ただ、そばに
クラウディアは、静かな馬車の揺れに身を任せながら、もはや懐かしいその時のことを思い返していた。
――それは、入学後、数日経ってからの一人きりの帰り道だった。
ふと背後に人の気配を感じたと思ったら、視界が暗くなって、身体が持ち上がった。
次の瞬間にはどこかへ横たえられた。
そこは馬車だったのだろう、やがて静かに動き出した。
その時は当然、どうなってしまうのか、と恐怖に身を竦めたものだった。
危害を加える意図はない、と何度も説明されてようやく落ち着けた。
結局、それは監視の依頼主のもとへ、内密に運ばれただけだったのだが。
今も、同じような状況ではある。
思い返せば、あの時は唐突ではあったが、手荒ではなく、痛みも伴わなかった。
丁寧な拘束、などという表現があるかはわからないが、傷つけないようにしていたと思う。
しかし、依頼主の身分を考えれば、それは当然の対応だったのだろう。
これから会う人物のことを考えると身が竦み、手の中に汗が滲む。
そう、今日は監視を託されて以来、二度目となる依頼主との対面だった。
もっとも、それを察したのは、目隠しをされて馬車に乗せられた後のこと。
説明を聞かされて、ようやく理解できたことだった。
そうして、馬車がどこかへ辿り着くと、クラウディアは降ろされ、手を引かれてまたどこかへ向かった。
その間、目隠しで足元がおぼつかないクラウディアは、手を丁寧に引かれていた。
「目隠しを外しますので、そのまま前の扉を開けてお入りください」
そう促され、視界が開ける。
あたりを見渡しても誰もおらず、背後には薄暗い廊下が続いているだけだった。
小さくため息をついて改めて扉に向き直り、ひんやりしたノブに手をかける。
部屋に入り扉を閉めると、客間らしきその場所には、一瞬、誰もいないように見えた。
しかし、視界を巡らせると、窓の外を眺めている人影があった。
待たせてしまっていた。
そう認識したクラウディアは、慌ててスカートの裾をつまみ上げ、深く膝を折って頭を垂れた。
その動きに気づいたのか、窓際に佇んでいた人物は振り返って、柔和な笑みを浮かべた。
「来てくれてありがとう、フェルネス嬢。ああ、楽にしてくれて構わない。直答も許すので、どうか安心してほしい」
「本日はお招きにあずかりまして、誠に光栄でございます。天に寄り添う雲たる王配殿下にお目通りかないましたこと、誠に――」
「ああ、そういうのもいいから」
がちがちになってしまうクラウディア。
それに柔らかく返したのは、ブリジッタの父、オスカー・ヴァルテリア王配殿下だった。
「度々の手荒な手段、誠に申し訳ない」
「……いえ」
「せめてものお詫びに、というわけではないがお茶を淹れたので、腰掛けて少し待っていてくれるかな」
「は、はい」
クラウディアは、かろうじて返事をすることしかできなかった。
来る時間に合わせてお茶の用意までされていては、恐縮が和らぐはずもない。
とは言え、まさしく雲の上の人の言うことに背けるはずもなく、クラウディアはお茶菓子の用意された席についた。
ちょうど湯が沸いたのか、手慣れた手順でお茶が用意され、テーブルに運ばれてきた。
爽やかな香りがかすかに漂い、クラウディアはなんとか落ち着けた。
「どうぞ、遠慮なく」
しばし、ゆるりとしたお茶会の時間が過ぎる。
そうして、オスカーは切り出した。
「まずは、娘の監視役、ありがとう。長い間、すまなかったね」
「……過分なお言葉、痛み入ります」
せっかく落ち着いた心境が、また沈み込むようだった。
それは、長く王女殿下を監視対象として見ていた事実を突きつけるものであり、クラウディアの息を詰まらせる感謝だった。
「それで今日はね。君の口から直接聞きたいことがあって、来てもらった」
申し訳なさそうな表情を前に、クラウディアは少し言葉を待った。
「……あの子は、今後も学院でやっていけそうかい?」
ああ、そうか、とクラウディアはやっと、この監視の意味を知る。
親として、それだけを確認したかったのか。
けれど手紙ではなく、自分の口からそれを聞きたかったのか、と。
クラウディアの胸が詰まった。
質問に込められた感情も、正解もわからない。
ただ、重さだけが伝わってくる。
そして、自分の回答が、王女殿下の今後を左右するかもしれない。
そう思うと、唇が震えて言葉が出てこない。
