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贖罪

 純白の翼は傷だらけになり、見るも無残な程に血に塗れていた。


 ヒュルケをしっかりとその胸に抱き、エルディはホッとした様にため息を吐いた。


「ご無事ですか? お嬢様」

「無事なんかじゃないわ! 貴方が傷だらけなのですもの!!」


 瞳から惜しげもなく涙を零し、ヒュルケはそっとエルディの頬に触れた。銀色の瞳を細めてエルディは優しく微笑むと、「ああ、ご無事なのですね」と、ヒュルケの手の温もりを噛みしめる様に言った。


「お気になさらずとも、天使である私はこの程度の傷などどうということはございません。泣かないでください」


 エルディは「そんな事よりも……」と続けると頬を染めて瞳を逸らした。


「答えをお聞かせ願います」

「答え? 何の事かしら?」


 拗ねた様に唇を尖らせると、エルディはコホンと咳払いをした。


「お嬢様が私を愛していらっしゃるかどうか、の事でございます」

「え!? あ……!」


 ボン!! と茹でタコの様にヒュルケは顔を真っ赤にすると、慌てて顔を隠すかのようにエルディの胸へと埋めた。


「お嬢様、私は以前のような燕の姿ではございません」

「し、知っていますわ!」

「お応えください。どうか誤魔化さずに」


——どうしたらいいのかしら。エルディがもしも堕天使となってしまったら……! そうなってしまったら、私のせいで彼の幸せを奪う事になってしまうのですもの!


 怯えた様に震えるヒュルケに、エルディは小さく笑った。


「私が堕天使となってしまうことを、恐れておいでなのですか?」


 ハッとした様にヒュルケは瞳を見開いた。唇を噛みしめて、ぎゅっと瞳を閉じるとコクリと頷く。


「……愛しているわ。エルディ。貴方だから、ずっと側に居て欲しいの。貴方を、愛しているから。誰よりも深く」


——ああ、言ってしまったわ。エルディ、ごめんなさい……。


「お嬢様」


——貴方が、破滅の運命へと進む事になってしまったら、私は後悔するというのに。


「お嬢様」


——私は、なんて罪深いのかしら……!


「ヒュルケ!!」


 名を呼ばれ、ヒュルケは顔を上げてエルディを見つめた。その瞬間、唇に口づけを受けた。


 この上ない程の幸せで満たされて、狂おしい程に胸が熱くなる。


「愛していますヒュルケ。貴方は私の光です。私の主は、未来永劫、貴方のみです」


 エルディの純白の翼が、ゆっくりと灰色に染まってゆく。


「エルディ!!」


 青ざめたヒュルケに、エルディは優しく微笑んだ。


「ご安心ください。私は貴方という光を求め、幸せとなる為に堕天使となるのですから。貴方のお側に居ることのみが、私にとっての幸せなのです。もう二度と、主の側へこの身を置くことができないのだとしても構いません」


