第15話 17歳の私(わたくし)、フッケル救済計画を開始します
フッケル・ダンクステンのページは、まだ開きませんでした。
当然です。図書室で少し話しただけですもの。
棚の隙間から魔法式を覗き見し、正論で覗き見だと指摘され、美しいと言い、関わるなと言われ、追わないでくださいと先に釘を刺されただけです。
……並べると、なかなかひどい初対面ですね。
私は反省しました。反省しましたが、何もしないわけにはいきません。
私は自室の机に向かい、『ときめきブック攻略計画』を開きました。そして、新しい項目を書き足します。
フッケル救済計画。
1 図書室での接触を増やす。
2 魔法式について自然に会話する。
3 ダンクステン家の内情を探る。
4 アイリスとの幼馴染関係を確認する。
5 タンタル・ダンクステンの動きを警戒する。
書き終えて、私は少し考えました。
完璧です。たいへん完璧。……完璧なはずです。
ですが、なぜでしょう。紙に書いた途端、少しだけ作戦名が重く見えます。
フッケル救済計画。
文字にすると、本人の意思が一切入っていないように見えました。
いえ。最終的には本人の意思を尊重します。当然です。
ただ、まずは救うための準備が必要なのです。
私は主人公ですから。
救済ルートを進めるには、正しい順番があるのです。そう自分に言い聞かせ、私はノートを閉じました。
翌日。
私はまず、ダンクステン侯爵家について調べることにしました。とはいえ、学園の資料でわかることは多くありません。
宰相家として知られる名門。王家に近く、政務に強く、魔法式研究にも多くの人材を出している家。そして、現当主の嫡男タンタル・ダンクステンは、すでに王宮で高く評価されている。
外から見れば、何の問題もない家です。外から見れば。
ゲームでも、タンタルは悪役として明示されていたわけではありません。フッケルを家に縛りつける人。彼を道具として見る、冷たい兄。その程度の扱いでした。
ですが、ここはゲーム画面の中ではありません。
画面では見えなかったものが、現実にはある。
アイリスもそうでした。
ヒロイン枠。光属性。友情エンドの相手。そう知っていたはずなのに、実際に会ってみれば、声が大きく、善意の使い方が下手で、でも悪い子ではなくて。
スイもそうです。
遊び人枠。火属性。軽い攻略対象者。そう知っていたはずなのに、彼の火は軽いだけではありませんでした。きちんと熱を持っていた。
ならば、フッケルも。
私の知っているページの中の彼と、今ここにいる彼は、同じではないのかもしれません。そう思ったところで、私は首を横に振りました。
いえ。
同じではないとしても、救うべきことに変わりはありません。フッケルのページは、必ず開かなければならないのです。
「フライト」
声をかけられて顔を上げると、ティタンが立っていました。
「ティタン」
「ダンクステン侯爵家について調べていたのですか」
見られました。いえ、隠していたわけではありませんが。
「ええ。少し気になることがありまして」
「フッケル・ダンクステンですか」
鋭い。本当に鋭い。
「なぜそう思いましたの?」
「昨日、図書室に行った後のフライトは、本を抱えて考え込んでいました」
「見ていましたの?」
「はい」
「どこから?」
「廊下で」
「声をかけてくださればよかったのに」
「フライトが考えている時に声をかけると、少し無理をして微笑むので」
私は口を閉じました。
そうでしょうか。そうかもしれません。
ティタンは、本当に私のことになるとよく見ています。よく見すぎています。
「フッケル・ダンクステンに関わるのですか」
「関わる必要があります」
「必要」
ティタンはその言葉を繰り返しました。
以前も聞かれた言葉です。アイリスの時と同じ。必要。なりたい、ではなく。
その違いを、ティタンは聞き逃しません。
「フライトは、彼を救いたいのですか」
「ええ」
「彼は、救われたいと言いましたか」
私は、すぐには答えられませんでした。
