近すぎる距離
それは、少し前のこと。
コレットが初めて担任として挨拶をして、教室で神の力が振るわれそうになった、次の日のことだった。
「少しよいかな、ネーベック先生」
「わたくしに? はい、なんでしょうか」
話しかけてきたのは、同僚の数学教師、ペルーゼン・ラドフォードだった。
周りを見渡してから切り出すところを見るに、他に人がいないことを見計らっていたらしい。
「先日のこと、報告を受けましてな。お心当たりがあるとは思いますが」
途端、コレットの身体が強張った。
「王女殿下に敬意を払うのは結構。しかし、特別扱いはよくありません」
「……特別扱い、でございましょうか」
王族への礼を教えることは、学院の規律を整えることでもある。
そう言い返したい気持ちが、コレットの胸に浮かぶ。
しかし、自分の態度が教室に緊張を生んだことを思えば、即座に言葉にすることはできなかった。
「そして生活魔法を軽んじすぎるのもよくない。わからないでもないが、露骨に過ぎる」
「……そのようなつもりはございません」
「総じて、あなたは生徒を平等に見る姿勢に欠けている、と言わざるを得ません」
「しかし、規律を守るためには、立場に応じた礼節も必要かと存じます」
「規律とおっしゃるが。贔屓が過ぎれば、そこに不満を持つ生徒も現れましょう。そうなれば規律の崩壊に繋がりかねません。おわかりか?」
「…………」
敬意を贔屓と見られ、コレットは不本意な思いを抱いた。
黙って俯いてしまったコレットに、今回はここまでか、と引き下がることにしたペルーゼンだった。
「それでは、お願いいたしますぞ」
コレットは、それに明確に答えられなかった。
それをわかっていたのか、ペルーゼンは足早に歩き去った。
間違っているつもりは、なかった。
それでも、言い返せなかった言葉が、胸の奥で行き場を失っていた。
しかしコレットの脳裏に刻まれていたのは、王女殿下の御力をまざまざと思い出させる、威厳ある姿だった。
あの力を、ただ教室の一席に収めてよいのだろうか。
王国が長く待ち望んだものを前にして、学院は本当に、他の生徒と同じ扱いを求めるだけでよいのか。
そう考えるたび、胸の奥がざわめいた。
幼いころ、雲にまします母なる雷へ祈っていた母の背中が、ふと脳裏をよぎる。
すがるものがなければ耐えられない痛みが、この世にはあるのだと、コレットは知っていた。
それが敬意なのか、使命感なのか、コレット自身にもまだ判然としない。
ただ、このまま何もせずにいてよいのか、という思いだけが、日に日に輪郭を強めていた。
――そんな記憶と迷いが、折に触れて噴き上がってくる。
そして、その迷いが表に出ていたのか、赤い髪の男子生徒が近づいてきたのだった。
「差し出がましいようですが、私も少し、気にかかっていることがございます」
その時はどういうことかと思ったが、幾度か会話を重ねるうちに、彼の意図ははっきりしつつあった。
だから頷ける部分もあったが、そればかりでもない。
「殿下が本当に一生徒として扱われることを望まれているのか。一度、学院の務めの中で確かめてみる必要があるのではありませんか」
「……務め、ですか」
「ええ。それに、そのような交流の積み重ねこそが、いずれ殿下の信を得ることにも繋がりましょうし」
確かに、とコレットは頷いた。
王女殿下が一生徒として振る舞おうとなさるなら、教師である自分もまた、その務めを果たさねばならない。
ただし、それは殿下の御身に相応しい形でなければならない。
コレットには、そう思えたのだった。
そして時は少し進む。
初めてのことばかりで戸惑っていた時期を抜け、やっと自分なりのペースが掴めてきたころ。
学院に点在する緑が色を深め、同じように人間関係にも濃淡が見えてくるようになる。
それは登校風景にも表れている。
以前はばらばらだった生徒たちが何人かのグループとなり、交わす挨拶にも情がこもる。
「おはよう」
「おはようございます、フェルネス嬢」
