最終話 釈放
検事勾留十九日目。2月12日(火)
「泣かんでもええがな。泣かんでも」
親分が星川さんの肩をさすってなぐさめている。
星川さんは最近めっきり親分の腰巾着となっていた。
何かと言っては、「さすがは親分」と言って、太鼓持ちのように振舞っていた。
不思議と不快感をもたなかった。
それよりも、星川さんって人の懐に入り込むのが上手いんだな。とすこし感心した。
この人、どう転んでも強く生きていけるタイプなんじゃないかと思った。
現に親分に、出所したら神戸に来てワイのところで働いてみるか。と、たった今誘いを受けた。その途端星川さんは泣き出したのだ。相当嬉しかったのだろう。
「そのかわり、商売を身につけて貰うで。金儲けがでけへんヤクザなんかクズや。おまはん、でけるか」
「はい、頑張ります」
と、星川さんは答えて、トイレの横に置いてある、ちり紙で鼻をかんでいた。
俺はこういう風にして人と人が繋がっていくんだな。
と、少しほのぼのと感じてしまった。
「俺、ここ出たら差し入れしに来ますから」と言った。
親分と星川さんは、おお、たのむでたのむで、と喜んでくれた。
しかし、明日で二十日目だというのに、なんの知らせもないのだ。
あれ以来、四谷署からも検事からも呼出しが全くない。
もしかして忘れられているんじゃないか。という不安もよぎる。
まさか起訴され東京拘置所に送られる。ってことはないよな。
もう勘弁してくれ。一刻も早く出たいよ。明日俺は一体どうなるんだ。
と思っていたら、
「古屋、ちょっと来い」と、係長が声を掛けてきた。
――あ、来た。
「お、明日の準備か。良かったな」
と、親分や星川さんが冷やかし気味に送り出してくれた。
俺は、どうもどうも準備みたいなんで。と言って房を出た。
前室に入ったら、まずは椅子に座らされた。
係長の目が、メガネの奥でにこやかに笑っていた。
そして、もう一つの椅子を手繰り寄せ、俺に相対して座った。
係長は、紙を一枚取り出し、目の前で広げた。
「古屋、これだ」
見ると、『釈放』と書いた紙だった。
ああ、良かった。明日釈放だ。
よかった。よかった。
と、俺が気の抜けた様子でいたら、係長が、
「どうした。これだ。釈放だぞ。嬉しくないのか」
と、聞いてきた。
嬉しくないはずはないでしょ。
俺は思わず笑顔になった。
「いや、嬉しいですよ。釈放でしょ。明日、釈放なんですよね。俺は」
「なにを言っているんだ。この紙が来たら釈放だ。今、お前は釈放だ」
――えっ。
「今、釈放なんですか。いま?」
ヤッター!
――まて! まてまてまて。
キツネ村はどこだ?
どっかその辺の陰に隠れていないか。
もしくは、目の前のお前は係長に変装した、キツネ村か。
俺が喜んだところを見計らって、ルパンみたいにビリビリっとマスクを剥いで、
「冗談だよ」と姿を現すつもりなのか。
俺はすっかり疑心暗鬼になり、
「冗談じゃないですよね、冗談じゃ。そんなのシャレになりませんよ」
と、噛み付いた。
「何をバカなこと言っているんだ。ほら、お前の私物、着替え、差し入れされた漫画。揃えてあるからな。それを持って、帰っていいんだぞ」
と、目の前の男は優しく微笑んだ――。
どうやら本物の係長だ。
「有難う御座います。有難う御座います」
何度も言って係長に握手を求めた。
そして同時にふと思った。
罰金十万円は?
いつ、どこで、払えばいいんですか?
「そんなものはないよ。この釈放通知が来たら釈放。それだけだ。今回お前はお咎めなしってことだ。良かったな」
おお、そういうことで済んだのか。それは良かった。
じゃあ、ちょっとみんなに挨拶してきますんで。
と言って俺が行こうとすると、
「よせ。行かなくていい。このまま帰れ。お前は中にいる奴等とは違う。もう関わるな」
と、係長が止めた。
俺、差し入れするって言ってあるんですけど。
「いい。来なくていい。差し入れなんか持ってきちゃダメだ。後腐れがあってはいかん。俺が宜しく伝えておいてやるから、差し入れなんか持ってくるなよ」
係長が厳しい口調で諫めた。
俺は、はい。と言っておとなしく従った。
そうか、そういうもんか。
少し後ろ髪引かれる思いだったが、その通りかも知れないなと思った。
すると係長が、
「それと、丁度さっき、いつもお前に接見に来る女性が来たぞ。お前の釈放を伝えたから、一階のロビーで待っている」
と、教えてくれた。
――サトミちゃんだ。
来てくれたんだ。
俺は荷物をまとめ、係長に何度も何度も頭を下げて、前室を出た。
階段を下りながら、右手にヒモが食い込むほどずっしりと重みを感じていた。
『ガラスの仮面』と『エースをねらえ』が紙袋いっぱいに詰まっている。
右手が痛くなってきたので左手に持ち換えた。
途端、紙袋の底が抜け、漫画本がドサドサっと音を立てて、階段の踊り場に散らばった。
それを見て今更ながら思った。
サトミちゃんは、こんな重い物をわざわざ持って来てくれたのか。
床の上にさんざんに散らばった
『ガラスの仮面』と『エースをねらえ』
を、しばし茫然と眺めた。
立ちすくんで眺めていた。
「そうか! ガラスの仮面。に、エースをねらえ。か!」
ゴン。分かったぞ!
