意思を伝える
スイをマイに任せて、目の前の薄っぺらい笑顔を浮かべた男を見つめる。
「…話は?」
私の言葉に笑顔を強めて口を開く。
「そんなに警戒をしないでください。」
その困ったような、それでいて楽しそうな声に、既に煮え切っている腹の底が不快にグズつく。
…あの子を一人で行かせるんじゃなかった。
心配していた事は現実になって、いや、心配していた以上の傷を負って帰ってきた。
あの子に来ないでと言われても一緒に行けばよかった。あの不安な手を握りしめて一緒にいるとついて行くべきだった。
また、私はあの子のあの微笑みに甘えてしまった。
このグズつく感情は、渦巻く苛つきは、重い後悔は、私に対してのものでもある。
握りしめた指先が、爪が、手のひらを責め立てる。
「何故、あなたがそんな顔をするんですか?」
ビートは笑顔を保ったまま、冷たい瞳で私を見つめる。
そんな問いかけに答える義理はない。私の知らないところで、あの子の実験を決めて、傷つけたあなたに何かを伝えるつもりはない。
私の様子に困ったようにため息を漏らす。
「あなたは優秀だ。知識もあり、物事の正解がすぐに出てくる。観察眼に優れていて、違和感にすぐ気づく。多角的に物事を見つめて他の人が思い浮かばないアイディアを提案することができる。それなのに、“あれ”のせいでそれを使う機会が減ってしまっている。」
先ほどまでその頬に浮かんでいた笑顔は消え失せ、ひどくつまらなそうに言葉を放つ。
「“あれ”はあなたの邪魔をしている。」
ビートがスイを邪険にする理由の一つは私だ。しかし、それが、私がビートを好きになれない理由だとは彼は気づいていないようだけれど。
「それはあなたが決めることじゃないわ。それに、そんなことどうでもいい。早く伝言を教えて。」
私の言葉にまたため息をつき、再び微笑みを浮かべる。
「なかなか頑固ですね。わかりました。室長からの伝言ですが…。」
自然と唾をゴクリの呑み込む。室長、彼の言葉はいつだって、優しく、穏やかで、残酷だ。人類の進歩のために、自らの知識欲のために、適切な方法を用いて最短ルートで答えに辿り着く。それがどれだけスイを傷つけるようでも。
なにを言われるのだろうか。また、彼女が傷つく事なのか。それとも、もっと最悪な事…。
その想像につい身構えてしまう。
「アマミ・スイの成長は想定より良いものでした。彼女は私たちの存在を利用しようとしているようですので、彼女の成長に免じてそれに応えましょう。ヴェメール家には即日抗議と責任を取らせるように連絡を入れ、オルネラスには然るべき対応を取るよう注意勧告をします。とのことでした。」
言葉を終えたビートの姿に、張り詰めていた肺から息が吐き出された。
スイの思惑通りにしてくれると言うことね…。自然と手のひらから力が抜けていく。
「おそらく、すぐイレアさんの元に連絡が入ることでしょう。」
「ええ。わかったわ。」
返事をしていると後ろから足音が聞こえた。横を通り過ぎる大柄の男。先ほどスイを持ち上げていた男だった。
「運び終えました。」
その男がぼそっとビートに報告する。
ぶっきらぼうな、感情の見えない男だった。
「あぁ、こちらも終わったところだ。戻るぞ。」
「はい。」
そう言って大柄の男は運転席に座り込む。
ビートが助手席に座ろうと扉を開きながらこちらを振り返る。
「では、イレアさん。僕たちはこれで。」
その微笑みに拭えない警戒心を抱きながら、返事をする。
「ええ。」
ニコリと微笑みを強め助手席に乗り込み、その車が走り出すのを見つめる。
いなくなるのを見つめながら、嵐がさったような安堵感が広がる。
早く、スイの所に行こう。
そう思って車から逃げるようにスイのもとへ早足で向かう。
エレベーターで私たちの部屋の階に着いた時、ビジョンが鳴った。すぐに昨日の一件のことだとわかり、自分の部屋に入り電話に出る。
いくつか話をして電話を切る。とにかくスイの元に行きたかった。また深く傷ついてしまったあの子の元に。
自分の部屋を出て、スペアキーを使いスイの部屋に入ると、抑えることのない泣き声が聞こえた。
その声に胸が突き上げられるように跳ねる。
スイが、あのスイが泣いてる。今までそんなことなかった。
焦燥感に駆られてリビングのドアに駆け寄るとその扉の窓から見えたのは、私の予想している光景では無かった。
ソファに横たわるスイに、マイが抱き寄せられ、子供のように泣きじゃくっている。スイは優しく微笑みながら、マイの頭を撫でる。
あぁ、スイは何でこんなに強いのだろう。
あんなにボロボロになって、想像のできないほどの痛みを味わって、恐怖を植え付けられて、それでも他人を支えようと守ろうとする。
少しでも弱くあってくれれば、少しでも人のせいにしてくれれば、少しでも私を責めてくれれば、私は自分を責めなくていいのに。あの子が強くあれば強くあるほど、私は自分が惨めで弱い人間だと自覚してしまう。