「おはようございます、王女殿下、アルヴェイン殿」
この挨拶にもそんな情を期待してよいのだろうか、とクラウディアはふと思う。
そして早計か、と内心で否定するのである。
王女殿下が真ん中。
その左を執事の少年がわずかに先行し、右後ろを自分が歩く。
そんな朝にも慣れてきた。
「――相も変わらず麗しい」
「――見ろよ、王女殿下ご一行様だ」
「――やめとけ、落ちるぞ――あれが」
という囁きには、慣れそうにはないけれど。
自分まで遠巻きにされている現状に、疎外感より呆れが勝る。
いっそ睨み返してやろうか、という思いがよぎり、柄ではないか、と打ち消す。
なにより、当の本人が気にするそぶりもなく、執事も特に言及しないのだし。
いや、当の本人が気にしているのは執事だけ、と言った方が正しいか。
ちらりと顔を向け、セドリックの姿を確かめる。
そして安心したように前を向く、という様子が度々見られる。
その動きに執事本人は気づいておらず、おそらく知っているのは自分だけ。
そんな小さな秘密ができるくらいには、一緒に行動している。
「覚えるも覚えないもお好きになされよ。後の点数に反映されるだけのこと、私は一向に困らん」
数学教師ペルーゼン・ラドフォードの、突き放したような締めで終わった授業。
最初は反発していた生徒たちも、それが普段の口調だとわかると、いつの間にか慣れてしまっていた。
だから今では、反発は授業終わりの気怠い空気へ変わるだけで、それぞれが自然に話題を切り出していった。
そんな空気の中、ペルーゼンと入れ替わるように教室に入ってきたのは、担任のコレットだった。
彼女は階段状の教室を上がってくると、最奥の席の前で足を止めた。
以前と変わらぬ敬意はその瞳にあったが、声は努めて担任らしく整えられている。
「王女殿下、フェルネス嬢。少しお時間、よろしいでしょうか」
「はい、なんでしょうか」
「……はい」
すぐさま席を立ったクラウディアと違い、ブリジッタの反応は緩慢だった。
残念ながら、教師陣の呼び方は、いまだ「王女殿下」から改まっていない。
仕方のないこと、と半ば諦めながらも、納得のいかなさが返答の遅れに繋がった。
「次の授業準備について、日直のお二方にお願いしたいことがあります」
そう言われ、セドリックは立ち上がりかけた動きを止めるしかなかった。
「次の授業で使用する教材を、保管室から運んでいただきたいのです」
そうして、コレットの頭は自然に下がる。
「これも、生徒の務めの一つです。王女殿下にも、学院では同じように経験していただければと存じます」
クラウディアは、王女殿下の喉が動くのを見た。
表情は動いていないのに、重い何かを飲み込んだような動作だった。
「セドリック、行ってくる」
「はい、お気をつけくださいませ」
自分一人で済ませようとクラウディアが口を開く前に、その会話は交わされた。
単なる主従のやり取り。
なのに、それが重苦しい儀式のように見えて、クラウディアは素直に頷けなかった。
「ありがとうございます。それでは、こちらへ――」
コレットが先導して、身を翻す。
その姿は、クラウディアの胸の奥に、小さな違和感を抱かせた。
ブリジッタの背中に続こうとして、ふと、セドリックと目が合う。
そして、以前に頼まれたことを思い出した。
その時と同じように、何ができるかはわからないけれど。
クラウディアは小さな頷きをセドリックに返して、ブリジッタの後を追いかけた。
主の背中を見送ったセドリックは、居心地の悪さを感じて席を立った。
幸い、次の授業まで時間はある。
少し散策しようと思い、廊下に出て歩く。
思い浮かぶのはブリジッタのことだった。
クラウディアがついてくれている、という事実が多少なりとも足取りを軽くはする。
けれど、普段の距離の近さを思い返し、その姿がないことに寂しさを覚えて苦笑した。
中庭で弁当を広げるのによさそうな一角を見つけ、ここに誘ってみようか、とふと思う。
