第14話 今日より良い日が来ないとしても4
「雪、私……、私……、お母さんを殺しちゃった」
あの日。あの、運命の日。
か細く呟く理恵の言葉が、はじめはうまく聞き取れなかった。近くからは爆発音が鳴り響いていた。
一年前のあの日、僕らの街はメフレグ主義者による大規模なテロにさらされた。
まず、人々が集まるデパートや会社が狙われた。僕の愚かな親は生活の不満のはけ口にメフレグにかぶれ、喜んで様子を見に家を出て行った。そして、偶然にも、そう偶然にもあの日は理恵の母親もちょうどデパートの中にいた。
だが理恵にとってそれは、偶然ではなかった。
こげた臭いが混ざった風が吹いた。街の混乱など我関せずとでもいうように、黄色く染まった街路樹の葉が揺れて、その影はゆらめいた。
「わた……、私、お母さんとけんかしたの。私、馬鹿で……、甘えただから、久しぶりにお母さんに髪を結ってもらいたくて、それで、お母さんに頼んだら、もう高校生になったんだから自分でしなさいって。あ、当たり前だよね……。でも、なんだか、腹立っちゃって、今日は一緒に買い物に行く予定だったのに、私、体の調子が悪いって嘘ついて……。だったら、お母さん一人でデパート行って……そこで」
僕は最後まで言わせなかった。理恵を抱き寄せて喋れなくなるくらいきつく抱きしめた。はじめて抱きしめた彼女の体は、とても細くて頼りなくて。僕まで泣きそうになって、声が震えた。
「理恵のせいじゃない……、理恵のせいじゃないよ、絶対に」
むしろ、理恵がいたら理恵まで一緒に爆発に巻き込まれてしまっていた可能性だってある。理恵がテロリストを撃退できる力を持っているわけでもないんだ。理恵は私がいたら買い物も早く終わってお母さんは爆破される前にビルから出られたって言うけど、それだって本当に間に合ったかも分からないじゃないか。
でも、駄目だった。理恵は強烈に自分を責めて、僕はせめて、せめて彼女と一緒に傷つこうと思って一緒に震えた。
そして、その日の夜にあの事件が起きて。
理恵は救世主に、僕はユダになった。
理恵が倒れてから、僕とネブロで理恵を教会に運んでいった。事情を説明すると、礼さんは少し切なさそうに笑った。
理恵の部屋に運び、ベッドに寝かせ、それから付き添ってそばにいた。ネブロは礼拝堂に行くと言って出て行った。自分のせいで理恵が倒れたっていうのに無責任なやつだ。
「ん……」
うめく声が聞こえたので見ると、理恵が辛そうに顔をしかめていた。何度か頭を振るように寝返りを打つ。
悪い夢でも見ているのだろうか。
そっと、彼女の頭に手を伸ばす。そうすると彼女は僕の手をとってすがるように握り締めてきた。
「……あ」
理恵の目がゆっくりと開く。
「せ……つ……」
「ごめん、起こしちゃったか」
理恵の額からは汗が出ていた。理恵はよく分からないという顔で僕の顔を見て、天井を見て、それからようやく思い出したのか目を開いて顔を真っ赤にして、握っていた手を放した。掛け布団で顔を半分まで隠して、じっと僕のほうを見る。
「ああ……、いやいや、もうそのくだりはなしで」
僕のほうも顔が熱くなる。
「忘れよう、忘れよう」
本当はその表情の意味を聞いてみたいと思った。もしも、その想いを聞けたら、好きだって言ってもらえたら、それだけでもう、誰が相手でも、ソフィアでも、パナリオンでも、神でも勝てるような気がするんだ。
けれど、実際は勝つための力を得るために神との契約が、彼女を裏切ることが必要で、好きだって言ってもらえた後に裏切れるかどうか心のどこかで不安で仕方がないのだ。
本当に、僕はくだらない。
「……分かった」
理恵はほっとしたような、残念そうな顔で掛け布団からゆっくりと顔を出した。
「亀みたいだな」
その動きがかわいらしくて僕は微笑む。
「あ、ひどいよ、それ」
理恵もくすっと笑う。