またそんなことを思ってしまう自分の弱さが嫌なのに、目の前に映る光景がまるで自分とスイを見てるようで、胸が両手で締め付けられるように苦しかった。
そんな光景から目を逸らすようにリビングの扉から離れ、壁に寄りかかる。扉の向こうから聞こえる泣き声が、別世界のように聞こえる。
その声が、胸の痛みを思い出させながら響き渡る。この痛みを感じながら、その声が止むのを待った。
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しばらくするとマイは泣き止み、荒れた息を整えようと呼吸を大きく繰り返す。
「マイ、落ち着いた?」
マイの重力に従って流れる黒髪を撫でながらきくと、こくりと頭が上下した。
「そっか。」
ゆっくりとマイが体を起こす。細い指で目の下を擦り、涙を拭う。いつもはあまり温度の見せないその表情が溶けるような熱を放ち、湿気を孕んでいた。
泣きじゃくった子供のようなそんな幼い表情のマイを愛おしく思い、その頬に触れる。
見た目通り頬は熱く、触れるとその柔らかさに指が沈む。私の指に片目だけ目を細め、スンと鼻を鳴らす。
泣き止んだその表情に安心して、自分の頬が緩やかに上がるのを感じていた。
「…恥ずかしい所を、見せてしまったわ。」
掠れ声で紡ぐ言葉に笑いが出てしまった。
「そうかな?可愛かったけど。」
「…そんなことないわ。子供みたいで恥ずかしい。」
拗ねるようにボソボソと話す姿にまた頬が緩むのを感じる。
珍しく幼く見えるマイの頬に手を伸ばし、ゆっくり撫でる。
「いいんじゃない?私たちまだ子供だから。」
「…もう高校生よ。」
「そうだよ。まだ、高校生だよ。」
そう言ってマイに微笑むと、少し驚いたように目を開き、頬を緩め微笑んでくれた。
その笑顔に安心していると、扉が開いた音が聞こえた。目線を向けるとイレアが呆れたような微笑みを浮かべながら入ってくる。
「その自覚はあるのに、何で一人で全部決めちゃうのよ。」
「イレア。」
会いたかった、縋りたかった人の名前を呼ぶと胸の中がどうしようもなく熱くなる。
この人とまだ一緒にいれるのだと安堵が溢れそうになる。
こんな姿二人に見せたら心配させちゃう。
隠すように笑顔を浮かべる。
「スイ、おかえりなさい。」
優しく微笑むイレアに胸が解かれるように和らぐ。
ゆっくりと体を起こすとマイが背中を支えてくれる。
あぁ、戻って来れたんだ。私の居場所に。
「ただいま。」
座り直し、余計に巻かれた包帯を解いていると、イレアが冷たいお茶を置いてくれた。
ありがとうとお礼を言いながら、口に含むと、ひんやりとした液体が口から喉を通ってお腹に向かうのがわかる。
熱を帯びた喉が冷まされて気持ちよかった。
あれだけ叫べば喉も痛くなるよね。
そう思い、つい数時間前の出来事を思い出す。恐怖が身体を貫く。
それを隠すようにもう一度お茶を口に含み飲み込む。恐怖も飲み込めたようで、恐怖に体が反応することはなかった。
「…どうやら室長はあなたの意図を理解して、それ通りに動いたみたいよ。」
イレアがおもむろに話し出す。
「さっき、リーアス理事長から連絡があったわ。スイとマイ、ルエダさんについて話したいことがあると。」
「…そっか。じゃあ、約束は守ってくれたんだ。」
研究室でのやりとりはちゃんと果たされた。それだけで先ほどの恐怖がどこか薄らぐようだった。
「…約束?」
イレアの言葉が不審感を孕んで呟かれる。
「…こっちの話。大丈夫、後で話すよ。それで、どうするって?」
今、ここで話すことはできない。マイがいるこの空間では。
誤魔化すように話を急かすとイレアがこちらを観察するように見つめ、何か考えるようにほんの一瞬動きが止まる。
きっとマイは気づかないぐらいの間だった。いつもイレアを見ている私しかわからないぐらいの間。
イレアはそのまま話を続けてくれた。
「まだわからないわ。これからオルネラスへ行って、リーアス理事長とルエダさんのお父様とこれからのことを話してくるわ。マイ、悪いけどスイのことお願いしてもいいかしら?」
「…ええ。」
そう返事をするとマイは目を伏せ、何か悩むように下を向く。
「イレア、私は大丈夫だよ。私も一緒に行きたい。」
「大丈夫じゃないでしょう?検査を受けたばかりなのよ。」
「それがね、本当に大丈夫なんだ。」
そう告げて立ち上がり、検査を受けた腕を上げる。
研究室にいた頃はあの検査を受けたあと、しばらく痛みが引かずに立ち上がることも、腕を動かすのも苦しかった。今では痛みはなくなり、まるで検査がなかったように元通りになっていた。
私の様子にイレアは驚いたように私を見つめる。
「本当なの?」
「うん、本当。全然痛みもないよ。」
イレアがゆっくりと私の肩に手を当て、少しずつ負荷をかける。
観察するように私を見つめ、ある程度のところで手を離す。
