第1話 迷惑だ!
つい最近、雨の日に思いついたお話です。
息抜きになれば嬉しいです。
激しい雨が、アスファルトを白く叩きつけている。
片山智志は、仕立てのいいオーダースーツの肩を濡らすことなく、真っ直ぐに前を見据えて歩いていた。Bluetoothイヤホンから聞こえる部下の言い訳を、冷ややかに遮る。
「──要領を得ないな。俺が聞いているのはお前の『感想』じゃない。今週中に契約が取れるのか、落とすのか。その二択だ。できないなら今すぐ担当を外れてくれ。時間の無駄だ」
感情を一切排した、刃物のような声。
片山にとって、仕事も人間関係も、すべては最短ルートでコントロールされるべきものだった。
大通りに入り、人の流れがぐっと密になる。
片山は歩調を緩めず、前方で大きな傘をふらふらと揺らしている一人の女を見つけた。
(……危なっかしいな)
距離を取ろうとしたが、背後から押し寄せる人の波に遮られ、進路を変えられない。片山はわずかに眉をひそめ、その女の真横をすり抜けようとした。
「なんで私が土砂降りの中、買い出しに……!」
斎藤美百合は、重いコピー用紙の束を抱え、泣きそうな顔で雨の中を歩いていた。
すべては、数時間前の会社の理不尽から始まっている。
『あ、斎藤さんまたお願いできる? 』
社歴二十年のお局社員が、キーボードから目も離さず声だけを飛ばしてきた。
『すぐに用意しないといけなかったんだけど、稟議あげるのすっかり忘れてて』
悪びれる様子もなく、コーヒーを一口飲む。
(…え、…まただ)
美百合が返事をするより先に、隣で課長が立ち上がった。
『悪い! 在庫切らしてた! 午後の役員会で三百部刷るんだった!』
課長は頭をかきながら手を合わせる。
『稟議あとで通すから、とりあえずコピー用紙だけ買ってきて!』
『……はい』
結局、なぜか自分が土砂降りの中へ放り出されることになった。
おまけに、お気に入りだった猫柄の傘まで犠牲になった。
『傘立ていっぱいだから、一回出しちゃうね』
隣の部署の先輩が、悪気なく傘をまとめて出入口脇へ移し始める。
美百合の猫柄の傘も、そこに立て掛けられた。
理不尽な買い出しへいざ向かおうと傘を取りに行った、その瞬間だった。
——バリバリッ!!
勢いよく開いたドアが、傘を根元から挟み込んだ。
『あっ! え!? な、何!? ……す、すみません!』
ドアを開けた後輩社員が青ざめる。
慌ててドアを押し返した頃には、骨は無残に折れ曲がり、布地には大きな裂け目が走っていた。
猫の笑った顔が、真ん中から裂けている。
美百合は言葉も出ないまま、折れ曲がった猫のイラストを見つめた。
『……』
今年の春に、自分へのご褒美として買った、お気に入りだった。
『斎藤さん、これ使いな』
焦る後輩の横から、課長が自分の折りたたみ傘を差し出した。
『それ、高かったんだよ。まず折れない』
たしかに、手に持った瞬間から骨組みの頼もしさが違う。
軽いのに、骨組みだけ異様に頑丈だった。
そして今、その頑丈さが、美百合を苦しめている。
ビル風を受けるたび、カーボン製の骨がぐにゃりと大きくしなり、傘全体が生き物みたいに暴れ出す。
(や、やめて……!)
コピー用紙を抱えた両腕では、とても押さえきれない。
(ひっくり返る、ひっくり返る──!!)
美百合の抵抗も虚しく、傘はバチンッ!と派手な音をたてて、逆さにひっくり返った。
「お前はまず──」
イヤホン越しに部下を冷たく突き放そうとした片山の視界が、突如、ひっくり返った傘の黒い布地で覆われた。
「ああっ!」
美百合が悲鳴をあげた、次の瞬間。
驚異的な柔軟性を持つカーボン傘は、パォンッ!!!と凄まじい勢いで、一瞬で元の形に復元した。
その刹那、内側に溜まっていた大量の雨水が、美しい放物線を描いて真横の片山にダイレクトに降りかかる。
「……っ、つめたっ!?」
完璧だった前髪と、15万円のオーダースーツが、一瞬にして滝に打たれたようにずぶ濡れになった。
片山は立ち止まり、濡れた顔を拭うことも忘れて、信じられないものを見る目で美百合を睨みつける。
「おい……! 自分でも制御できない癖に、そんな高性能なものを持つな! 機能過多だぞ!!」
あまりの冷たさと、聞いたこともないキレられ方に、美百合はコピー用紙を抱えたまま固まった。
(……っ!め、めちゃくちゃ怖い……!)