——例え、彼女が主のものであろうとも。

 例え、離れ離れとなる運命が決まっていようとも、抗ってみせます。そしてそれは、私にしかできないことなのです。


 いつの間にか、空を覆っていた薄雲が晴れ、瞬く星々と白銀の月明かりが二人を祝福するかのように見守っていた。



◇◇◇◇



 王城の執務室。何冊もの本が積み重なり、アレクシスはがむしゃらに頁を捲っては、溜息をついた。

 苛立った様に頭を掻き、食い入る様に文字を目で追っては舌打ちをする。


 普段の紳士的で穏やかな彼の様子とは、明らかに異なっていた。それも当然だろう、こうして書斎に閉じ篭って優に三カ月も超えているのだから。


 無精髭を生やし、髪はボサボサに伸び放題となり、美青年だった様子が見る影もない。


「殿下、それ以上はお身体を壊してしまうわ」


 ヘリヤが何度そう声を掛けたところで、彼は決して手を止めようとはしなかった。


「では、教えてください。どうすれば神の生贄となった者を解除できるのでしょうか。ヒュルケは……私のせいで……!!」


 天上の掟。それも、主の所有物についての言及は禁忌だ。ヘリヤがもしもそれを口にしようものならば、たちまちに怒りを買い堕天使とされてしまうことだろう。


 押し黙るヘリヤに、アレクシスは苛立った様にブツブツと言葉を発した。


「時間が惜しい。一刻の猶予もありません。歴代の聖女は皆短命なのですから」


「兄上」


 いつの間に室内へと足を踏み入れたのか、アレクシスの腹違いの弟であるリクハルドが、コツコツと壁をノックしながら、人の良さそうな笑みを浮かべた。


 リクハルドはアレクシスより4つ程年下で、一見、人当たりが良さそうに見えるものの、異常なほどの執着体質の持ち主だった。

 幼少期より、アレクシスは後妻であるリクハルドの母から忌み嫌われていたため、兄弟らしい会話をする事など無いまま育ってしまった。

 恐らくリクハルドも母親同様、アレクシスを嫌っている事だろう。


「何の用ですか? 私は今忙しいのですが」


 冷たくそうあしらったアレクシスに、リクハルドは「へぇ?」と、面白そうに眉を片方吊り上げた。

 普段のアレクシスであれば、そんな風に雑にあしらうことなど無かったからだ。


 どんな時でも紳士的に礼儀正しく振舞うことこそが、アレクシスの王太子としての威厳であったというのに、目の前に居るのはただの普通の男なのだから。


「ヒュルケ・ペルカ・サルメライネンとの婚約は破棄となったそうだよ、兄上殿」


「……そうですか」


——望んだ事ではあったが、やはり堪える。


 ズキリと痛む胸に、アレクシスは僅かに口元を歪めた。


「祝福するよ、兄上」

「祝福? 何故ですか?」

「何故って、悪女と有名だったじゃないか」


「彼女は悪女などではありません!!」


——悪女どころか、彼女は『聖女』だ。


 突然声を荒げたアレクシスに動じる素振りも見せずに、リクハルドは人懐っこい笑みを浮かべてケラケラと笑った。


「兄上も人間だったんだね」

「どういう意味です?」

「感情なんか、無いものだと思っていたからさ」


「口が過ぎるわ、リクハルド・ウーノ・シェスカベルタ王子」


 ヘリヤがキッパリとそう言い放つと、リクハルドを見つめた。

 神殿から遣わされたヘリヤは、アレクシスの教師でもあり、リクハルドの教師でもあるのだ。


「ああ、ヘリヤ嬢。居たのか。相変わらずお美しい。兄上に付き合わされるだなんて、御愁傷様」

「口を慎みなさいと言っているのよ」


 リクハルドはつまらなそうに肩を竦めると「長居は無用のようだね」と言って、くるりと踵を返してさっさと部屋から出て行ってしまった。


 リクハルドが立ち去るや否や、アレクシスは持っていた本を壁へと投げつけ、机に肘をついて項垂れた。


「殿下……」


「ヘリヤ嬢。少しだけ、私の愚痴を聞いていただけますか?」


 アレクシスの言葉に、ヘリヤは頷くと、寂しげにアメジストの様な瞳を細めた。


「ええ、いくらでも聞くわ」

「ヒュルケ・ペルカ・サルメライネンは、聖女です」


 アレクシスの言葉に、ヘリヤは何も言わずに唇を真一文字に結んだ。


「……あまり驚かれないのですね」


 いつものアレクシスの様に穏やかに、だが寂しげに笑みを浮かべると、言葉を続けた。


「彼女を、私は心の底から愛しているのです。聖女である彼女を。解っています。彼女の心は私に向いてなどいません。あのいつも傍らに騎士の如く目を光らせている執事を想っているのだと気づかされました」


「それでも……」と、言った後、アレクシスは首を左右に振った。


「いいえ、だからこそ。私のせいで、主の生贄となってしまった彼女の運命を、変えねばならないのです」


 肩を震わせ、アレクシスの頬をつ、と一筋の涙が伝った。


「私は……生きながらえるべきでは無かったのです」


 アレクシスのその言葉は、静かにため息を吐くかのように放たれたが、彼自身が自分の存在の全てを否定した悲痛を込められていた。


◇◇◇◇


 サルメライネン公爵邸に届いた王城からの書簡には、ヒュルケとアレクシスの婚約破棄が国王より正式に承認されたと綴られていた。


「娘を侮辱するとは!!」


 怒り狂う公爵の怒鳴り声が響き渡ったわけだが、ヒュルケは満面の笑みでエルディの腕に自らの腕を絡めた。

 公爵の前で何をする気なのだと、困惑したエルディに構わずヒュルケは宣言するように言い放った。


「お父様、私、エルディと結婚しますわ!」


「「え!?」」


 公爵とエルディの二人が同時に声を上げ、ヒュルケは「もう決めましたの」ときっぱりと宣った。


 エルディの背にだらだらと汗が伝う。そういった事は追々考えていけばいいと思っていた矢先の問題発言だった。


 口を開けたまま絶句している公爵に、ヒュルケは物怖じする素振りを一切見せずに言った。


「だってね、エルディったら魔法が使えますのよ? アレクシス王子との婚約が破談となった今、私の嫁ぎ先はどこぞの貴族ということになるのでしょう? だったら、魔法使いであるエルディの方がずっと良いに決まっていますもの!」


「魔法、だと?」


 訝し気に視線を向ける公爵に、エルディは苦笑いを浮かべながらパチリと指を打ち鳴らした。

 ヒュルケが身に纏っているドレスの色が、桜色から淡い群青色へと瞬時に変化する。


「許可しよう」

「!?」


 あっさりと言い放った公爵を前に戸惑うエルディに構わず、ヒュルケは「まあ! お父様、ありがとう!」と言って、ぎゅっとエルディの腕を抱きしめた。


「公爵様……」


 エルディはヒュルケから自らの腕を解放させると、礼儀正しく頭を下げた。


「冷静になってください」

「挙式はいつ頃が良いだろうか?」

「直ぐにでも挙げたいですわ!」

「ですから、冷静に……」

「お母様のドレスをお直しして着たいと思っておりますの!」

「ふむ。嘸かし似合うだろうな!」

「あの……」


 困惑するエルディに構わず、ヒュルケと公爵は多いに盛り上がりながら、久々の親子の会話に花を咲かせていた。


 ヒュルケの腿には刻印が刻まれたままであるというのに……。

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