「…本当みたいね。」
どこか寂しそうに呟くイレアの顔を覗き込むと、その表情を隠すようにこちらを見つめる。
「わかったわ。あなたが引き起こした事だもの。これからすぐに向かうから準備して。」
「ありがとう。」
そう言って解いた包帯をぐるりとまとめて、ゴミ箱に近づく。汚れがついていないそれを捨てることに少しの抵抗を覚えながら手の中にある布の塊をちらりとみる。
「私も、行かせて。」
背後からポツリと紡がれた声に振り向くと、不安そうで、それでいて何かを決心したような顔をしたマイがこちらを見つめていた。
「マイも?ルエダさんのお父さんも来るんだよ、大丈夫?」
「ええ。元はと言えば私の問題だから。私が行かないといけないわ。」
「そうかもしれないけど…。家が決めた結婚ならお父さん達に任せてもいいと思うよ。マイは今まで一人で頑張ってきたんだから。」
「違うの。」
私の言葉を遮って紡ぐ言葉は苦しそうに漂う。
「私は、逃げてきた。自分の選択も、ルエダの気持ちも、考えたくないから与えられてきた物をこなして、自分の中で折り合いをつけてきた。」
マイは俯きながら耐えるように目を細め、指先はスカートを握りしめる。
「いま、ここでまた、人に任せたら、自分の気持ちを言わなかったら、同じことの繰り返しになる。」
マイが顔を上げ、こちらを見つめる。苦しそうに、それでも確かにこちらを捉えるその瞳から目が離せない。
喉を鳴らすように紡がれる言葉は切実に訴えかけてくる。
「もう、嫌なの。待ってるだけなんて。アマミさんが解決してくれるのを待つだけなんて、したくない。ちゃんと、伝える。だから、一緒に行かせて。」
懇願するようなその瞳になんて言葉をかけるのが正解かわからなかった。
マイはいま、自分と正面から向き合ってる。それだけは確かで、いいか悪いかなんて私なんかが決めていい事じゃない。
マイの瞳を見つめ口を開こうとした時、その瞳が揺れるのをみた。
あぁ、この子はいま、不安なんだ。自分で選んだことが正しいのかわからないまま、それでも自分で選んで進もうとしている。そんなこの子を私は支えたいと、守りたいと思った。だから、今、こうして、ここにいるんだ。
「行こう。マイ、一緒に。」
その不安が少しでも和らいでくれればいい。そう思って微笑むと自然と頬が柔らかくなる。いつもより自然に微笑みが出てきた気がした。
マイは私の言葉に、真剣な顔をして頷いてくれた。ラベンダー色の瞳は真っ直ぐ私を映していた。
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イレアの車に乗って3人でオルネラスに向かう。
後部座席にマイと座って、いつもは歩いている通りを眺めていた。窓ガラスの向こうにある風景はいつもと変わらないのに、まるで別の世界のものに見える。
通り過ぎていく道を目で追っていくと、やがていつもマイが待っていてくれる木が見えてくる。
隣にいるはずのマイが待ってくれてる気がして、つい探してしまった。そんな私の想いも気にしないように、何事もない顔をして通り過ぎていくその風景が何だか寂しく感じた。
それを振り払おうと思いながら、マイに話しかける。
「今さ、待ち合わせのところにマイがいる気がして…。」
ふざけたように笑いながら、反対を見ると、マイが姿勢正しく前を見つめていた。その瞳は何かを捉えるように、見つめるように光を放っていた。
言葉が詰まった。振り払おうとしたその寂しさは、私の隣に凛と座っていた。
あぁ、マイは今、変わろうとしてるんだな。それを寂しいと思うのは私が子供だからだろうか。つい昨日まで流れていた“今”が変わろうとしている。
…いや、変えようとしたのは私なんだ。マイはそれに応えようとしただけ。
マイがこちらを向き、口を開く。その仕草が何だかスローモーションに見えた。
「私が、どうしたの?」
「…あ、いや、くだらないから大丈夫です。」
そんな真剣な眼差しで聞かれるような話ではないからなぁ。
私の言葉にそう、と呟いて再び前を向く。
変化するという寂しさと恐さが胸を包み込む。それがバレないように窓の外を見つめるが、私の眼球は外の景色をただ表面で映すだけだった。
オルネラスにつき、管理棟に向かってると初めてマイと出会った木を見つけた。歩きながら何となくそのふもとを眺めていた。
「初めて会ったのはあそこだったわね。」
突然投げかけられた言葉に反応して隣を見るとマイもあの木を見つめていた。その瞳が映しているのは多分あの日の私たちだった。
「…覚えててくれたんだ。」
自然と声が柔らかくなる。私にとってあの出会いは優しい思い出。私の世界が広がる優しいスタートだった。
私の言葉に、ええ、と返してくれる。マイはゆっくりと言葉を続ける。
「…私は、きっと、あの日から変わらなくてはいけなかったのね。父に副会長と言い渡された時から。」