通り掛かった人がガムテープを持っていたので、それを借りて紙袋を修復した。
俺は、散らばった漫画本を拾い集めながら言った。
「なるほど、俺らしくか。よし、俺らしくだ」
立ち上がって、俺は走り出した。
ガムテでグルグル巻きにした紙袋を持って、脱兎のごとく階段を駆け降りた。
二段跳び、三段跳びに階段を駆け降りて、一階のロビーに着いた。
いいか。
主役は、北島マヤでも、岡ひろみでもない。
どこだ? どこだ? どこだ? いた。
――サトミちゃん!
と叫んで、俺は、駆け寄って、思いっきり抱きしめた。
「健ちゃん、よかった」
サトミちゃんの口からこぼれた。
俺はサトミちゃんの肩を掴んで、
「サトミちゃん、俺、キスしてもいいかな!」
テンション上がりまくりの俺は、思わず大声で言った。
サトミちゃんは笑って、
「いつでも、いいよ」
と目を瞑った。
ふと周りを見ると、そこにいた全員が俺達に注目している。
待て、人に見せるなんてもったいない。このキスは世界中で俺だけのものだ。
誰もいない二人だけの場所で静かに味わおう。と思い直した。
「俺、今すぐに行きたいところがあるんだ。一緒に行ってくれるかい」
「どこ?ゴン君のところ」
「いや、お母さんのお見舞いだ。サトミちゃんの」
「お母さんのお見舞い?」
「ああ、サトミちゃんの彼氏ですって、御挨拶がしたい。いいかな」
サトミちゃんは、「えっ」と、驚いた表情を一瞬したが、
ニッコリ笑って、
――うん。
と返してくれた。
ヨッシャー。こっから先は怒涛の進撃じゃい。
「それから、もう、サトミちゃんとは呼ばない。ヒトミちゃん。いや、ヒトミだ。これからはそう呼ぶんだ。呼んでもいいかな。サトミちゃん」
――うん。
「そして、一番重要なことだ。歌舞伎町で働くのはダメだ。もう、そういうところで働くのは、俺が許さん!」
――うん。
「金はなんとか俺が稼ぐ。まだ方法は決まってないが、心配するな。但し、違法なことは金輪際しない。まっとうな金を稼ぐ」
――うん。
「売れればいいんだ。芸人として必ず売れてやる。いいネタを仕込んだんだ。留置場担当のバカなお巡りが、ボールペン片手に『判決ゲーム』ってやり出すんだ。懲役一年。執行猶予二年。はいソレ確定!って、面白がって騒ぐんだ。仕舞には、大岡裁きだ。控えおろう。そこへなおれ。これにて一見落着。カンカンカンって。バカだろう。これをゴンに話して、ネタに仕上げて貰う。アイツは天才だからいいネタが絶対出来る。俺達は必ず売れるから、心配するな!」
――うん。
ハア、ハア、よし、言いたいことは言った。
早くここを出よう。いくら何でも騒ぎ過ぎだ。
恥ずかしいったらありゃしねえ。
と、俺はサトミちゃんの手を引っ張って麹町署を出ようとした。
アレ? どうした? サトミちゃんが動かないぞ。
「キスが、まだだっちゃ。キスが終わってないっちゃ~」
え? なに言い出してんの。
恥ずかしいからさ。もう出ようよ。
ほら、みんなじろじろ見てるからさ。
「キスしてくれるって言ったっちゃ。チューしたいっちゃ。チューがしたいっちゃよ~」
駄々っ子のようにサトミちゃんが泣きだした。
俄然、周りの人達の注目が集まり出した。
ざわざわと話し声も聞こえてくる。俺達のことを言ってるな。
でも、もう、そんなのどうでもいいや。
人の目なんかどうでもイーヨ。そうだろ、ゴン。
サトミちゃんの願いを叶えてあげたい。
わがままを聞いてあげたい。
もう、それだけだ。
よし、しょうがない。と心を決めた。
俺はサトミちゃんを抱き寄せた。
まずは、「よしよし」と頭を撫でた。
そして、わんわん泣きわめいている、サトミちゃんの頬に両手をかざして、顔をあげた。
周りのざわめきが一層激しくなった。
誰かが何か言っているのが、聞こえる。
笑い声も、足音も、全部ごちゃまぜに混じっている。
でも――どうでもよかった。
サトミちゃんの顔だけが、やけに近い。
静かに目を閉じるその瞬間だけが、はっきり見えた。
――触れた。
その瞬間、
さっきまであったはずの景色が、ぐるりと流れた。
警官も、婦警も、
ロビーの白い壁も、
全部、後ろへ後ろへと遠ざかっていく。
残ったのは、
腕の中の体温と、
触れている感触だけだった。
やわらかい。あたたかい。
――ああ。
俺は目を閉じた。
力んで仕舞った。
ちょっと強すぎたかもしれない。
でも、それでよかったのかも。
ずっと好きだった。
終わり