ティタンは静かに私を見ています。責めているわけではありません。ただ、確かめている。
「まだ、言っていません」
「では、なぜ救うと決めるのですか」
正しい質問です。たいへん正しい。けれど、答えにくい。
私はフッケルの未来を知っています。
彼がダンクステン家で道具のように扱われることを知っている。彼がひとりで閉じていくことを知っている。そして最後には、彼が自分の居場所を選ぶことも知っている。
だから、先に手を伸ばしたい。
苦しむ前に。壊れる前に。逃げ場がなくなる前に。
そう思うのは、間違いでしょうか。
「苦しむ未来を知っているなら、何もしないわけにはいきませんわ」
私はそう答えました。
ティタンの瞳が、わずかに揺れました。
「未来を知っている」
「ええ」
「フライトの知っている未来と、今ここにいる彼は、同じですか」
私は息をのみました。
ティタン。なぜ、あなたは時々そこまで鋭いのですか。
「……同じとは、言い切れません」
「なら、気をつけてください」
「何を?」
「フライトは、救いたい相手を見ているようで、時々、救いたい未来を見ています」
私は黙りました。
ティタンは静かです。静かだからこそ、言葉が深く沈みます。
「それでも、フライトが関わるなら止めません」
「止めませんの?」
「止めたいです」
「正直ですわね」
「はい」
ティタンは、少しだけ目を伏せました。
「けれど、フライトが誰かを救いたいと思うことまで、僕が閉じ込める権利はありません」
私は少しだけ驚きました。ティタンが、その言葉を使うとは思いませんでした。閉じ込める。以前、私がカリウスに言った言葉です。守ることと、閉じ込めることは違う。
ティタンは、それを覚えていたのでしょう。
「……ありがとうございます、ティタン」
「でも、一人で全部抱えないでください」
「ええ」
「本当に?」
「本当に」
「フライトは、本当にと言う時ほど、少し怪しいです」
「それは困りましたわね」
「困ってください」
「善処します」
「善処も怪しいです」
会話が、少しだけいつもの調子に戻りました。
私はほっとしました。同時に、胸の奥に小さな引っかかりが残ります。救いたい相手を見ているようで、救いたい未来を見ている。ティタンの言葉は、思っていたよりも痛い。
けれど今は、それを深く考えている時間はありません。
フッケル救済計画は、始まったばかりなのです。
次に必要なのは、アイリスです。フッケルとアイリスは、幼い頃に平民街で一緒に過ごしていました。ゲームでは、二人の幼馴染関係はフッケルルートの重要要素です。
アイリスは彼の過去を知っている。フッケルがまだ、完全にダンクステン家の道具になる前の記憶を持っている。二人の関係を良い形に戻すことで、フッケルの心が少しずつほどける。
つまり、アイリスから話を聞く必要があります。
ただし。
問題は、アイリス本人です。
彼女は悪い子ではありません。けれど、善意の使い方が下手です。初対面で私に「大変だったんですね」と言ってしまう子です。フッケルの事情を、うっかり誰かの前で口にする可能性もあります。
私は昼休み、学園の中庭へ向かいました。
アイリスは、木陰のベンチに座っていました。一人ではありません。近くの女子生徒と、楽しそうに話しています。
少しほっとしました。
入学初日から目立ちすぎていたので、周囲になじめるか心配していましたが、どうやら少しずつ友人もできているようです。
よかった。本当に、よかった。……いえ。友情エンドのためにも、アイリスが孤立しないことは重要です。
私は近づきすぎない位置で足を止めました。
すると、アイリスがこちらに気づきました。
「あっ、フライト様!」
声が大きい。相変わらず、よく通る声です。
周囲の視線がこちらを向きました。
私は微笑みます。完璧に。
「ごきげんよう、アイリスさん」
「ご、ごきげんよう!」
アイリスは慌てて立ち上がりました。
隣の女子生徒も、びくっとして立ち上がります。
私は少しだけ距離を取り、扇を閉じました。
「お邪魔でしたら、出直しますわ」
