第1話 10歳の私(わたくし)、前世を思い出しました
私、フライト・ブラックが前世の記憶を思い出したのは、10歳の春のことでした。
きっかけは、風です。
正確には、ブラック公爵家の庭園をたいへん見事に荒らした、制御不能の風でした。
王都から離れた公爵領の別邸。
療養のため、私は幼い頃からこの地で過ごすことが多くありました。
ブラック公爵家は、アクチイド王国でも指折りの名門です。
たびたび王妃を輩出してきた家系であり、ニケル・アクチイド王太子殿下の祖母も、私の大叔母にあたる元王妃です。
私とニケル殿下の婚約は、生まれた時から家同士に認められていました。
ただし、私は幼い頃から身体が弱く、王都での社交や王宮行事を控えていました。
闇属性の魔力が強すぎて、身体が追いつかなかったのです。
ですから、婚約者であるニケル殿下とは、まだ正式にお会いしたことがありません。
その代わり、私はこの別邸で、隣接するパラジム辺境伯領の令息、カリウス・パラジムと顔を合わせる機会が多くありました。
幼馴染。そう呼んでも差し支えない距離です。
そのカリウスが、今、庭園の中央で青ざめていました。
白い石畳には、水が叩きつけられた跡が飛沫のように広がり、
薔薇の枝は引き裂かれたように折れ、尖った断面をさらして散らばっていました。
空中では花びらだけでなく小枝まで巻き上がり、目に見えぬ刃のような風が、なお庭園を荒れ狂っていました。
風属性の魔力が暴走したのです。
「申し訳ありません、フライト様! カリウス様は、まだ魔力制御が不安定で……!」
パラジム家の使用人の声が震えています。
私は、風が巻き起こる中、目の前の少年を見ました。
カリウス・パラジム。
その名前を認識した瞬間、頭の奥で何かがはじけました。
風属性。
辺境伯令息。
幼馴染枠。
攻略対象者。
魔力暴走イベント。
ここで否定されると、彼は自分の風を嫌うようになる。
そして、私は思い出したのです。
前世の私は、鈴木すみれという名前でした。
すみれが15歳の頃に父が再婚し、継母と継母の連れ子のあやめが来ました。
あやめはすみれと同じ年でした。
継母は父がいる時には普通でしたが、父がいない時にはすみれをいないものとして扱いました。
殴られたわけではありません。
食事を抜かれたわけでもありません。
学校へ行けなかったわけでもありません。
家はありました。父もいました。お金にも困っていませんでした。
だから、周囲には説明しづらい不幸でした。大したことではないと言われれば、そうかもしれません。
けれど、15歳からあの家に私の居場所はありませんでした。
義姉妹のあやめは、すみれをいじめませんでした。無視もしませんでした。
むしろ、継母のいない時には積極的に話しかけてくれたりもしました。
ただ時折、あやめにはすみれを「かわいそうな子」と見ているようなそんな空気がありました。
決して口には出しません。でも、そういう目をしていました。
すみれは、その目が大嫌いでした。
怒るほどの悪意ではない。責めるほどの加害でもない。でも、対等ではない。
だから、余計に嫌だったのです。
すみれは、それを誰かに訴えるほど素直ではありませんでした。
悲劇の主人公ぶるほど、無邪気でもありませんでした。
そんなすみれが出会ったゲーム『ときめきブック』。すみれはそのゲームにはまりました。
悪役令嬢フライト・ブラックが主人公のざまあ系乙女ゲーム。
『ときめきブック』のゲーム画面には、いつも一冊の本がありました。
革張りの表紙に、金の文字。ページをめくるたび、出会った相手との記録が増えていく魔導書。
攻略対象と出会えば、その人のページが開く。イベントを進めれば、文章が増える。
魔力共鳴が深まれば、挿絵が加わる。エンディングを迎えれば、その人物の章が完成する。
それが、ゲーム内アイテムとしての 【ときめきブック】 でした。
カリウスのページ。ティタンのページ。ニケル殿下のページ。スイのページ。フッケルのページ。
そして、アイリスとの友情ページ。
このゲームに、バッドエンドはありません。
どのルートでも、最後には必ず誰かがフライトをかばいます。
フライトは断罪劇を乗り越え、救われます。
ずいぶん都合のいいご都合主義ゲームです。
でも、すみれはその都合のよさが好きでした。現実のことを、その時だけは考えずにすむから。
特に好きだったのは、フッケル・ダンクステンのページ。
家に道具として引き取られた、闇属性の天才。家庭環境が複雑で、居場所がない少年。
すみれは彼のページを何度も開きました。
何度も何度も。
それから、アイリス・ホワイス。平民出身の光属性。『ときめきブック』に出てくる、いわゆるヒロイン枠、ざまあされる側の少女。
【アイリス】はすみれの世界でいうとあやめの花。
アイリスは悪人というほどではありません。けれど、友情エンド以外では結果的にフライトを陥れた者として学園を去ります。
すみれは、その展開にも少しだけ救われていました。あやめと同じ名前の子が、最後には「かわいそうな子」になる。それが気持ちよかったのかもしれません。
すみれはそんなに完璧な子ではなかったのでしょう。
そこまで思い出して、私は息を吐きました。
目の前には、10歳のカリウス・パラジムがいます。
怯えた顔。震える手。自分の風を怖がっている少年。
そして、私にはフライト・ブラックとしての記憶もあります。さきほどまで、私は確かにフライトとして生きていました。
公爵令嬢として礼儀を学び、魔法を学び、次期王妃候補としてふさわしくあるよう育てられてきました。
誰が何を望んでいるのか。どの言葉が場を動かすのか。何を言えば、後々まで尾を引くのか。
幼い頃から、そういうものを読む訓練を受けてきました。
そこに今、鈴木すみれの記憶が流れ込んだ。
フライトが消えたわけではありません。すみれが乗っ取ったわけでもありません。ただ、私は思い出したのです。この世界を知っていることを。
そして結論を出しました。
このゲーム楽勝ですね。




