鉄錆と黄金の都、フェルゼン
峠の最終コーナーを抜けた瞬間、二人の視界を埋め尽くしたのは、地平線まで続くかのような石造りの海――商業都市フェルゼンだった。
ルミナ村の全ての家を合わせても、この都市の入り口にある一つの監視塔にすら及ばないだろう。中心部には天を突くような黄金の尖塔がそびえ、その周囲を魔導の力で浮遊する大型船がゆっくりと旋回している。しかし、その輝かしい中心部を囲むように広がる「外縁区」は、無数のレンガ造りの建物が歪に重なり合い、上空からは黒い煙が絶え間なく吐き出されていた。
「……あそこが、フェルゼンか。まるで山がそのまま街になったみたいだ」
カイルが呆然と呟く。大百足との死闘を終えたばかりの二人の体は、泥と返り血に汚れ、カイルの背負う「黒鉄の戦斧」も使い込まれた鈍い光を放っている。門をくぐろうとする二人に向けられるのは、活気ある市場の歓迎ではなく、着飾った通行人たちからの「不浄なものを見る」ような冷ややかな視線だった。
街を一歩進むごとに、ユーマの「知力28」は不快なほどの情報を処理し始めた。
石畳の隙間にこびりついた油の匂い、高価な香水の裏に隠された下水の悪臭。そして、何よりも残酷な「数字」の差だ。
(魔法技術の恩恵を受けているのは中心部のごく一部……全体の10%にも満たない。残りの90%はこの過密した外縁区で、搾取されながら生きている。……ここは「都」なんて呼べる場所じゃない。巨大な『選別場』だ)
「……ユーマ、まずは薬だ。おばあちゃんの薬があるっていう『中央薬院』ってところに行こうぜ。あそこにいけば、全部解決するんだろ?」
カイルは希望を捨てるまいと声を弾ませるが、現実はすぐに彼らの前に立ちはだかった。中央区へと続く大通りの入り口。そこには白銀の甲冑に身を包んだ騎士たちが、通行人を厳格に選別していた。
「……止まれ。ここは『清浄区』だ。許可証のない下層民、ましてやそんな血生臭い斧を担いだ野蛮人が通れる場所ではない」
「許可証!? そんなの持ってねえよ! 俺たちは村からおばあちゃんの薬を買いに来たんだ、通してくれ!」
カイルが食ってかかるが、騎士は眉一つ動かさず、腰の剣の柄に手をかけた。その動きは、先日の宿場町の三人組とは比較にならないほど洗練され、無駄がない。ユーマの魔眼が、騎士の装備に刻まれた魔法陣を読み取る。
(……『身体強化』の常時発動。あの一人ひとりが、僕たちよりも高い基礎スペックを持っている。……カイル、引くんだ。ここで騒いでも、一瞬で切り捨てられるだけだ)
ユーマは震えるカイルの肩を掴み、無理やり路地裏へと引き戻した。
正規のルートを絶たれた二人は、汚水が路地の中央を流れる裏通りの、怪しげな薬屋や問屋を回った。
だが、そこにあるのはルミナ村で見慣れた素朴な薬草ではなく、加工され、ラベルが貼られ、法外な値札がついた「商品」だった。
「おばあちゃんの寿命を繋ぐ『聖灰の雫』? ああ、あるよ。だがね、坊や。あれはここらじゃ『飲む金貨』と呼ばれてるんだ。貴族が不老長寿の真似事をするために、王宮が直接管理している代物さ」
安宿の軒先にある薬屋の店主は、欠けた歯を見せながら嘲笑った。
「あんたらの持ってる銀貨を全部かき集めても、瓶の蓋すら買えやしない。……どうしても欲しけりゃ、金貨20枚は用意しな。もっとも、あんたらみたいなガキが一生働いても拝めない額だろうけどな」
店主の冷たい言葉が、ユーマの心に鉛のような重さで沈み込む。
努力すれば魔物を倒せた。努力すれば魔力は練り上げられた。だが、この「経済」という巨大な不条理の前では、少年の積み上げた研鑽など、砂粒ほどの価値もないと言わんばかりだった。
その夜、二人はスラムの入り口にある、シーツさえ湿った安宿の一室にいた。
窓の外からは、酔っ払いの怒鳴り声と、何かを解体するような不気味な金属音が聞こえてくる。
おばあちゃんの寿命は、残り二十五日。
「……カイル。真っ当な手段で薬を手に入れるのは、もう諦めよう」
ユーマが低い声で切り出した。その瞳からは、フェルゼンへの憧憬は完全に消え去り、極寒の海のような「演算」の光が宿っていた。
「……盗むのか? ユーマ。お前がそう言うなら、俺はやるぜ。この斧で門をぶち破ってでも……」
「いいえ、それは下策だ。……この街には『光』が強すぎるゆえの、深い『影』がある。僕たちの持っている技術――ガルドさんの斧に使われている特殊な鉱石、僕の精密な魔力抽出法。これらは、真っ当な市場ではなく、法律の及ばない『裏』でなら、金貨に変えるチャンスがあるはずだ」
ユーマは腰袋から、あの「銀の栞」を取り出した。
謎の少女が残したのか、それとも組織の遺留品か。いずれにせよ、これほどの高純度の魔導具がこの街で無価値なはずがない。
「この栞の紋章……解析した結果、外縁区の地下にある『秘密競売』の刻印に酷似している。……そこへ行こう、カイル。おばあちゃんを救うために、僕たちは今日から、この街の『毒』に染まるんだ」
「……カイル、武器の手入れは完璧にしておけ。明日からは、昨日戦った百足よりも、もっと醜悪な連中と交渉しなきゃならない」
「……ああ。分かってるよ。おばあちゃんを死なせるくらいなら、俺は悪魔にだって魂を売ってやる」
ステータス画面に変化はない。レベルアップの音も聞こえない。
だが、二人の少年の背中は、村を出た時よりも遥かに大きく、そしてどこか物悲しく見えた。