クラウディアは、それでも答えた。
「はい」
短く、それだけ。
セドリックという支えがあるから、というだけじゃない。
クラウディアは、これまでたくさん見てきたのだ。
引き離され、折れそうになっても、一生懸命にこらえてきた。
ブリジッタが、どれだけ頑張ってきたか。
それをもう知っているから、真っ向からそう言えた。
その真実を、オスカーはクラウディアの瞳に見たのか。
彼は眩しそうに、目を細めた。
「……そうか。そう言ってくれると、父として嬉しい限りだ」
オスカーは頭を下げた。
「感謝を申し上げる。そして、これにて監視役の任を解く。今まで、本当によくやってくれたね」
「……はい」
王配殿下に頭を下げられたが、不思議とクラウディアは慌てることなく、その礼をただ受け取った。
それは高貴な身分の者としてではなく、父としての礼だとわかったからでもあった。
同時に、監視役を下ろされたという事実によって、栓を抜かれたように感情が流れ出したからだった。
そしてその感情は、言葉として溢れ出た。
「それでは私はもう、王女殿下のおそばには、いられないのでしょうか」
思った以上に、胸が締めつけられた。
それに対し、オスカーはたしなめるように言う。
「あの子のそばは、危うい。それは身をもって知ったはず」
「お、お伝えいたします」
何を言い出すのか、とオスカーの顔に意外そうな色が浮かぶ。
クラウディアは、必死に考えを巡らせた。
「お、お気になりませんか。学院での王女殿下のご様子が、どのようなものか――ち、父君として」
それでやっと言いたいことがわかったのか、オスカーが興味深げに目を細める。
「つまり君は、私に交渉を持ち掛けているのかな。娘の成長記録を渡す代わりに、そばにいさせよ、と」
雰囲気は柔らかく、声も穏やかだ。
しかし年齢の差、身分の差、そして経験の差が圧力となって落ちてくる。
それに潰されそうになりながらも、せめて押し出される息を返事に変える。
「――……はい」
オスカーは、笑みを深くした。
「大した胆力だ。学院の内情を探り当てた手腕といい、フェルネス家は取り込んでおくべきかもしれないね」
最後の息を出し切ったクラウディアは、それに何も言えない。
うんうん、とオスカーは小さく頷いた。
「物好きだね、フェルネス嬢は。――なら、お願いするとしようか」
「――ありがとうございます」
それでやっと、クラウディアは呼吸を再開することができた。
そうして思い知る、王配殿下という方の器量を。
柔らかいだけではない、水のように引いては返し、押し流すようだった。
クラウディアは、海面にやっと顔を出し、呼吸ができた心地だった。
「しかし、なぜそうしたいのか、は聞いてもいいかな?」
「……それは」
問われ、クラウディアは考え込んだ。
二人と知り合わなければ、この学院での生活はなんとも味気ないものになっていただろう。
しかしそうではなかった。
一年を振り返ると、自然と笑みが浮かぶ。
もっともそれは、多分に苦笑を含んだものだった。
それに、監視役としての自分を、苦しくさせるものでもあったけれど。
クラウディアは、その感情にやっと名前をつけられた。
「あの方々は、私の大切な友人ですので」
オスカーは、それを嬉しそうに受け入れたのだった。
ああ、これは夢か、とセドリックは思った。
なぜなら自分の手のひらが小さかったから。
そして、目の前の少女は今よりもずっと幼いから。
その少女は涙を流しながら歩いていた。
一目で高価なドレスだとわかるのに、なぜか裸足。
きれいだなあ、と思ったのは、少女の周りを取り巻く、ちかちかした光だった。
自然に手を伸ばすと、光は弾けて、ちくりとした痛みを伝えてくる。
裁縫の時に、間違えて針を刺してしまったみたいだった。
「さわっちゃ、だめ」
少女はまだ、涙をぼろぼろと零しながら訴えかけてきた。
それが聞こえながらも、好奇心を抑えきれずに手を伸ばす。
今度は、手のひらで受け止め、その上で弾けさせることができた。
針の先を、ちゃんと確かめてゆっくり動かすのと同じような要領だった。
ぱちん、ぱちん。
少女を取り巻く光は、喜ぶように次々と寄ってくる。
「あははっ」
それが楽しくて、全部受け止める。
はしゃいでいると、いつの間にか少女と肩が触れ合うような距離に近づいていた。
光が今度は、祝福するように二人を取り巻く。
