Poison(4)
受け身を取るのも忘れたまま投げ飛ばされたミィナは、着地と同時にしばらく気を失った。
次に目を覚ました時は、ミシェールに助け起こされた時。アンネリーゼはどこだと探すと、場外に弾き飛ばされていた。兜を小脇に抱えた彼女を見ると、口元とその左手は血で真っ赤に汚れている。しかしその目は戦意と興奮にらんらんと輝いており、獲物を見つけた飢狼のような表情をしていた。あとで聞いた話によれば、腹にミシェールの一撃を受けたアンネリーゼは場外へ逃れると兜を脱ぎ大量に血を吐いたそうだが、その後が凄まじい。イズモラが持ってきたきれいなバケツに血を吐いた彼女は医療魔法を自身に施したあと、2リットルはあろうかというそれをその場で飲み干したのだそうだ。
そしてただ独り無傷のべルキナは複雑な色の目で、自分のコーナーに静かにたたずんでいる。
どれくらい自分は気を失っていたのかとミシェールに問えば、なんと30秒も経っており、ミィナは愕然とした。
「競技者、元の位置に」
闘技場中央へ立ったヤナギダが、よく通る声を発した。競技者たちはそれに従う。
「只今の競技中断について説明を行う。競技者アンネリーゼは競技者ミシェールの打突によって、内臓破裂、ああ、胃壁および胃上部環状動脈破裂の致命傷を被った。通常ならばアレ・ダ・ビテにより競技者アンネリーゼ、反則攻撃により競技者ミシェールは競技脱落となるが、アンネリーゼ自身が施した緊急医療措置により競技再開が可能となった。したがって、今回は減点措置を行い、競技を再開する。中断中の意識喪失については、考慮しない。競技者アンネリーゼ、防具を外したことと闘技場外への脱出により減点30。競技者ミシェール、危険行為により減点30。全員、異論無いか」
競技者たちはみな一様に頷いた。当然ミィナは内心では冷や汗をかいていたが、なんとかそれは表に出さずに済んでいた。
競技者たちを見てヤナギダは厳かに頷くと、闘技場の東西と北にを囲む審判員席に目を向けた。
北のエドゥアルド、東のパヴェル、西のチョウもそれぞれ頷く。
ヤナギダは南の自分の席へと戻ると、張りのある声で競技再開を告げた。
「はじめ!」
ミィナたちはすぐさまアンネリーゼに飛びかかったりはしなかった。
身体強化系の加護魔法も使わずにミィナを投げ飛ばしたアンネリーゼに警戒したこともさることながら、何と言っても満足に戦えないはずのベルキナが闘技場のほぼど真ん中でどっしりと構えているからだ。
普段は非常に活発なくせにのんきで、すこしとぼけた風情のあるベルキナだが、戦う時はそういった印象は消え失せる。さざなみ1つ立たない地底の湖のように、あるいは月も星も見えない闇夜のように、ただ”ある”だけで人の心を奪うかのような存在感を示していた。
その恐ろしく静かな圧力に気圧され、ミィナとミシェールは蛇に睨まれた蛙のようにたじろぐことすらできなかった。
静寂があたりを包む。
しかしその空気を読まないものが一人いる。
「どうしたの? かかってきなよ」
アンネリーゼは己の血に汚れたままの歯をむき出しにして、ミィナとミシェールを挑発した。
彼女は隙だらけの立ち姿でミィナとミシェールを順繰りに見やったが、ミィナたちがかかってこないと悟ると心底呆れたという表情を見せて天を仰いだ。
それからゆっくりと膝に手をつき、足元の模擬刀を拾い上げる。
「やれやれ、どっこいしょ……さっきの一撃はすごく良かったのになぁ。まぐれだったのかな? つまんないの」
「アンネ」
「なぁに、ベルキナ」
「そうやってすぐに相手を侮ったり挑発したりするのは君の悪い癖だ」
重々しい口調のベルキナに注意されても、アンネリーゼは軽く肩をすくませただけだった。
これにはさすがにべルキナも苦笑を返すしかない。
その瞬間に重々しい空気は消え失せ、ミシェールはベルキナに後ろ手で、ミィナは連続してアンネリーゼに鋭い突きを入れた。もちろんどちらも軽くいなされる。ミィナたちは合流すると背中合わせに立ち、素早く身構えた。