そうやって彼女と笑い合い、今なら死んでもいいと心からそう思った。今以上に幸せな時が来るかどうか、明日また彼女と笑い合えることがあるのかどうか、僕には全く自信がなかった。
女々しさも極まったものだと思う。
「さっきね、お母さんの夢を見てたの」
どきっとした。
その単語を、あの日以来、僕は理恵の口から聞いていなかったからだ。
「……そっか」
だから、うなされていたのか。
それ以上なんて言ったらいいか分からず黙った。理恵は何か考え込むような顔で天井を見上げて、それから言った。
「お母さん、血だらけで、私を黙ってずっと見てた。怒ってもないし、笑ってもいない。ただ、じっと私を見てた。私は、今ならせっかく力があるのに、何を言っていいか分からなくて、ただ黙って立ってた」
血だらけの恭子さんの顔が、それから呆然としている理恵の顔が目に浮かんで、いたたまれなくなった。
理恵の罪悪感が生んだ悪夢。未だに彼女は自分を責めている。どうして、楽になれないのか、楽にしてあげられないのか。ほんのちょっとした、小さな、誰でもつく嘘が偶然重なっただけで、原因はテロにあるのに、なぜ、これほど日々純粋に生きている理恵が傷つかなければいけないのか。
でも、そうだ。彼女は純粋だからこそ、自分のちょっとした汚れが許せないのかもしれない。
真っ黒な紙にできたしみと、真っ白な紙にできたしみ。目立つのはどちらか。
「あの日からずっと考えてた。こんな私の言葉に力が宿って、けれどこんな汚い私の口から出た言葉で本当に誰か救えてるのかなって。その人の心を汚してしまったりしないかな? 力を使った人たちは、みんなおかしくなってしまう」
理恵がゴスペルを使った相手は、マシーンのように善人になる。
道徳の奴隷。その言葉が頭を離れない。でも、だからといってそれは君が汚いからではない。
ゴスペルの力が、あまりに強力なだけだ。群を抜いている。カインでさえも、ゴスペルの前では無力になるかもしれない。
「これは、罰なのかな? お母さんを殺した私に、神様が罰を与えたのかな?」
やめろよ。やめてくれよ。自分を否定するなよ。理恵が自分自身を否定するたびに、僕自身が否定されたような気がして胸が痛んだ。
「……理恵。これだけは覚えておいてほしい」
さっき離れてしまった彼女の手を握り直す。理恵はびっくりしたように僕を見て、それからその頬が赤く染まる。
「雪?」
「君の言葉は、きれいだ。君の心は、きれいだ。世界で一番。僕の思い込みかもしれないけれど、僕は本当にそう信じてる。お母さんのこと、責めなくていいとは言わないよ。どうしたって、君は自分を責めてしまうだろうから。けれど、どうか忘れないで」
喋りながら、ずっと言えなかったことが、溢れてくる。目頭が熱くなる。自分を傷つける彼女の痛みが伝染してしまった。胸が痛い。止まらないんだ。
「君はきれいだ。僕はいつだって君を見ているし、君に見とれている。何よりも、君に救われている」
理恵は少し口を開けて、目を真ん丸くして僕を見てる。こんな告白みたいなこと、きっと後になったら恥ずかしくて仕方がないのに。でも、自分を責める彼女に、知っておいてほしかった。
君がどれだけ僕を救ったのか。幼い頃、僕の頭をなでてくれたあの手の柔らかさを僕は決して忘れない。
「君は僕の全てだ。あの日、僕の魂は君に救われ、それからずっと君のものだ。僕の目は君を見るために、僕の口は君を賛美するためにある。この心臓は、君と同じ時間を刻むために。君が神様に選ばれたのは、君が確かに誰かを救えるからなんだ。罰でも、償いでもない。君は選ばれたんだ。だって、僕がいる。君に救われた僕がいるのだから。だから、だからどうか……」
口にしょっぱい味が広がってようやく僕は自分が泣いていることに気がついた。握っていた理恵の手が離れて、こちらに伸びて、僕の頬をなでた。
「……雪」
その顔はやっぱり真っ赤で、けれど、嬉しそうに、眩しく笑った。
「大好きだよ」
それは祝福にして、呪いの言葉だった。