美百合は重いコピー用紙を抱えたまま、その場にすくみ上がっていた。
生まれて初めて向けられた、刃物のように鋭い怒号。周囲を歩く会社員たちの視線が一斉に自分たちに突き刺さるのが分かり、恥ずかしさと情けなさで頭がどうにかなりそうだった。
理不尽な買い出し、お気に入りの傘の破壊、そしてこの大惨事。張り詰めていたストレスの糸が、音を立ててぷつりと切れた。
「……う、っ……」
ごめんなさい、と言わなければいけないのに、喉がヒュッと鳴って言葉にならない。
みるみるうちに視界が涙で歪み、大粒の涙がポロポロと頬を伝って落ちた。
片山は、濡れた前髪をかき上げながら信じられないというように目を見開いた。
「は……? な、おい。泣くのか? 泣きたいのは俺のスーツの方だ。それは卑怯だぞ」
理詰めで責め立てようとした片山だったが、美百合が本格的に声をあげて泣き出しそうになると、途端に周囲の視線が「冷徹な男が若い女性を泣かせている」
という最悪のニュアンスを帯びていくのに気づいた。
通り過ぎる人々が、あからさまに眉をひそめて片山を振り返る。
「おい、泣き止め。おい……!」
人生で最も効率の悪いトラブルに巻き込まれ、片山は激しく苛立ちながら周囲を見回した。
完全に人目が痛い。このまま路上で不毛な押し問答を続けるのはリスクでしかない。
「くそっ……! ちょっと来い!」
片山は舌打ちをすると、美百合の細い腕(と、濡れそぼったコピー用紙の束)を強引に掴み、すぐ目の前にあったオフィスビルの地下カフェへと、逃げ込むように彼女を引っ張っていった。
◇
地下のカフェは、外の豪雨が嘘のように静かだった。
窓を打つ雨音だけが、一定のリズムで店内に響いている。
美百合はソファ席の端で小さく身体を縮め、濡れたコピー用紙を抱えたまま鼻をすすった。
向かいでは、男が濡れたジャケットを椅子に掛け、スマートフォンを操作している。
やがて胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚をテーブルへ滑らせた。
「片山智志だ。一応、名刺を置いておく」
白地に黒い文字だけの、無駄のないデザイン。
会社名を見て、少しだけひっかかりを覚える。
(……何だっけ?)
ぼんやり眺めていると、低い声が飛んだ。
「……おい、聞いているか」
びくりと肩が跳ねる。
「泣き止まないなら、その名刺の裏の番号へ連絡しろ。俺のスーツのクリーニング代について、法務を通すか、個人間で決済するか。お前の会社の倫理規定に則って論理的に話し合う」
一拍置いて、当然のように続ける。
「だから所属と名前を言え。名刺を出せ」
「は、はい……」
まだ少し震える指で財布を開き、一番手前に入っていた名刺を差し出す。
片山は受け取ると、一秒とかからず視線を走らせる。
「……斎藤美百合。蒼和商事。鉄鋼第二営業部業務課か」
名刺をテーブルへ戻す。
「……斎藤か。まあ、今後、俺に実害を与えるほどの知性はなさそうだな。」
「……え?」
「俺を狙った嫌がらせでもない。単なる事故だな」
そう結論づけると、さっきまでの鋭い圧がほんの少しだけ引いた。
(いまのは……何?)