懺悔のような言葉は優しい声色にのって紡がれる。
「今までの居場所が変わって、与えられるだけのことを応えるだけじゃいけなくなった。本当は昔からそうだったのに、ずっと逃げてきた。もう、逃げないわ。」
そう話すマイの表情は決意したような、それでいて何かに追い詰められているような顔をしていた。
「マイは逃げてたんじゃないと思う。」
この子は自分の中に失敗や反省をみつける。きっとそれはいいことなんだけど、そうやって自分を追い詰めてるマイを見ているのは苦しい。
「マイは一つずつ目的のために、たくさんのことをこなしてきたんでしょう?オルネラスのことを誰よりも知ろうとしたり、良くなるために行動したり、休みの日も将来のために勉強したり。私が知ってるだけでも、こんなにある。」
歩く足元には柔らかい緑の芝生が凛と背を伸ばしている。それがまだ春だと教えてくれてるようだった。
世界が、外が表情を変えるたびに私はちゃんと外にいると実感する。それが嬉しい。
頬を撫でる風も、優しい緑の香りも、暖かな夕日も私の胸をいっぱいにさせる。
あの日はあの木の元でそれを感じてた。そこにやってきた、凛として、それでいて儚いあの女の子。彼女もあの日、私の世界を広げてくれた。それは今も、マイを知るたびに私の世界は広がる。
その感謝を、喜びをこの子に返していきたい。今は、この子がしたいことを、選びたい事を選べるように。
「今回は少し話がこじれただけだよ。いつもやってたみたいに、マイはマイの力でこの問題を解決できる。ルエダさんのことも自分の中でどうにかしようとしてたんでしょ?マイは逃げてたんじゃない。一つ一つこなそうと努力していたんだよ。だから、マイは“いつも”みたいに向き合えばいいんだよ。」
「いつもみたいに…。」
そう呟きながらマイはあの木を見つめていた。そこに映るのは多分過去の風景。マイを作り上げてきた過去だろう。
マイが私を見つめ直し、ラベンダー色の瞳に射抜かれる。その瞳はもう揺らいでなかった。
「これが最善かわからない。それでも、私は私の意思で、私の言葉を伝える。私がそうすべきだと思うから。」
「うん。それがマイが選んだ事なら。たくさんの事をやってきた、考えてきたマイが選んだ選択。マイの過去が今の選択を見つけ出したんだ。大丈夫。上手くいくよ。」
ううん、上手く行かせる。私が引き起こしたことだから。
微笑みながら言葉を紡ぐと、マイは頷き前を向く。
その姿には儚さは残っていなかった。
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管理棟につき、イレアを先頭に理事長室に向かう。
相変わらず立派な扉の前に立ち、イレアが私たち二人を見つめる。
「開けるわよ。いいかしら?」
そのおもんばかるような眼差しはマイに向けられていた。マイはそれに応えるように頷きで返す。
その様子にイレアがふっと頬を緩め、マイの頭をポンポンと撫でる。
何だかこうやってみると二人は姉妹みたいだなぁ。二人ともクールだし、それでいて実は優しいし。なんか二人といると私だけ異色な感じするのは気のせいじゃないと思う。
…いい意味でね。決して子供が一人紛れてるとかじゃなくてね。
そんなくだらないことを思ってるなんて思ってもいないイレアが真剣な顔で口を開く
「行きましょう。」
そう言って、イレアが扉をノックする。
それに応えるように中から返事があった。ゆっくりと開かれる重厚感ある扉を目で追う。
今日も今日とてシルバーヘアをオールバックにまとめ、シワひとつない身だしなみ。マイのお父さんリーアス理事長がそこに立っていた。
「みんな、よくきてくれた。どうぞ中に。」
リーアス理事長は私たちを見ると中に招き入れる。視線が一瞬、マイで止まったのは多分見間違いではないと思う。
それに気がついているのかわからないがイレアに続いてマイが部屋に入っていく。マイの後に続いて部屋に入るとリーアス理事長と同じくらいの年の男性が立っていた。
確か、この人は、レセプションの時にマイとルエダさん達と一緒にいた。ルエダさんのお父さんか。
ルエダさんのお父さんは眉間に皺を寄せ、自分を責めるような、後悔するようなそんな表情を浮かべていた。扉も閉まりきらない間に彼が頭を下げる。
「マイさん。本当にすまなかった。」
入っていきなり、大人に真正面から謝罪をされたマイは少し戸惑うようにその姿を見つめる。
「いえ…。」
どう答えていいのかわからないようにマイが言い淀む。ルエダさんのお父さんが顔を上げ、私とイレアを見て、私に目線を向ける。
「スイ・アマミさんだね?今回は怖い思いをさせてしまって、何とお詫びをしていいのか。申し訳ない。」
今度は私に頭を下げる。その姿に胸の空洞を叩かれるような虚しさを感じる。
「私は大丈夫です。」
私の言葉に顔をあげるがその表情は晴れなかった。
