第2話 チョロすぎるだろ!
翌朝
早朝のエントランスホールは、まだ人もまばらだった。
片山は左手の人差し指に嵌めた指輪型デバイス、Bio-Loopに視線を落とす。
淡く光るリングの表面に、小さく数字が浮かんだ。
Condition:62%
(……低いな)
眉間に、ごくわずかな皺が寄る。
(昨日のあのバグのせいで、睡眠に影響があったか。想定外の変数が多すぎた)
エレベーターホール前で立ち止まったまま、片山は静かに息を整えた。
(──いや、慌てるな。プレゼン前のメンタルリハーサルと同じ要領で処理すればいい。原因は特定済みだ。対応も完了している。あとは数値が自然に回復するのを待つだけだ)
そう自分に言い聞かせ、スマートフォンを取り出す。
スケジュールアプリを開き、今日の予定を機械的に確認していく。
その時。
「あれ!」
前方とは別の方向から、聞き覚えのある声が飛んできた。
片山の視線が、反射的にそちらへ向く。
(……は?)
遠目に見えるシルエット。明るい髪色、少し垂れた瞳が見開かれて片山を見ていた。親しげな足取りで近づいてくる。
(──まさか)
昨日のあの女だ。片山は瞬時にそう判断した。
傘で自分をずぶ濡れにした張本人、斎藤美百合。
(お、同じビルだと……!?)
片山は無表情のまま、視線をスマートフォンの画面へ戻した。
(朝からご丁寧に、また声をかけてくる気か。もう、関わる理由はないはずだ)
見なかったことにする。存在自体を認識しない。それが最も効率的な対応だと判断した。
(……気づかないふりだ。徹底しろ。目線を上げるな。反応するな)
画面をスクロールする指先だけが、やや速い。
コツ、コツ、と軽い足音が近づいてくる。
(……来るな。来るな来るな──)
エレベーターの扉が開く。
片山は素知らぬ顔のまま、乗り込んだ。
その直後。
「昨日はありがとうございました! 過多さん!」
無邪気な声が、朝のエレベーターホールに響き渡った。
「……」
片山の指先が、スマートフォンの上でぴたりと止まる。
しん、とエレベーターの中が静まり返った。
「……あ」
美百合も、自分の声の大きさに今さら気づいたのか、両手で口を覆う。
だが、時すでに遅し。
『過多さん』という妙な単語だけが、静かなエレベーターホールに、くっきりと余韻を残していた。
片山の眉が、ぴくりと動いた。
信じられないものを見る目で、美百合を見下ろす。
「……片山だと言ったはずだが」
低い、地を這うような声だった。
「斎藤。お前は一晩で、俺のアイデンティティすらハックする気か」
「あ、す、すみません! 片山さん! ……クリーニング代の件ですよね!?」
「……声が大きい。静かにしろ」
片山は小さく息を吐き、前髪をかき上げた。
「スーツはステイン・ハックで完璧にセルフハック(染み抜き)した。もう請求するまでもない」
一拍置いて、付け足す。
「反省しているのなら、二度と、俺の前でカーボン傘を開くな」
「はい……」
美百合はカフェオレのボトルを両手で包んだまま、こくこくと頷いた。
(過多さん、通じちゃった……いや通じてない……)
恥ずかしさで顔が熱い。
(……予測不能、再現性なし)
片山は表情を変えないまま、わずかに顎を引いた。
(イカれている。さすがバグだな。今後は無関係な人間として扱う。それでいい)
エレベーターの扉際、二人の間には無言の距離が保たれていた。
片山は正面を見据えたまま、一切の視線を送らない。
このまま何階かをやり過ごせば、それで終わる。
そのはずだった。
「あら、片山さん」
前方の通路から、女が一人、笑顔でこちらへ向かってくる。
完璧に巻かれた髪、隙のないメイク。しなを作りながら親しげな距離感で近づいてくる。
(……面倒なのが来た)
片山の背筋に、一瞬で緊張が走る。
(あれに捕まると長い。エレベーターの中まで入り込んでくる可能性がある)
一秒で判断する。
くるり、と身体の向きを変え、片山は美百合の方へ身を傾けた。
「……昨日あのあと、大丈夫だったか?」
「……え?」
美百合がボトルを持ったまま固まる。
片山は一歩だけ距離を詰めた。
エレベーターの照明が背中に回り、長い睫毛の影が頬へ落ちる。
さらり、と整えられた前髪の一束が額へ滑り落ちた。
黒い瞳だけが、美百合を真っ直ぐ射抜く。
視線が一瞬だけ強くなる。有無を言わせない圧。
声は出さない。
ただ。
『あ・わ・せ・ろ』
唇だけが、ゆっくりとそう動いた。
「……!」
美百合の心臓が跳ねる。
(そ、そういうこと!?)