「……こわく、ないの?」
少女のか細い声。
もう涙は止まっていて、どこか呆然と見つめてくる。
それに、首を傾げて返した。
「どうして? きれいだよ」
「……きれい」
「うん。それで、君の名前は?」
「……ブリジッタ」
「じゃあ、ジッタだ。僕はセドリック」
「……じゃあ、セド?」
「うん、セドだね。よろしく、ジッタ」
そうやって、手を差し出した。
きょとん、として動かない少女。
それがじれったくて、こっちから手を握りに行った。
その小さな手と、別の感情で潤んだその瞳を、セドリックは覚えている。
――それが、ブリジッタに初めて出会った時の記憶。
その懐かしさは、徐々に遠ざかる。
ああ、目覚めようとしているんだな。
そう思ったセドリックは、後頭部と手に柔らかな感触を覚えていた。
そうして目を開いたとき、今のブリジッタの顔が映った。
しかも、ブリジッタの手を握っていることも、夢と同じだった。
「おはよう、セド」
「お、おはよう、ジッタ?」
状況を整理したセドリックは、自分がソファーに横になっていることに気づいた。
そして――ブリジッタに膝枕されていることにも。
「あ、あれ!? どうしてこんなことに!?」
「えい」
咄嗟に身体を起こそうとしたら、胸元に手を添えられて、意外と強い力でその動きを邪魔された。
「いや、どうして?」
「疲れているみたいだし、無理しないで」
「……えっと?」
そう言われて、この部屋でブリジッタを待つうちに、眠ってしまったのだろう、と思い返す。
セドリックの整理が追いついたのを見計らってか、ブリジッタが頷いた。
「だから、横になってもらった」
「なにが『だから』かわからないけど……ありがとう。ゆっくりできたみたいだ」
「よかった」
ブリジッタは頷き、握ったままだったセドリックの手を引き寄せると、その甲に唇を落とした。
そのしぐさがあまりに自然だったので、セドリックの理解が遅れた。
「わあっ!」
「あっ」
セドリックは反射的に手を引っ込め、ブリジッタは名残惜しそうにその手を追いかけた。
その勢いで、ブリジッタはセドリックへ覆いかぶさるような体勢になった。
セドリックの体温が跳ね上がる。
「ジ、ジッタ」
その体勢を直そうと、優しくブリジッタを押しのけようとする。
「セド」
けれど、セドリックは力を抜いた。
ブリジッタの声は、震えていた。
「こわく、なった?」
「ううん」
聞き終えるより先に、答えていた。
間近で顔を上げて覗き込んでくるブリジッタの瞳には、すがるような光が揺れている。
初めて出会った時のような、消え入りそうな気配が、そこにあった。
その不安を和らげたくて、セドリックはブリジッタの頭を撫でる。
「ジッタの雷は、ずっときれいだよ」
「――セド」
嬉しそうに視線を重ねてくる幼馴染の距離感に、不意に恥ずかしさを覚えてセドリックは口にした。
「こ、紅茶を淹れようか?」
「……私がしたい」
そんな返事とともに、遠ざかる体温。
「……じゃあ、お願いしようかな」
セドリックが身体を起こすのを合図に、ブリジッタは立ち上がって壁際の茶器に近づく。
そうして準備を始めるブリジッタの手つきは、ずいぶん様になっているように思えた。
その成果に、ブリジッタのルームメイトになってくれたクラウディアの姿がよぎる。
この一年がどうだったか、その証明が目の前にある。
セドリックは思う。
依存だと言いたいなら、言えばいい。
そして神だと、雷姫だと、人は言う。
けれど、そこに閉じ込めてたまるものか。
手を取り、そばにいたい。
そしてなにより、大事な幼馴染の、ただの少女のそばに在ろう。
いつまでそうしていられるかは、わからない。
けれど最大限、力になろう。
学院は四年。
そして、残りはあと三年。
そう、たった三年しかない。
その思いを、目の前の光景を、心に焼きつけて。
「助けて、セド」
「はいはい」
セドリックは、手順を間違えておろおろしているブリジッタのもとへ行こうと、立ち上がる。
そして、その少女に笑いかけたのだった。
二人の物語は、ここで一旦区切りとなります。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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