きっと研究局から相当な連絡がいったのだろう。顔色は悪く、切迫詰まっているようだった。
「ロンド、急に謝られても困るだろう。一旦状況を説明しなくては。」
リーアス理事長がロンドさんの肩に手を乗せて落ち着かせようと声をかける。それにロンドさんがあぁ、と答え口をつぐむ。
「3人とも来てくれてありがとう。よかったらかけてくれ。」
その言葉に私たちはソファに腰をかける。反対側にリーアス理事長とロンドさんが座り、リーアス理事長が口を開く。
「先ほど研究局局長の名でオルネラスに厳重注意とヴェメール社に抗議文が届いた。オルネラスへの注意は中央生徒会副会長、マイ・フェルバーグの許婚でもある本学の学生ヴェメール・ルエダの強姦未遂についてだった。マイ・フェルバーグとヴェメール・ルエダ、そして研究室所属のスイ・アマミ、その3人と中央生徒会の関係確認、改善をするよう注意を受けた。」
研究室所属かぁ。その言葉にまだ自分が解放されていない事を実感する。
まぁ、だからこそ今回は色々やってくれたんだけどね。
リーアス理事長の話続けるようにロンドさんが口を開く。
「ヴェメール社には抗議文が届いたよ。内容は、愚息がスイ・アマミさんに行った無許可の薬物投与、強姦未遂についてだった。その責任をどう取るのか、特にルエダに対してどう処分を下すのか、それによってヴェメール社との関係を考えるとのことだった。」
ロンドさんの言葉からは明らかに落胆と疲れが滲み出ていた。
「アマミさん、重ねて謝罪させてくれ。愚息がとんでもないことをした。申し訳ない。」
再び頭を下げるロンドさんに罪悪感を抱きながら先ほどと同じセリフを伝える。
私の“大丈夫”では許された気持ちにならないようで、ロンドさんは自分を責めるように目を細めていた。
リーアス理事長がこちらをまっすぐ捉えて口を開く。
「本来であれば、イレア君に事情を聞こうと思ったのだが、二人が来てくれたんだ。辛くなければ二人から話を聞いてもいいだろうか?」
その言葉にイレアが私を見つめる。
それに応えるように口を開く。
「はい。最初は…。」
「アマミさん、私が。」
私の言葉を遮ったのはマイだった。そのラベンダーの瞳は私をまっすぐ捉える。すぐ目の前の理事長と同じ目線。
この親子は雰囲気がよく似てる。しみじみそんなことを思いながら頷く。
それをみてマイは二人に目線を戻す。
「はじめは、私がルエダの前でアマミさんの名前を呼んでしまった事からです。その事でルエダがアマミさんに警戒心を抱くようになりました。私たちの関係に巻き込みたくなかった私が、ルエダからアマミさんを遠ざけようとしたことがさらにルエダの気に障ったようでした。私に言うことを聞かせようと事あるごとにアマミさん名前を出して、私をコントロールしようと様々な事をしいてきました。そんな私たちの関係を見てアマミさんがルエダに説得しに行った際、先の事件が起こってしまいました。」
これほどのことを淡々とまるで業務の報告をするような口ぶりに少し戸惑ってしまう。少ししてマイはそういう子だったと思い出す。逆に今がいつも通りなんだ。
そんなことを思いながらその整った横顔を見つめる。マイの報告にロンドさんが大きなため息を吐く。
「そんなことで…。本当にあのバカ息子は…っ。」
呆れたような呟きは心の底から直接出てきたように吐き出される。
「…そんなこと、ではないんだと思います。」
マイがゆっくりその言葉を否定する。
眉間に皺を寄せ、目線を床に這わせながら苦しそうに言葉を続ける。その様子を誰よりも真剣に見つめていたのはリーアス理事長だった。
「きっと、ルエダはわかっていたんだと思います。私がルエダを“許婚”としてしか見てなかったこと。ルエダは私をマイ・フェルバーグとして想ってくれていたのに。私は彼を想ったことはなかった。」
その懺悔は申し訳なさに塗りたくられ、マイの口から滑り落ちる。
「本当の事の始まりはきっと、ルエダとの同棲が始まった頃だと思います。ルエダは私を思うままにしようとして、私はルエダの気持ちを無視し続けた。私達はお互いのことを想いやれなかった。」
マイは目の前にいる自分のお父さんと許婚の父をまっすぐ見つめる。その瞳は決心したようにぶれることなく、2人を捉える。
「申し訳ありません。私は、この婚約を、結ぶ事はできそうにありません。」
そう言って頭を下げるマイの手はスカートを握り言葉を待っていた。
「…そうか。」
そう呟いたのはリーアス理事長だった。その声はため息のような、安堵のようなそんな声だった。
その言葉にマイが頭を上げるが、目線は申し訳なさそうに下げられている。
「ロンド、そういうことみたいだ。この婚約は破棄で良いだろうか?」
「…あぁ。もとより本人たちの意思を尊重するべきだと話していたしな。」
疲れたように呟くロンドさんの声はどこか穏やかで、そのことをしっかりと受け入れているようだった。