得たりとばかりに追撃すべく飛び出しかけたアンネリーゼだったが、慌てて場外になるギリギリまで飛び退いた。先ほどまでの余裕の表情は消え失せ、全身に緊張を張り巡らしている。顔面には大量の脂汗。膝を地に付けんばかりに低く前かがみに構えたその姿勢は、まるで本当の獣だ。むき出しにした歯の間からは、狼のようなうなり声が漏れだしている。ただ、喜びをにじませる目元にだけ知性が見え隠れしていた。
そのアンネリーゼを見てあきれた声を出すべルキナ。
「だから言ったじゃないか、アンネ。あのまま飛び出していたらやられていたよ」
「うん。すごい。すごいね! さっすがべルキナのあとを継いだだけはある!! 実戦だったら左肩から入って心臓と肝臓を割られてた! すっごいなぁ、聖法王国じゃここまでの使い手、居るには居たけど会うこともできなかったからなぁ」
狼のように身構えたまま喜悦をあらわにするアンネリーゼの視線の先には、アンネリーゼにもべルキナにも対応できるように半身にゆったりと構えたミシェールがいた。
その表情は無表情を通り越し、半目に開いたその目からは何もうかがうことはできない。しかし、その手に持つ棒の両端から恐ろしく鋭い殺気が素人でもはっきり分かるほど迸っている。
エドゥアルドやヤナギダたち審判員や、旗本衆でも腕に覚えのあるものはこれに素直に感心して、ほうとため息めいた声を漏らした。面白いのは犬耳メイド姉妹たちで、救護所に詰めていたリヴニィは縮み上がり、傍らのイズモラは目を細めて腕組みをした。上屋敷で仕事に勤しんでいたドゥーシュなど、現場を見れないのに手を休めて中庭のほうを見たという。
「すいません、ミシェールさん。生意気言ってしまって。申し訳ありませんでした」
「どうということはない。君の奇策とフェイントにしてやられたのは事実だ。訓練内容を見直さないといけないな」
油断なく構えながらもほがらかに謝罪するアンネリーゼに、ミシェールもつられて僅かに笑みの混じった声音で返答した。じり、とほんのごく僅かに左回りに後退してベルキナを牽制する。
「お、気づいたのかい?」
「ええ、ベルキナ姉様。ようやく、ですが」
「いいさ、学ぶ機会はいくらでもある」
べルキナはにっこりすると、左回りにすり足で旋回をはじめた。その誘いに乗り、べルキナに向き直ったミシェールは背中越しにアンネリーゼとミィナに語り掛けた。
「ミィナ、私たちの作戦は破棄だ。この場で学び、勝ちをもぎ取るしかない。アンネリーゼ君、作戦では君の勝ちだ。私の技に興味を持ってもらったところで誠に残念だが、まずはミィナの相手をしてくれたまえ」
「ありがとうございます。またの機会がありましたら、ぜひ」
「こちらこそ」
ミシェールはにっこりとすると如何にもベルキナ姉様の好きそうな子ですね、と言いながらさくさくと芝生を踏んでアンネリーゼとミィナから距離を取った。ベルキナに君がそんなふうに笑うのはとても珍しいなとからかわれると、できればベルキナ姉様に独り占めしてほしかったのですけれど、などと言う。それを受けてベルキナは痛ましいような表情でそうか、とつぶやき、それから二人は静かに絡み合うように、互いの周囲を旋回し始めた。
「さて、それじゃあこっちもやろうか、ミィナ」
「ん」
これまでの3人のやり取りには口を出そうにも出せなかったミィナだが、アンネリーゼの誘いには即座に応じた。
たっぷり7歩はあった間合いをただの一足で詰め寄り、激しく斬りつける。常人には知覚できない素早さだ。それもあっさりと防がれるが、腕力で押し込む。普段冷静沈着な彼女には珍しいことだと言えた。自分を一度投げ飛ばしたことで、アンネリーゼの態度がやたらと気安くなったことが影響していないと言えば嘘になる。
体格と筋力に劣るアンネリーゼはたまらずたたらを踏んで後退した。ミィナの2本の銃剣で鍔元を押さえこまれる。が、その瞬間にまたもミィナは宙を舞った。腹にアンネリーゼの後ろ回し蹴りを食らうが、辛うじてガードしている。3mほども弾き飛ばされたミィナは宙で身を翻し、滑りながら着地した。
