「偽りの絆」は脆くも崩れ去った。優太は「萌にそそのかされた」と泣き喚き、萌は「優太が主導した」と毒を吐き、正江は「私は何も見ていない」と二人を見捨てた。


 佐藤家の城は、文字通り灰燼に帰した。


 彼らが夢見た「生命保険金」は、受取人が被保険者を故意に害した場合には、一円たりとも支払われない。それどころか、裁判の費用と、寝たきりとなった早苗の医療費という「負債」だけが、彼らの人生に永遠にのしかかることになった。





 無機質な病室。

 人工呼吸器の規則正しい機械音と、心電図の単調な電子音だけが、早苗の「生存」を証明していた。

 

 早苗の顔には、もう眼鏡はない。かつて理性を象徴していたその瞳は、今は開かれることなく、深い眠りの底にある。


 彼女がかつて命を削って守ろうとしたプライドも、愛情も、完璧な家庭という名の虚飾も、すべてはあのアスファルトの上の血溜まりの中に溶けて消えた。

 もし、彼女の魂がまだその抜け殻の中に留まっているとしたら。


 彼女は今、何を想っているのだろうか。

 

 救いのない静寂。



 愛した者に裏切られ、信頼した者に突き落とされた、その最後の一瞬の景色。


 それが、早苗に与えられた唯一の、そして永遠の安息となった。


 機械仕掛けの心臓が刻む鼓動は、今日もただ虚しく、誰もいない病室に響き渡っている。




(完)

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