今はひとけのないその一角へ近づこうと足を向けた時、その声は聞こえてきた。
「何をするか、貴様!」
「いてっ!?」
声は、中庭と廊下を区切る壁の裏側からだった。
セドリックが覗き込むと、そこには胸倉を掴まれて壁に押しつけられている、茶色の髪の男子生徒がいた。
胸倉を掴んでいるのは男子生徒二人組の片方だったが、二人とも肩を怒らせているのが見て取れた。
しかし、対する茶色の髪の生徒は、鼻を鳴らして相手にしない。
「辟易してた女の子を逃がしただけだろ。文句なら、あんたらの下手なエスコートのほうに言いな」
「貴様ぁ!」
急所を突かれたのか、激情のまま、相手は手に炎を生み出した。
まずい、と思った時には、もうセドリックの指先はその炎に向いていた。
目に見えない魔力の糸が伸びる。
そしてその糸は炎に纏わりつき、次の瞬間、裁断するように散らす。
制御を失い、消えた炎を呆然と見つめる彼らを置いて、セドリックは壁の影に叫んだ。
「先生、こっちです! 早く!」
ついでに手招きの動作も添えた。
「くっ、訳がわからない……ああ、くそ! 次はないからな!」
状況の悪さを悟って、二人組は逃げ出した。
セドリックは安堵のため息をつくと、踵を返す。
「いや、待てよ。礼くらい言わせろよ」
歩き出そうとしたところで、肩を掴まれた。
振り返ると、純朴そうな顔が不満げに染まっていた。
「……ありがとよ。あのままだったら、ぶん殴ってたところだった」
「……それは、止めて正解だったね」
セドリックが身体を向けると、肩から彼の手が離れる。
魔法を放つことも論外だが、拳を振るっても同じことである。
叱責では済まなかっただろうし、さすがにセドリックから苦笑が零れた。
それを受けて、茶色の髪の男子生徒の目つきは、セドリックを見定めるようなものに変わった。
「……あんたは、あいつらとは違う感じなんだな」
「……それはどうも?」
セドリックは反応に困った。
それで自分が失礼なことをしていたと気づいたのか、彼はばつが悪そうに頭をかいた。
「悪い、こちとら平民上がりなもんでな。つい警戒しちまうんだ」
その言葉には、さすがにセドリックも反応を選び損ねた。
しかし、待ってはもらえなかった。
「ちと用事があるんで、これでな。また会ったら、その時はよろしくしてくれ」
「あ、うん」
「それと――目立ってるぜ、あんた。気をつけなよ」
その生徒は、最後までセドリックを戸惑わせて中庭から駆け去った。
ぽつん、と取り残されたセドリックは、知らず溜めていた息を吐き出す。
そうして、男子生徒が消えた方向とは逆側、壁の裏にある気配を窺った。
「――それで、何か御用でしょうか」
「――なに。交流を拝見していただけだ」
そこから現れたのはミハエルであった。
彼は、鮮やかな赤い髪の下、薄い笑みを浮かべている。
「それと、なかなか知恵が回るところを少し……ね。さすが、王女殿下に次ぐ才をお持ちだ、というところか」
「よくある手かと。うまくいって、ほっとしております」
「なるほど。それで――なにをした?」
ミハエルの声は、詰問の調子だった。
「何のことでしょうか?」
「あの炎だ。私には、君があれを打ち消したように見えたが?」
「ご冗談を」
ミハエルの返答は、沈黙であった。
それを見て取って、セドリックは一礼した。
「お騒がせいたしました。それでは、失礼いたします」
立ち去るセドリックを、無言で見送るミハエル。
その視線は睨みつけるようであり、また――羨望がこもっていた。
コレットに先導され、別棟へ向かう道すがら、クラウディアは妙な違和感に包まれた。
ちらり、と見渡して、すぐその正体に気づく。
黒髪の少年の姿がないからだ。
自分でさえ違和感を覚えるのに、日頃から彼を頼りにしている本人はどうなのか。
そっと窺ったその背中に陰りはない――ように見える。
案内されたのは、授業で使う教材を保管している、倉庫のような一室だった。
「――申し訳ありません、このようなところに足をお運びいただき」