その様子にリーアス理事長が申し訳なさそうに口を開く。
「すまない。」
「何を言っているんだ。こちらから無理にお願いした婚約だろ。」
呆れたように口角を持ち上げ、リーアス理事長に笑いかける。それに応えるようにリーアス理事長もフッと頬を和らげる。
ロンドさんがマイに向き直る。
「今まで愚息が好き勝手やっていたことは使用人に聞いたよ。たくさん傷つけてしまった。許されることではないが謝らせてくれ。本当に申し訳ない。」
「いえ、私の方こそ、申し訳ありません。」
目を細め、罪悪感に駆られた表情を浮かべるマイにロンドさんが優しく微笑む。
「マイさんは今までよく付き合ってくれたよ。好きな人に振り向いてもらえないからって馬鹿な振る舞いばかりしたあいつが子供だったんだ。好きな人に努力せず思い通り好かれるなんて、現実はそんなに甘くない。あいつはそれをわかっていないんだ。」
大きなため息と一緒に吐き出された言葉はどこか愛情も込められていた。ひとしきりため息を吐き終わった後、ロンドさんは真剣な眼差しでこちらを見る。
「ルエダには婚約破棄と社長候補から外すこと、オルネラス退学を伝えるよ。社長候補から外すことは会社で決定したことでもうそのように動いている。残りもすぐに実行するように指示しているよ。」
「退学…。」
マイがその言葉を繰り返す。ロンドさんが肯定するように頷き、言葉を続ける。
「あいつは生まれてから何でも与えられてきた。欲しいと思うもの、学校や将来の地位、婚約者まで。そのせいで、思い通りにいかないマイさんを振り回して、アマミさんまで傷つけようとした。あいつは一度自分で何かを手に入れる努力をしなきゃいけない。でないと、今回よりもっととんでもないことを引き起こす。」
真剣な眼差しで話すロンドさんは父親の顔をしていた。
「それに、処分を下さないとヴェメール社自体危うくなる。俺の家族は彼らだけではないからね。」
父であり、経営者だからこそ、それだけの決断ができるんだろう。
強い人だな。そう思った。
多くの人の人生を背負う責任と覚悟。それを持っている人なんだ。
そんなことを思っていたら何やら扉の外から誰かの声が聞こえた。不思議に思って扉に目を向けると、勢いよく開かれた。
その勢いのまま入ってきたのは、細い華奢な女性だった。
「ロンドっ!どういうこと!ルエダが社長候補から外れたと聞いたわ!」
まるで悲鳴のような言葉は勢いを殺さず、ロンドさんに向けられる。問い詰めるように駆け寄るその女性はロンドさんの服を掴み、答えを急かす。あまりの勢いにロンドさんは立ち上がり落ち着かせよう肩を抑える。後を追うように慌てて入ってきたスーツ姿の男性に止められるが、勢いは止まらない。
「バウス、落ち着きなさい。」
「落ち着いていられるわけないじゃない!ルエダが社長候補から外されるなんておかしいわ!あの子は私達の長男なのよ!!」
その剣幕はまるで捨てられる直前のような必死さだった。怖いと思った。感情がむき出しでそれを人に向けるその人が。
私達のというのなら彼女はルエダさんの母親なんだろう。
細い指、細い腕、薄く血管の浮き出た首筋。華奢を通り越して、痩せすぎな彼女はマイとリーアス理事長を見るなり二人に懇願する。
「二人もお願いしてください!マイさんもルエダが社長候補から外されたら困るでしょう!?」
その言葉にマイが顔を歪ませ、目線を逸らす。マイの右手が左腕を不安げに掴む。
何も言わないマイに痺れを切らして、こちらをジロリと睨む。矛先がマイに向かおうとした時、反応したのはリーアス理事長とイレアだった。リーアス理事長はマイを、イレアは私を彼女から遠ざけるように立ち上がり隠してくれる。
「何を黙っているの!?」
それに触発されたようにさらにヒステリックな声が上がる。
その声にマイが肩をびくつかせ、手を硬く握りしめる。悲鳴に似た大声にその横顔は戸惑いと恐怖に染まっていた。
彼女を安心させられるようにマイの握りしめられた手を庇うように触れる。
「いい加減にしなさい!!」
声を張り上げたのはロンドさんだった。
その声に目を見開き、驚きを隠しきれない表情を浮かべてその女性はロンドさんに振り返る。
「…なんで…?なんで、私が怒られるの…?」
ぽろぽろと口から滑り落ちる言葉は驚愕を隠さなかった。彼女は事態を理解しようと周りを震えながら見渡す。マイやリーアス理事を眺めながら思い浮かんだことを全て口に出しているようだった。
「ねぇ、あなた?マイさんとリーアスさんと何を話していたの?マイさんは何で何も言わないの?ルエダも学校から登校しないように言われてるの。どうして?何が起きてるの?」
震えながら紡がれる言葉は、その空間に漂う。
縋るように私たちを見渡し、ロンドさんに答えを求める。
「バウス、帰ってからゆっくり…」
「今よ!!今答えて!!!」
