第12話 今日より良い日が来ないとしても2
「あんたが救世主かい、レディ」
あのとき、朝の教室でネブロは理恵に話しかけた。
さすがに殺すと言われたばかりの理恵は、少し警戒しながら頷く。
「どうしてこの世界を救いたいのか、教えてくれよ」
いきなりの質問に理恵は困った顔で俯いた。それから、ゆっくりと顔を上げて迷うことなく断言する。
「生まれてきたこの世界を守ること、愛することが間違っているとは思えない。だから、私は、人々がこの世界で幸せに生きることを少しでも手助けしたい」
それを聞いたネブロは、突然首を横に振り両手を上げた。
「……あんた、スレイブなのか?」
「…え? 何?」
「奴隷なのかって、ことさ」
理恵は言葉の意味が分からず、何も言えないようだ。羽田さんは頭の血管がぶち切れそうになるほどに顔を真っ赤にして、今にもネブロに飛びかかってしまいそうな勢いだ。理恵大好きな羽田さんのいる前で、理恵を殺しに来たと言い、理恵を否定するような言葉を口にしたのだから、当然だろう。
このとき、僕の頭にはあのとき元医者の男が言っていた言葉がよぎっていた。
「そうやって、道徳の奴隷を作っていくわけか」
理恵が、奴隷? 道徳の? それとも……。
耳鳴りがする。金属がこすりあうような音が思考を容赦なく揺らしていく。
ああ、そうか。
覚えている、忘れられないからこそ押し込めた記憶の奔流。
目眩を覚えながら、脳を揺さぶっていく音の中で、こだまする彼女の声を確かに聞いた。
「自分が世界を愛しているとは一度も言わないんだな、あんた。……サッド」
ネブロは悲しそうに目を細めて、それから手を叩いて大きな音を出した。途端に、頭の中の音も消えうせる。
「オーケー、冗談は終わりだ。これからよろしく頼むぜ、ブラザー、シスターたち!」
そう言ってにかっと笑い、ようやく教室の空気は和んだのだった。
「殺す気が失せちまったぜ、あまりにサッドなんでね」
痛々しいものを見てしまったかのように、ネブロは声を低くする。
「パナリオンはどいつもこいつもそうだ。とどのつまり、スレイブなんだよ」
まただ、また音がする。金属がこすれあい、悲鳴を上げている。頭の中でとてつもなく硬くて重い記憶と思考がぶつかり合っている。
声がする。彼女の、理恵の。泣いている。叫びのような懺悔が聞こえる。
そうだ、理恵。君は……。
「理恵を馬鹿にするのはやめてくれるか?」
頭の中の音に耐え切れなくなって、思わず言った。これ以上、この金属音を聞いていられない。口から出た言葉は、それでもその場凌ぎなんかじゃない。僕の心の声、いや願いだった。
「理恵は奴隷なんかじゃない。反メフレグの神に言われるがままではなく、理恵は自分の意志でこの世界を救いたいと思ってる。だって……」
「ストップ、裏切りの」
大きなため息がこぼれた。
「お前は、一体いつから救世主のファンになったんだ?」
殴られたようだった。自分の迂闊さに失望し、思わず拳を握り締めた。
僕はずっと理恵を殺そうとして、でも失敗し続けてきたという嘘をバルベーロで報告してきた。そう、決して、殺したくないなんてことは一言も、ニュアンスの欠片すら見せたことはなかった。初めてバルベーロに来たとき以外は。
それなのに、ここにきて。
「ブラザー」
ネブロがおもむろに手を差し出し、それから言った。
「知覚せよ、オーロイアエール」
光が出現し、そこから逆三角形の、彼の髪の色と逆の真っ赤な盾が二つ出現した。
オーロイアエール。米国を落としたという無敗の盾。
ネブロはそれを両腕に装着し、首を鳴らしながらだらっと構えてこちらを見る。
まずい、僕の真意を勘付かれた。嫌な汗をかきながら、相手を観察する。
気の抜けた構えなのに、どう攻めていいか分からないほどに隙がないように見える。
未だにネブロの反逆の能力を、僕は把握できていない。分かっているのは、ネブロに攻撃を加えた者は確実に死ぬ、という実績のみ。
「まさか、メフレグまで裏切っちまうとはな……。抜けよ、裏切りの」
「……正気か? こんなところで。誰かに見つかるようなリスクを……」
「俺の契約は『反逆』。既存の物、知識、ルールをぶっ壊すことこそが、ミッションでね。リスクはいつでもウェルカムだぜ」
その目はもはやこの状況を楽しむかのようにぎらぎらし、口笛を吹くかのように言う。
「向かってこないなら、こっちから行かせてもらうぜ!」
地面を蹴ったネブロは、昨日のパナリオンほどではないにせよ、一瞬でこちらに間を詰めてきた。
右腕の盾を突き出してくる。僕は避けることなく、ただその名を呼んだ。
「舞い踊れ、ハルモゼール」
光の剣が、僕の盾となってネブロの突きを弾き返す。
すると突然、
「なーるほどね」
僕と距離をとってから間の抜けた声になったネブロは、ぱんぱんと手を叩いた。
「オーケー、ジョークは終わりだ、ブラザー」
そう言いながら、二つの盾を消してネブロは笑った。
「ええっと、これは怒っていいのかな?」
冗談にしては度が過ぎていて、どう対応していいか分からない。ハルモゼールを解除しないままネブロを睨む。
「悪いって。ただ、確認したくてな」
ネブロはホールドアップの真似をしながら、べーっと舌を出す。
「何を?」
「お前、契約を一度も更新していないな」
ぎくりと背筋を伸ばす。
「ソフィアは、力を使うには継続して神との契約内容に従わなければならないという制限があるが、一方で神との契約を更新することで、その力を増していくことができる。俺の場合は、反逆の種類を増やすことで。でも、お前は……」
そうだ。ソフィアの契約更新はソフィアの力を進化させていく。公園で戦った男は患者を見捨てるたびに使えるメスの数が増えると言っていた。その能力は分からないが、ネブロも様々な反逆をすればするほどにその力を増していく。
僕も、理恵を様々な方法で裏切れば裏切るほどに、力は増していく、はずなんだ。
けれど、僕は明菜と付き合うということ以外、何一つ彼女を裏切ることをできないでいた。
「ユダが救世主に恋をした、か」
そう言ってからネブロは大声で笑った。
「そんなことは……」
今さらだけど必死になって弁明するが、ネブロは分かった分かったと言わんばかりに手を振る。
「メフレグにも、己の宿命にも、神にさえも反逆して。最高に、クールじゃねぇか、ブラザー」
腹を抱えながら、ネブロは息苦しそうに笑いながら話す。
「いやいや、前からお前のこと気に入っていたんだぜ。お前は誰よりも自分自身のスレイブだって、そんな気がしたからよ」
何を言っているのか、何がそんなに面白いのか、さっぱり分からない。
僕が、僕自身の奴隷?
僕が自分の思いを何一つ遂げられることもなく、こんなにもままならない日々を送っているっていうのに。
「なぁ、ブラザー」
差し出されたその手は、今度こそ握手を求めてきた。
「お前の反逆、見届けさせてもらうぜ?」