「……私は一生徒」
たまりかねて頭を垂れるコレットに、冷ややかな声で応じる王女。
クラウディアはその声にかすかな苛立ちを感じて、つい背筋を伸ばしてしまう。
そして、その冷たさをもっとも感じているのはコレットだっただろう。
「……こ、これらをお願いいたします。棚番号と教材名は、こちらに記してございます」
コレットはクラウディアにメモを差し出した。
「わたくしは次の準備がございますので、少し席を外します。終わりましたら、教室までお持ちくださいませ」
クラウディアの目にも、それがかろうじて教師として整えた段取りなのだとわかった。
そして、礼をして身を翻すその動きは、わずかに急いていた。
クラウディアが声をかける暇もなく、コレットは廊下の向こうへ姿を消した。
ため息をついてメモを確認すると、同じくブリジッタもそれを覗き込んでくる。
棚に振られた番号と、教材の名前が列挙されているので、作業に支障はなさそうだ。
ブリジッタはわずかに首を傾げた。
「……探して教室に持っていくってことかな」
そして見上げてくる様子は、何かをねだるようだった。
「な、なぜそこまで?」
クラウディアが感じたのは、可愛げではなく、どこか切羽詰まった気配だった。
だから未整理のまま、言葉が出てしまった。
自分の姿勢に気づいたのか、ブリジッタの視線がさまよう。
その視線が落ち着いた先は、歩いてきた廊下だった。
「――そんな立場ではいられない、なんてことはわかってる」
そこに何を見ているのか、クラウディアにはわからない。
「でも、ただの一生徒なら、私はそばにいられる。その間だけは、ただの。……ただの――」
それ以上の言葉は、静かに閉じた目と唇にせき止められた。
きっとクラウディアは、何かの片鱗に触れた。
しかしそれが何かはわからない。
だからクラウディアができたのは、望む通りに作業の分担を提案することだけだった。
「……王女殿下。半分を、お願いしてよろしいでしょうか」
「わかった」
クラウディアが判断した通り、ブリジッタはこくり、と素直に頷いた。
そうして、室内で二手に分かれる。
クラウディアは念のため、王女殿下とつかず離れずの距離を保ち、目的のものを探し出していく。
向こうも同じようで、さほど迷いもない振る舞いにクラウディアは安堵した。
目当ての教材で両手が塞がりそうになったところで、一息つく。
そうして、ふと目をやると、動きを止めている王女殿下に気がついた。
だらり、と手を下げているその後ろ姿を疑問に思い、手にしたものを近くの棚へ置いた。
そうして近づこうとしたとき、声が聞こえた。
「セド、これで合って――」
ブリジッタの手が、誰かの袖を掴むように持ち上がり、空を切る。
持ち上げた手を見つめる眼差しが、呆然と揺れる。
何も掴めなかった指先が震えだす。
顔を覆った手の隙間から、苦しげな声が漏れる。
「――違う」
その背は、頼りなく揺れる。
「……セドは別の場所にいるだけ。私が用事でここにいるだけ。だから、何もおかしくない。――セドは、どこにも行ってない」
呼吸は浅く乱れ、丸くなる背が何かを押さえつけているようだった。
クラウディアは、声をかけようか迷った。
自分まで息苦しくなりながら、さらに迷う。
しかし、そんなクラウディアの目の前で、ブリジッタは徐々に背筋を伸ばしていき、息を整えていく。
そして、顔を覆っていた手を下ろして、作業に戻っていった。
クラウディアは、気づかれぬようにそっと後ろに下がって、棚の後ろに回る。
そして呼吸を落ち着けると、今そこから現れたふりをして、声をかけた。
「王女殿下? そちらはどのような感じでしょうか?」
「もう少しで終わる。だから――大丈夫」
その返事に何と答えたか。
クラウディアは、後からいくら振り返っても思い出せなかった。
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