「……あ、ぁ、うん。大丈夫!」
美百合は目を瞬かせながらも、なんとか言葉をつなげる。
「ちゃんと、途中まで送ってくれたから」
(送ってないが……まぁ、ありか)
「心配性ですね……」
そう言って、美百合はくすりと笑い、片山を見上げた。
(な……)
片山の思考が、一瞬完全に停止する。
昨日の泣き顔はどこへやら、目の前には花が咲いたような可愛げのある笑顔だけが視界いっぱいに広がった。
耳の裏が、じわりと熱を持つ。
(なんだ……、距離がおかしい)
近づいてきていた女は、二人の空気を察したのか、数歩手前で足を止めていた。
「……でも、いいんですか?」
美百合が続ける。声のトーンが、心なしか少し弾んでいる。
「ビルでは内緒って言ってたじゃないですか、先輩」
(は……? 先輩?)
片山の頭の中で、計算式が音を立てて崩れた。
その直後だった。
美百合が小さく、可愛らしく小首を傾げたのだ。
昨日の『泣き虫のウミウシ』のような面影は消え、いたずらっ子のような、柔らかい笑みだけが目の前にある。
チーン。
エレベーターが到着音を鳴らす。
片山は反射的に一歩踏み出した。だが視界の端では、件の女がまだこちらを覗き込んでいる。
その時。
袖を、そっと引かれた。
(おい……っ!!)
ふわり、と柔らかな柔軟剤の香りが鼻先をかすめた。
甘すぎない、清潔な匂い。
片山の指に嵌めたBio-Loopが、警告音こそ鳴らさないものの、グラフを異常値に跳ね上げる。皮膚温度、心拍数、さらにはコルチゾール値までが、明らかに『緊急事態』を示している。
いつのまにか美百合からも、一歩分だけ距離を詰めてきていた。
「……またあとで」
美百合が、小さく笑ってそう言った。
扉が閉まりきる、ぎりぎりのタイミングで、袖から手が離れる。
残り香だけが、やけに輪郭をもって鼻の奥に残った。
目の前で扉が閉まっていく。
その隙間から見えた美百合の顔は、悪戯が成功した子供のような、満足げな笑みだった。
「……」
片山はエレベーターの外、誰もいないロビーで立ち尽くしていた。
左手のBio-Loopが、まだトクトクと脈打つように淡く点滅している。
先におりた地雷女が何か言いかけているのが聞こえたが、片山の耳には入ってこなかった。
(昨日は泣かせてしまったし、お詫びのカフェが効いたのか……?)
閉まった扉を、片山はしばらく無言で見つめていた。
片山は自分の袖口に触れた。そこにはもう、美百合の指の温もりはないはずなのに、皮膚の表面が熱い。
昨日の雨、濡れたシャツ、温かいミルクティー、そして今の『先輩』という演技。
(……いや。演技にしては、距離感が物理的に近すぎた)
片山は冷静さを装おうと、ゆっくり額へ手を当てた。心拍数は、まだ収まらない。
(袖を掴む必要はあったか?)
指先が前髪をかき上げる。
しかし整えていた髪は、考え込むたびに無意識にくしゃりと乱れていく。
(「またあとで」と言う必要は?)
通り過ぎる社員が、足を緩めた。
「あの……片山さん?」
声を掛けようとして、張り詰めた空気に気圧され、そのまま会釈だけして通り過ぎる。
別の社員も、不思議そうに振り返る。
いつも冷静沈着な営業リーダーが、エントランスのど真ん中で一人、立ち尽くしていた。
(……まさか)
片山の動きが止まる。
脳内の演算回路が、極めて都合の良い結論を導き出していく。
(あのバグ……まさか、俺に……)
ゆっくりと口元へ手を当てる。
だが、その瞳だけは、閉じたエレベーターの扉を未練がましく追っていた。
(……チョロすぎるだろ)
左手のBio-Loopが静かに震え、数値を書き換える。
Condition:42%