こんなにあからさまに皮肉を言われるとは。
でも、怒鳴られるよりは何倍もましだった。
片山は無言で席を立った。ほどなくして戻ってきた彼の手には、紙コップが二つ。
「飲め」
目の前へ置かれたのは、湯気の立つミルクティーだった。
「糖分を摂取しろ。脳がパニックを起こしている状態では正常な判断ができない」
「……」
「急に泣き出すなんて、完全に処理落ちしてる証拠だ。五分近くまともに会話もできていなかった」
「……はい」
泣いたことを改めて言葉にされ、さっきよりも恥ずかしくなる。
(そこまで言わなくても……)
「まず血糖値を戻せ」
美百合は小さく頷く。
「……あと身体も冷えている。その顔色だ。今日は残業するな」
「え……?」
まるで業務連絡のような口調だが、少しだけ、心配してくれているのかもしれない。
「風邪を引いて熱でも出されたら、お前の会社とも話がややこしくなる」
違ったようだ。
「……ありがとうございます」
美百合は両手で紙コップを包む。じんわりと熱が指先へ伝わった。恐る恐る一口飲む。
甘い。
さっきまで止まらなかった震えが、少しずつほどけていく。
向かい側では片山もコーヒーを一口飲み、濡れたシャツを不快そうに摘まんでいた。
「まったく……」
また始まった。
この人の頭の中には、"黙る"という選択肢が存在しないらしい。
「風速七メートル程度で反転する傘など欠陥商品だ。骨の復元力だけ異常に高く、水の放出方向をまるで考えていない。設計者は人体への二次被害を想定していないのか」
(……まだ傘の話してる)
「それを課長が社員へ貸与する判断も理解できない。危険予測能力が低い。さらに、そんな大型のコピー用紙を雨の日に一人で買いに行かせる業務設計も非効率だ」
(会社の体制まで…)
「そもそも、お前もだ」
「は、はいっ」
「コピー用紙はネット発注に切り替えろ。重量物を人力で運ぶ理由がない」
「……」
「在庫管理も適当なんだろう。発注点を決めておけばこうはならない」
(……全部言うんだ)
美百合は温かなミルクティーを飲みながら、ただ黙って聞いていた。
怒っているというより、見えるもの全部に改善案を出している。
そんな感じだった。
「あと歩き方だ」
「えっ」
「傘を風上へ十五度傾けろ。真正面で受けるから持っていかれる」
「……はい」
「コピー用紙は身体の中心で抱える。腕だけで支えるな」
「はい……」
「あと」
(まだあるの!?)
思わず心の中だけで叫ぶ。
文句なのか、指導なのかもはや区別がつかない。
(この人の"全部"って……どれくらいあるんだろう)
ぼんやりと顔を上げる。
さっきは怖くて気づかなかった。
雨に濡れた黒髪を無造作にかき上げる仕草。
整った横顔。
真っ白なシャツは雨を吸って肌に張りつき、袖をまくるたびに濡れた腕が覗く。
(……)
なんだろう。
さっきまで怒鳴られていたはずなのに、その光景だけ切り取ると、ドラマのワンシーンみたいだった。
(この人……顔、すごく綺麗)
ブツブツ文句ばっかり言ってるし、神経質そうだけど。
(……目の保養だなぁ)
その瞬間だった。
——『自分でも制御できない癖に、そんな高性能なものを持つな! 機能過多だぞ!!』
さっきの怒鳴り声が脳内に鮮明によみがえる。
(機能過多……)
じわりと口元が緩んだ。
(片山……過多さん)
ぷっと吹き出しそうになる。
「おい」
「は、はい!」
「聞いてるのか」
「き、聞いてます……すみません」
「返事だけはいいな」
「はい……」
美百合は紙コップを握りしめたまま、小さく頷いた。
(……過多さん)
心の中だけで、もう一度そう呼ぶ。
「……ふっ」
思わず漏れた息に、片山の眉がぴくりと動く。
「何がおかしい」
「な、なんでもないです」
美百合は慌ててミルクティーへ口をつけた。
(やっぱり、過多さんだ)
読んでくださってありがとうございます。
ムーンライトノベルズでも作品を書いています。ご興味のある方は、作者ページからご覧いただけると嬉しいです。
・裏組織を舞台にした、強すぎるヒロインのお話
・聖女と聖騎士のダークファンタジー
少し癖はありますが、笑えて、ときどき切ない物語を目指しています。