眼前に迫るアンネリーゼ。その動きはミィナにとってやすやすと躱せるスピードのはずだった。だが躱せない。右袈裟に振り下ろされた一撃はガードしたが、左脚に強烈な回し蹴りをもらいバランスを失う。そのまま肩から突っ込んできたアンネリーゼの体当たりをまともに喰らってしまった。受け身も取れずに吹き飛ばされるミィナ。
「あわわ……」
眼前で繰り広げられる情景に、リヴニィは両手を胸元に寄せてうろたえていた。
あの綺麗で強そうなミィナが何もできずに滅多打ちにされている。とても見れたものではなかった。
そんな彼女に、隣で腕組みをしながら観戦していた妹のイズモラが声をかけた。
「姉さん、落ち着いて」
「で、でも」
「よく見て。心配しなくてもミィナさんはそんなにダメージ受けていないよ」
「ええ?」
「ほほう。やるもんですなぁ」
「どちらがですかね? 1課長さん」
「そりゃアンタ聞くまでもないでしょうが、2課長さん」
ザボスの執務室の来客は僅かな間に増えていた。
公安1課長ミェス・バハマルッキと公安警察特殊戦術部隊司令ヘグルンド、護衛大隊長チェレンコフの3人だ。
そのうちの1人、バハルマッキと公安2課長リッケンバウムは嫌味の応酬を欠かさない。
周りのものはいつものことだと苦笑しているだけ、ということからも彼らの関係性がわかる。つまり彼ららはじゃれあっているのだ。
「ふむ。どういうことか申してみよ。どちらでも良い」
と、そこへザボスが声をかけた。
途端に緊張して並んで立つ二人。バハルマッキはトロル、リッケンバウムはノームであるから極端に背丈が違う。二人は互いに脇腹を突つき合い、お前が言え、いやお前が、と役目を押し付け合う。その滑稽な情景にマンテガッツァは笑みを押し殺した。
そうこうするうちにザボスがしびれを切らし、二人同時に申せと命じ、二人は背筋を伸ばして同時に口を開いた。
それによるとこういうことだ。
まず、ベルキナがまともに動けるのはアンネリーゼの加護魔法によるもの。おそらく体組織強化系と痛覚遮断系を使用している。これらはアンネリーゼが意識を手放すか、魔法の使用を中断するか、魔力と体力の限界に近づくか、もしくは使用期限がくると効力を失う。
ミィナがアンネリーゼに良いようにやられているのは、アンネリーゼの訓練の賜物。聖法王国の教会界騎士はほぼ全員が魔法を使えるが、アンネリーゼたち若手世代は戦場で選別されて生き残ったものたちだ。戦場では当然魔力切れで魔法が使えなくなることもある。ましてや聖法王国の仮想敵は魔王領、想定主敵は身体能力で大幅に勝る魔族共だ。そんな中でも生き残ってこられたということは、加護魔法抜きでも魔族に対抗できる能力があるということ。事実、公安二課や特殊戦術部隊での徒手格闘訓練では加護魔法を使わずに訓練に打ち込む姿が何度となく目撃されている。
そしてこれらを初見で見破らせなかったところにアンネリーゼの才能がある。的確な挑発を重ねて相手の判断力を奪い、ベルキナの速攻を成功させた手腕は大したものだ。
もちろんミィナとミシェールも負けてはいない。
まずミシェールだが、訓練用具でアンネリーゼに瀕死の重傷を追わせた技もさることながら、ベルキナの連撃によるダメージをほぼ受けていないタフさは評価に値する。アンネリーゼにリアルな死を予感させた殺気と技の冴えは言うまでもない。
ミィナにしても素晴らしい。良いように投げ飛ばされ打たれまくっているように見えて、その実まともに食らったのは最初の投げのみ。あとは全て急所を外している。こうなってくると体力で劣るアンネリーゼにやや分が悪い。なにしろミィナはただ耐え続けるだけで勝てるかもしれないのだ。
「もう一つ」
と、マンテガッツァが優雅に割り込んだ。艶然と微笑む。
「ミィナには隠し玉がございます」




