第52話 二人3
それから。
ネブロと明菜は、雨の中、どこかに去っていった。
恐らくは、ネブロが言っていたように、人々の逃げ場をなくした後。
きっと、それぞれの死に場所に向かうのだろう。
残ったのは、僕と理恵と、二人の神だけだった。あとは、礼さんの死体がぶらさがっていて、マリアの死体が床に横たわっていた。
「雪、お前には辛い思いばかりさせたな」
メフレグの神がそう言ってから、僕らの方へと右手を差し出した。
すると、僕と理恵は、一つの大きな泡に包まれた。
その泡が僕らごと浮き上がる。浮き上がって、教会の扉から外に出て、それから上昇して、僕らは宙を浮く泡の中で空から世界を見下ろしていた。
すぐに、二人の神が唖然とする僕らの隣に現れた。
「この泡の中にいれば、世界が終わるまでは安全だ」
神は言った。
「定期的にその泡から体内に直接必要な栄養分と水分を送るから、食事や水分補給をする必要はない。その他諸々の事も、快適に暮らせるように工夫してある」
神は申し訳なさそうに続けた。
「ここから、世界の終わりを見届けてくれ」
そして、それから一体どれくらいの時間が経っただろうか。
僕と理恵は、ただただ、呆然と、世界の終わりを見つめていた。
たまに、僕は理恵にこれまであった出来事を話した。
たくさんの人を裏切ったこと、殺したこと。
理恵は、静かに泣きながら僕の話を聞いていた。
それも、全部話し終えると。
僕らの間には、静寂だけがあった。
言いたい言葉はある。
けれど、それは最期のときに。
そのときに言おう。
そう決めていた。
そして、世界が完全に水の中に沈んだとき。
僕と理恵は見た。
真っ黒で歪で大きな人の顔のようなものが世界に現れ、世界中を震え上がらせるほどの大声で笑い始めた。
そして、世界中を高速で飛び回り始めた。
まるで、この世界の死に様こそが、至上の喜びとでもするかのように。
ぞっとするような大声で叫びながら、その真っ黒な顔は、世界を飛び回り続けた。
「あれが、無の姿だ」
世界の崩壊に狂喜乱舞しているその姿を、いつの間にか僕らの隣に現れたメフレグの神は見つめていた。
見ていて分かった。あんなもの、僕らではどうすることもできないのだと。
メフレグの神は言った。
「さぁ、世界は完全に沈んだ。残るは、お前たちだけだ」
反メフレグの女神も現れた。二人とも、申し訳なさそうに僕と理恵を見ていた。
「実は、お前たち二人は、救世主とユダになる前から、無に目をつけられていたんだ」
メフレグの神が、苦しげに言った。
僕と理恵は顔を見合わせてから、神に尋ねる。
「それは……、どうしてですか?」
「無は、この有の世界に、その豊かさに嫉妬して破壊しようとしていた。その無が、最も嫌った現象は、恋、だった。恋は、個と個がその輪郭を保ちながらも濃密に触れ合うこの有の世界で最も豊かな現象だと無は認識していた」
メフレグの神は、悲しく笑った。
「お前たち二人の恋は、とても美しかった。だから、無はお前たちを狙っていた。それゆえ、私は明菜に命じて、お前たち二人を引き離そうとした」
「そういうことか……」
だから明菜は、まだ僕らが神と契約する前、高校に入学した当初から、僕に付き合ってほしいと言ってきたのだ。
僕はようやくあのときの彼女の行動の理由が分かった。
「結局、あの街でテロが起きてそれに巻き込まれたお前たちは救世主とユダになり、特に河水雪、お前はメフレグ主義者でもないが救世主の力を利用するために私が例外的に力を与えることになり、二人の仲は引き裂かれることになった。無も、お前が救世主を裏切ることで辛い思いをすることを喜び、お前たちに手を出さずただ観察するだけという契約に応じてくれた。だが、そうならなくても、私はどうにかしてお前たちを無から遠ざけるために引き離す予定だった。無が許容する方法でなければならないため、どのみち辛い目にあっていたとは思うが」
そうか。
僕は息を吐いた。