「いえ! 全然! あ、でも、えっと、あたし、何かしましたか?」
まずそこを心配するのですね。少し胸が痛みました。初日に、私たちは彼女をかなり冷やしました。
もちろん、あの時は必要でした。けれど、アイリスの中には「フライト様が近づいてくると、自分は何か失礼をしたのかもしれない」という不安が残っているのかもしれません。
「何かを責めに来たのではありません」
「そうなんですか?」
「ええ」
私は微笑みました。
「少し、お話を聞きたいだけですわ」
「お話?」
「はい。ここでは少々落ち着きませんもの。よろしければ、少し場所を移しましょう」
アイリスは目を丸くしました。それから、隣の女子生徒を見ます。
「あ、えっと、じゃあ、また後でね」
「うん」
女子生徒は少し緊張した顔で去っていきました。
申し訳ありません。公爵令嬢の呼び出しのように見えているかもしれません。
私は中庭の奥、人気の少ない場所へ移動しました。ただし、完全に人目のない場所には行きません。
私がアイリスを連れ出したと噂になっても困ります。平民出身の光属性少女と公爵令嬢。ただでさえ、初回共鳴の件で注目されています。
距離感は難しい。
「アイリスさん」
「はい」
「フッケル・ダンクステンさんをご存じですか」
アイリスの表情が変わりました。驚き。それから、少しの戸惑い。
「フッケル……?」
彼女はその名前を、小さく繰り返しました。先ほどまでの大きな声ではありません。ずいぶん静かでした。
「ご存じなのですね」
「……はい」
アイリスは、制服のスカートをぎゅっと握りました。
「昔、近所にいた子です」
「近所」
「はい。あたしが小さい頃、平民街で一緒に遊んでいました。あんまり喋らない子だったけど、魔法のことになるとすごく集中して」
そこで、アイリスはいったん言葉を止めました。
「でも、ある日、急にいなくなって」
「ダンクステン家へ引き取られた」
「……たぶん、そうです」
アイリスは唇を噛みました。
「あたし、その時はよくわからなくて。大きなお家の人が来て、フッケルはすごい魔法の才能があるんだって言われて。よかったねって、言った気がします」
よかったね。その言葉が、風のない中庭に落ちました。
アイリスは、うつむいたまま続けます。
「でも、フッケル、全然嬉しそうじゃなかったんです」
私は黙っていました。
「あたし、何もわかってなかったんだと思います」
アイリスの声は、少し震えていました。
「あの時は、よかったねって言いました。でも、今会ったら、大変だったねって言っちゃうかもしれません」
彼女はそこで、ぎゅっと口を結びました。
「でも、それじゃ駄目なんですよね」
私はアイリスを見ました。初日の彼女なら、ここで「かわいそう」と言ったかもしれません。
でも、今は言いませんでした。
かわいそう。大変だったね。よかったね。
そのどれも、相手を見ずに言えば、刃になる。アイリスは、それを少しだけ感じ始めている。
「アイリスさん」
「はい」
「あなたは今、言葉を止めましたわね」
「え?」
「言ってしまう前に、考えた」
アイリスは、ぱちぱちと瞬きをしました。
「それは、よいことです」
「よいこと、ですか?」
「ええ。とても」
アイリスの顔が、少しだけ明るくなりました。けれど、すぐにまた不安そうに曇ります。
「でも、フッケル、元気なんですか」
私はすぐに答えられませんでした。
元気。元気だったでしょうか。
彼は静かで、警戒していて、折れてはいないけれど、決して楽そうではありませんでした。でも、それを私が決めていいのでしょうか。
「元気かどうかは、わたくしが決めることではありませんわ」
私は静かに言いました。
アイリスが顔を上げます。
「ただ、彼は魔法式を書いていました。とても美しい式でした」
「美しい……」
「ええ」
アイリスは、少しだけ笑いました。泣きそうな顔で。
「そっか。まだ、書いてるんだ」
「アイリスさん」
「あ、すみません。あたし、また勝手に」
「いいえ」
私は首を横に振りました。