その声にロンドさんが顔を歪ませる。どうすれば落ち着くのかきっと彼にもわからないのだろう。
「…マイさんとルエダの婚約は破棄することになった。それを今、話し合っていたんだ。」
「婚約破棄…?」
掠れ声で紡がれる言葉は、事実を受け入れられないようだった。
「ルエダが社長候補でなくなる…?オルネラスとの婚約も破棄…?」
ヘナヘナと座り込む彼女をロンドさんが支える。
オルネラスとの婚約。彼女にとって息子とマイの婚約ではなく、息子とオルネラスとの婚約だったんだろう。そう思うと力なく座り込む彼女に何処か冷ややかな感情を抱く。
先ほどまでの勢いが嘘のように静まり返った彼女を見つめ、ロンドさんが立ち上がるよう諭す。
「すまない、リーアス。今日は先に失礼するよ。三人も驚かせてしまってすまないね。」
「あぁ。また、連絡する。」
その間も何か呟いている彼女を見ていると、虚な瞳が私を映す。
「…ぁ…なの?…きの…ルェダ…たの…。」
私に向かって呟かれた言葉に耳を澄ます。
「…白銀の髪の子。…あなたなの?…昨日ルエダの屋敷に行ったのは。」
その言葉に、どうしようか考えるように目を逸らすと彼女が力無く立ち上がるのを見た。
「…そう、あなたなのね。」
きっと聞き取れているのは私だけなんだろう。普通の人では聞き取れない呟きだった。
ロンドさんが彼女の手を掴んで部屋を出ようと背を向けた瞬間、彼女が私に向かって駆け出す。
机の上に乗り、私の前にいるイレアの顔に向かって手を伸ばす。
私は咄嗟にイレアの肩を左手で右側に避け、リーアス理事長にイレアを預ける。私の前には何も無くなり、彼女の細すぎる指が私の首に巻きつく。
「あなたのせいなのね!?私のルエダがこんな目に遭うのは!!!」
恨みの籠った瞳が、私の目の前に現れる。まるで底の見えない沼のような瞳だった。数ミリの距離でその怒りと恨みを吐き出され、首を絞める爪が鋭く食い込むのを感じる。喉が閉まり呼吸ができない。痛みと苦しさに顔が歪む。
彼女の荒い息が顔にかかる。
あぁ、この人は一生、私を恨むのだろう。こんなに細い腕でこんなにも強い力を出すほどに。
「スイ!!」
「アマミさん!」
マイとイレアの慌てた声が聞こえる。
マイが横から彼女の細すぎる腕を剥がそうと引っ張っている。
必死なマイの横顔を見る。
目の前の憎悪がマイに向かないようにしないと。この子がまた肩を震わさないように、そうしようって決めたんだ。
ロンドさんとリーアス理事長に肩を後ろに引っ張られその細い指が首から無理やり離される。最後までその憎悪を刻み込もうとその爪が私の喉を引っ掻く。
「…っはぁ!ごほっ…!」
身体が自然と前屈みになり、酸素を取り込もうと肺が大きく膨らむ。喉を触ると液体が指に着く。チラッと見ると微かに赤い液体が人差し指に付いていた。引っ掻かれたところが切れたんだろう、そう思って指についた液体を親指で擦る。
「離して!!!」
すぐ前では甲高い声が途切れることなく放たれている。
「アマミさん…!」
横から心配で染まった声が聞こえた。マイが支えるように私の両肩に手を回す。マイを見ると心配と不安にラベンダー色の瞳が揺れていた。
安心させようと口を開こうとした時、目の前の憎悪がマイを見つめているのに気がついく。
そっちには向かせない。行かせちゃいけない。
目の前の彼女が私に向くように口を開く。
「…そうです。昨日ルエダさんの屋敷に行ったのは私です。ルエダさんが私を襲おうとしてこんなことになった。」
憎悪がこちらを捉える。今にも爆発してしまいそうなそんな顔をして私に叫ぶ。
「お前のせいで!!お前がたぶらかしたんだ!!私のルエダを!!」
半分正解だけど、半分不正解かな。そうなると思って行ったけど、たぶらかしてはいないんだなぁ。
でも、これ以上話す必要はないだろう。きっとこの人は私への恨みでいっぱいだろうから。
マイが慌てて否定しようと彼女に向かって口を開くのを見た。制止するようにマイの服を掴む。
彼女は甲高い声を上げながら私に恨み節を吐き捨てる。男性二人でも彼女を制止させるので精一杯のようだった。
これは私も手伝う必要があるんじゃないか。トラウマになりそうな光景をどこか他人事のように見つめていると、開けっぱなしになっていた扉から彼女と一緒に入ってきた男性が警備を連れてきた。
男性達に引きずられながら連れて行かれる彼女を見つめながら喉を擦る。
「…アマミさん…。」
罪悪感で押しつぶされそうな顔をしてマイが私を見つめる。安心させられるようにマイに微笑む。
「大丈夫だよ。そんな顔しないで。」
そう伝えていると再び扉が開く。何となく恐ろしくて警戒しながらそちらを見ると、疲れ果てたリーアス理事長が帰ってきた。
いつもは髪型もスーツもピシッと決まってるのに、今日はもうボロボロだった。その姿に何だか親しみが溢れて少し気が抜けて、頬が緩まるのを感じる。