僕らは、そんな頃から呪われていたんだ。
「赤井凛もそうだ」
メフレグの神は一呼吸置いてから続ける。
「彼女の恋も美しかった。だから、私は彼女とその恋人を引き離すため、彼女の前に現れて姦淫の力を授けた。それが、無が許容した彼女に対するぎりぎりの救出方法だった」
「それは……、それもまたむごい話では……」
そのために、赤井先輩は自分の好きな人以外のテロリストたちと交わらなければならなかった。そのせいで、好きな人を守った彼女は、好きな人に捨てられた。
僕と理恵の悲劇とはまた違う悲劇の一つだっただろう。
赤井先輩にあんな裏切り方をした僕が言えた義理ではないかもしれないし、そもそも理恵を巻き込んだ赤井先輩に同情をする気はないが。
「お前たちは引き離されるほうが辛いと思うかもしれないが、無に捕えられて虐待されれば、はっきり言ってそんなことは二度と口にできなくなっていただろう。無の有に対する破壊衝動は、その残虐さは我々の想像を遥かに超えている。永遠に地獄の苦痛を味わうところだったんだ」
メフレグの神はそこまで言ってから、苦笑して僕らを見た。
「これは言い訳、だろうか?」
僕らは何も言えず、ただ首を小さく横に振った。
「そろそろ」
反メフレグの女神が、メフレグの神の肩に手を置く。
メフレグの神は頷いて、僕らを見た。
「無が世界の終焉に夢中になっている今の内ならば、我々でお前たちを楽に殺してやることもできるが、どうする?」
メフレグの神がそう言うと、理恵は首を横に振った。
「雪」
理恵が、少し疲れた顔で、微笑んだ。
「あなたに殺されたい。この大洪水で死んだ人たちが味わった以上の苦痛を伴って」
それは、この大洪水を起こしたことに対する贖罪の言葉でもあり、最期を僕に託す好意の言葉でもあると僕は受け取った。
僕は胸の中に、どこか甘やかな痛みを感じた。
「雪、できる?」
理恵の問いに、僕は少しの間目を閉じてから、再び目を開いて言った。
「やってみるよ」
僕は頷く。
「そして、僕も、君と同じ死に方をしよう」
僕はゆっくりと理恵を抱きしめた。
理恵は、僕の胸に嬉しそうに顔を押し当てた。
「ありがとう、雪」
僕は首を横に振った。
「こちらこそ、ありがとう」
僕は二人の神を見た。
「あなたたちは、これからどうするんですか?」
問うと、神々は力なく微笑んだ。
「また、無に帰るさ。引きちぎられながら、痛みの中で、自分が自分であったことも忘れて、あの、暴れ回っている奴の中に帰っていく」
「それは……」
「私たちは大丈夫よ」
女神のほうが言った。
「さぁ、早くしなさい。無が、襲いかかってくる前に」
女神に促されて、僕は言った。
「ハルモゼール」
光の剣が十三本、僕と理恵を包んでいる泡の中に出現する。
これは、あのとき、理恵に僕の正体を明かしたときに見せた本数と同じだ。
十三本で串刺しにされる痛みなら、洪水に飲まれて死ぬ苦痛以上になるのではなかろうか。
そう推測しながら、ゆっくりと、その十三本の剣を移動させて、僕の背中に七本、理恵の背中に六本の剣先を接触させる。
そして、一気に、抱きしめ合っている僕と理恵、二人を貫く。
その直前に。
僕は、言いたくて言いたくて仕方がなかったあの言葉を言っていた。
ありったけの優しさを込めて、強く。
それが、許されることではないことを分かりながら。
君を守りたいがために、多くの人を裏切り殺してきた救いようのない僕から。
僕に裏切られたがために、多くの人を巻き込み殺してしまった救いようのない君へ。
それでも、僕はあのときの君の言葉を、君の手の柔らかさを、幻だとは思わない。
いいこ、いいこ。
あのとき、きっと僕という人間は、生まれることができたのだろうから。
「理恵、好きだよ」
僕は、そしてその言葉を口にした。
「愛してる」
それが、人類の最期の言葉だった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました!