「今の言葉は、決めつけではありません。あなたが覚えているフッケルさんの話です」
アイリスは瞬きしました。
「そう、ですか?」
「ええ」
「じゃあ、話してもいいんですか」
「話してよいかどうかは、内容によりますわ」
「あっ、はい」
「ただし」
私は少しだけ声を和らげました。
「彼のことを話す時は、少し慎重になった方がよいと思いますわ」
アイリスは、真剣な顔でうなずきました。
「はい。勝手に、かわいそうって思わないようにします」
その言葉に、私は少しだけ目を細めました。
初日のアイリスなら、きっとそこで止まれなかったでしょう。
「あの時は、本当にすみませんでした」
「責めているのではありません」
「でも、覚えてます。あたし、フライト様にも言っちゃいました」
「ええ」
「……相手を見ないで、言葉だけ先に出してました」
私は黙りました。
アイリスは、制服の胸元をぎゅっと握ります。
「心配してるつもりでした。でも、フライト様がどう思うか、ちゃんと聞いてなかったです」
「そう気づけたなら、次は止まれますわ」
アイリスは、ゆっくりとうなずきました。
「はい。気をつけます。フッケルにも」
そこで彼女は、また少し考えました。
「……いえ。フッケルが話したくなるまで、待ちます」
「ええ」
私はうなずきました。
「今は、それで十分ですわ」
アイリスは、ほっとしたように息を吐きました。
眩しい。相変わらず、まっすぐ眩しい。けれど、初日に感じたような、輪郭を消してしまう眩しさとは少し違いました。
少なくとも今のアイリスは、相手の言葉を聞こうとしている。それは、小さな変化です。良い変化。友情エンドへ向けて、順調。そう思った時。
私の鞄の中で、ときめきブックがかすかに震えました。
まさか。恐る恐る取り出すと、ときめきブックの表紙に金の文字が浮かんでいました。
アイリス・ホワイスのページに追記があります。
「……なぜ」
「フライト様?」
アイリスが首を傾げます。
私は本を閉じました。
「何でもありません」
「でも、今、本が」
「何でもありません」
「はい」
けれど、私は内心で頭を抱えていました。
今、進めたいのはフッケルのページです。もちろん、アイリス友情エンドも大切です。大切ですが、今はフッケル救済計画の話をしていたのです。
ときめきブック。あなた、本当に私の計画を理解していますか。
好感度は教えてくれない。予定通りにも進まない。そして、開いてほしいページほど開かない。
私は深く息を吐きました。
アイリスが、不安そうにこちらを見ています。
私は微笑みました。完璧に。
「アイリスさん」
「はい」
「もしフッケルさんと会うことがあっても、今のように一度立ち止まってくださいませ」
「はい」
「それで十分です」
答えてから、少しだけ胸が痛みました。
私こそ、それができるでしょうか。ページの進め方を知っているつもりの私が。
「フライト様」
「何でしょう」
「フライト様も、フッケルを助けたいんですか」
私は、少しだけ目を伏せました。
「ええ」
「じゃあ、一緒に助けますか?」
まっすぐな言葉でした。
けれど、アイリスはすぐに「あ」と小さく声を漏らしました。
「……違う。今の、また少し急ぎすぎました」
私は黙って、続きを待ちました。
アイリスは自分の言葉を探すように、胸の前で指を握ります。
「助けるって、あたしが勝手に決めることじゃないんですよね」
「ええ」
「じゃあ……フッケルが話したくなった時に、聞ける場所にいる。まずは、それでいいですか」
その言葉に、私は少しだけ息を止めました。私が言おうとしていたことを、アイリスが自分で選びました。
「ええ。それがよいと思いますわ」
「はい。あたし、待ちます」
待つ。
その言葉が、私の胸にも静かに落ちました。
私にも、それができるでしょうか。
フッケル救済計画。
開始一日目。
予定通りではありません。
けれど、アイリスのページには追記がありました。
フッケルのページは、まだ開きません。
閉じたままのときめきブックは、今日も何も教えてくれませんでした。




