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疾走

 俯いたまま微動だにしなくなったアレクシスを見つめ、ヒュルケは唇を噛んだ。


——私、すっかり忘れていたわ。忘れていたというよりか、夢の断片の様な状態だったと言った方がしっくりきますわね。

 あの日以来、何故か殿下は私を拒絶して、会ってくださらなくなったのですもの……。


 一体どうして……?


「殿下……」

「ヒュルケ!」


 アレクシスがヒュルケの言葉を遮る様に言った。胸いっぱいに深く呼吸をして溜息を吐くと、彼は顔を上げてにこやかな笑みを向けた。


「申し訳ございません。貴方への求婚は、取り消させてください」

「え……?」


「冷静さを欠いておりました。あの様に、急なことを言うべきでは無かったのです。王子として自覚が足りないにも程がある、お恥ずかしい限りです」


 そう言いながら立ち上がると、アレクシスはスカイブルーの瞳をエルディへと向けた。


 エルディはアレクシスのその視線にズキリと胸の痛みを感じた。


——何故、この男はこれほどまでに悲しそうな笑みを作ることができるのだろう……?


「ヘリヤ嬢、共に王城に戻りましょう。信仰に関する学習をしなければなりません。貴方は神殿から遣わされた私の教師です。付き合って頂きますので、そのおつもりで」


「それは、構いませんけれど……」


 嫌に穏やかに取り繕うアレクシスの様子に、ヘリヤは面食らいながらも頷いた。

 彼が取り戻した記憶は一体どういった内容であったのかと不安に駆られる。アレクシスの性格から、どんなにか辛い状況であろうとも笑顔を絶やす事が無いからだ。

 幼少の頃よりその技術を身に付けたアレクシスは、子供らしく振舞う事の許されない環境下に身を置かざるを得なかったのだから。


「あの、殿下?」


 不安げな様子のヒュルケに、アレクシスは小さく頷いて微笑んだ。


「急に席を外す形となってしまい、申し訳ありません。公爵には宜しくお伝えください。婚約破棄の棄却申請も取り消します」


 ヒュルケは眉を寄せた。


「お待ちになって! 少し位、私とお話する時間をくださっても……」

「王子という身ですから、多忙なのです。困らせないでください」


 有無を言わせぬアレクシスの様子に、ヒュルケは困惑した。


「私、何か殿下を傷つける様な事をしてしまったのかしら」


 アレクシスの唇が震えた。


 エルディは「お嬢様」と、ヒュルケの傍らへと赴くとアレクシスに対して小さく頭を下げた。


「お忙しい殿下の御身を拘束し、困らせてはなりません。殿下、私が馬車までご案内致しましょう。どうぞこちらへ」

「すみません。宜しく頼みます」


 アレクシスは紳士的にそう言うと、先導するエルディの後ろをヘリヤと共に付いて行った。


「ヒュルケ」


 部屋の扉から出る直前、彼は振り返る事なく言葉を発した。


「どうか、お幸せに」


——何を、仰っているの……? 殿下は今、私との婚約も破棄すると言ったのではなくて?


「……どういう、意味ですの?」


 ヒュルケの問いかけには応えることなく、アレクシスはそのまま部屋から出て行った。



◇◇



「ヒュルケを頼みます」


 先導するエルディの背に、アレクシスが穏やかに、しかしハッキリとした口調で言葉を放った。

 足を止めて振り返ると、アレクシスはニコリと笑みを向けた。エルディは少し困った様に僅かにため息をついた。


「殿下、私はただの執事にございます」

「分かっていますよ」

「……勿論、お嬢様に誠心誠意、お仕えする所存にございます故、ご安心ください」


 エルディが品良く頭を下げる様子を見つめた後、アレクシスは寂しげに瞳を伏せた。


「私も、貴方の様に執事という立場であれば良かったと思わずにはいられません」

「……はい?」

「ヒュルケを、決して王城に近づけない様にしてください。公爵には私から書面をお送りします。どうか、お願いします」


 アレクシスはそう言い残すと、王族の印章を掲げた馬車へとヘリヤをエスコートした後自らも乗り込み、有無も言わさぬ様に扉を閉じた。


「エルディ・アロ・アフリマン」


 ヘリヤが窓から声を掛けた。


「あたしは事情を深くは知らないけれど、兎に角殿下に従って。お願いだから」


 ヘリヤの言葉を最後に、馬車がゆっくりと進んだ。エルディは深々と頭を下げて、格式高いサルメライネン公爵家の執事らしく見送ると、溜息をついた。


——一体、どういうことだ? 何故アレクシスは態度を急変させたのだろうか。問い詰めたところで話す様なタイプではないが。

 褒めたくはないが、あの男は完璧過ぎる程に完璧だ。王族としての責任感を持ちつつ、優しさを兼ね備えた、王となるべくして生まれた者。

 そんな男が、何故突然手の平を返した様に求婚や、はたまた婚約破棄の棄却すらも取り消すと言い出したのだろうか。

 それはつまり、確実に……。


『ヒュルケの為』


 愛しているからこその、撤退であると断言しても良いだろう。


 エルディは考え込みながら、公爵邸の正門の前で暫くの間佇んだ。

 灰色の薄雲が星々の瞬きを覆い隠し、月の光すらをも遮っている。


 ヒュルケへの想いが成就されたはずだというのに、エルディの心は晴れるどころか、今にも雨が降り出しそうな程に曇っていた。


「殿下ぁ――ッ!! やっぱりちゃんと話をつけないと気が済みませんわ——ッ!!」


 大地を揺るがす程の速度で馬に乗ったヒュルケが叫びながら、エルディの横を疾走していく。


「え!? ちょっ!? はぁああ!?」


 バビュン!! と、効果音を残してあっという間に小さくなっていくヒュルケと馬の後ろ姿を、エルディは銀色の瞳を点にして何もできずに見送った。


「何考えてるんです!? あのお転婆娘はっ!?」


 周囲に人気が無い事を確認すると、背に純白の翼を生やし、大地を蹴って飛び立った。必死の思いではためかせ、土煙を上げながら疾走しているヒュルケの後を追う。


 だが、信じられない程の速度で疾走するヒュルケになかなか追いつく事ができず、エルディは真っ青になって叫んだ。


「お嬢様!! お待ちくださいっ!!」

「あら? まぁ! エルディったら、飛べるのね!? 綺麗ですこと!」


 ヒュルケの速度が落ちてはきたものの、それでもまだ追いつけない。


「アレクシス王子が王城には来るなと仰せでございます!」


 馬に乗ったヒュルケとは違い、自らの翼をはためかせているエルディは息切れをしながら叫んだ。


「あら? そうですの? 大丈夫ですわ。それなら王城に着く前に、殿下を捕まえれば宜しいのですもの!」

「いえ、しかし……」


 ヒュルケの乗る馬は、サルメライネン公爵の馬。即ち『英雄』の馬だった。体躯の良い公爵を乗せたまま臆すことなく戦場を駆るその名馬は、類まれなる脚力を誇っている。


「だって、このままではスッキリしませんもの! 私は嫌よ。殿下のあの言い方は、まるで永遠の別れのようだったのですもの!」

「では、そのお気持ちを汲んで差し上げてくださいっ!!」


 エルディの悲鳴の様な叫びに、ヒュルケは首を左右に振って「嫌ですわ!」とキッパリと言い放った。


「あれが殿下の本心ならば聞き入れますわ。けれど、それならどうしてあのように寂しげに微笑むのかしら? それをそのまま受け入れる事は、『思いやり』とは言えませんわ!」


 エルディの速度が遅れ、二人の間の距離が広がる。エルディは必死になって叫んだ。


「では、お嬢様は私への『思いやり』は無いのですか!? 貴方は、私を愛しているのではないのですか!?」


「……?」


 ヒュルケはエルディを見つめながら、シーグリーンの瞳をぱちくりと瞬きした。


「……!?」


 顔を真っ赤にし、エルディを見つめたままパクパクと口を動かした。


「そ、それは、あのっ!!」


 慌ててわたわたと手を振り出したため、握っていた手綱から手を離し「あっ!」と叫んだ頃には馬の背から振り落とされていた。


「ヒュルケ!!」


 エルディが咄嗟に両手を広げ、投げ出されたヒュルケの身体を空中で受け止めると、その反動で失速し、大地へと転がった。

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