「すみません、最後煽るようなことを言って。」
私の言葉に困ったように笑う。
「まったくだ。お陰で一苦労だったよ。」
その言葉にすみませんと伝えると、真剣な眼差しで私を捉える。
「ただ、本当にあそこまでいくと危険だ。きっとマイを庇ってくれたのだろうけど、自分の事も考えなくてはいけないよ。」
「…すみませんでした。」
3度目の謝罪にリーアス理事長が頷き、目線をマイに向ける。
「マイ。これでよかったんだね?」
その声はいつものリーアス理事長ではなく、マイの父として発せられているものだと思った。それは、いつもより、優しく温かな声だったから。
「…はい。お父さん、ごめんなさい。」
マイが申し訳なさに目を逸らし、下を向く。まるで何かに失敗してしまったかのような、そんな謝罪だった。
「謝る必要はないよ。」
「でも、ヴェメール家との結婚はオルネラスにとって大きな事だったのに…。」
自分の選択でオルネラスに、自分のお父さんに迷惑をかけるそれが申し訳ないんだろう。マイは罪悪感に顔を伏せたままだった。
「マイ、よく聞きなさい。オルネラスはヴェメール家に頼る必要もない。アリストタリア1の称号は簡単には揺るがないさ。」
「でも、アマミさんが来たのは、ヴェメール家の支援があったからじゃ…。」
マイが問うようにリーアス理事長を見つめる。その言葉にリーアス理事長が少し驚いたように目を丸め、頬を和らげる。
「何の勘違いかな?」
「ルエダがヴェメール家がオルネラスに寄付をしたと…。」
「確かにヴェメール家から寄付はあったが、それは医療系強化の新学部創設に関してのものだ。医療機器メーカーの一族、ヴェメール家として今回の新学部創設を支援したいとの意向だった。決してアマミさんを迎えるためのものじゃないんだよ。」
「…そう、なの?」
父の顔を探るように見つめるマイは幼い子供みたいだった。
「あぁ。確かに、アマミさんがきてくれたのは喜ばしい事だったけれど、それは正式に研究局から打診を受けてのことだからね。」
リーアス理事長はそう言ってイレアに目線を向け、イレアはマイに優しく微笑みながら、本当の事よと告げる。
マイはまだ安心しないのか、罪悪感に表情を強張らせる。
「でも、最近はルミリアにランクアルファの順位も負けていたから…。」
「なかなか痛いところをつくね。…アンナはやり手だからなぁ。」
そう話すリーアス理事長はその言葉とは裏腹に楽しそうに微笑む。アンナ。それは前にアルバードさんに教えてもらったマイのお母さんの名前だった。
「…お母さん、何でルミリアに行ってしまったの?お母さんがいればオルネラスはもっと…。」
悲しげにつぶやく言葉はきっと、何度も思った事なんだろう。胸の奥底から絞り出したような言葉だった。
その様子をリーアス理事長は微笑みながら、マイの頭を撫でる。
「そんな事を気にしていたんだね。」
「だってお祖父様がお母さんのことをオルネラスを捨てたと言っていたから。」
マイの言葉にため息を吐きながら呆れたように呟く。
「全く、親父は。」
リーアス理事長は諭すようにマイに語りかける。
「マイ、アンナはオルネラスを捨てたわけじゃない。アンナはこの国の教育水準を上げたいとルミリアに行った。オルネラス一強の教育業界を変えて、より質の高い教育をオルネラスだけではなく他の学校でも受けれるように。それが、多くの子供達の選択肢を広げられると信じて。」
「お母さんが…。」
マイがポツリと呟くその言葉には先ほどの悲しみは乗っていなかった。
「その手始めとしてルミリアに行った。今やランクアルファだけではなくベータの入学率も高くなって、まさに有言実行だな。」
その口ぶりは困ったようだったけれど、どこか誇らしげだった。
リーアス理事長はアンナさんを、マイのお母さんを誇りに思っているんだ。その尊敬と愛情に満ちた瞳がそれを物語る。
「だから、母さんはオルネラスを捨てたわけじゃない。自分の信念を持って、誰に反対されても正しいと思ったことを実行しているだけだよ。」
「じゃあ、お母さんは私たちを捨てたわけじゃ…。」
「そんなことはないよ。私はわからないが、アンナがマイを捨てるなんてありえない。アンナはマイを何よりも大切に思っているよ。」
そう微笑むリーアス理事長の瞳はただただ愛に溢れていた。マイはその言葉に眉尻を下げ、耐えるように口をキュッと結ぶ。その姿をリーアス理事長はあたたかな微笑みを浮かべながら見つめ、マイがゆっくりと口を開く。
「…私、勘違いしてた。お母さんは私たちを捨てたんだと思った。」
「親父にそう言われたんだろ?全く、いい歳こいていつまで拗ねてんだか。」
さっきからリーアス理事長が、ただのリーアス・フェルバーグで戸惑う。マイはその振る舞いが嬉しいのか、表情が和らいでいた。
リーアス理事長が再びマイを真っ直ぐ見つめて口を開く。
「マイ、こう言っちゃ何だが、今回マイが自分から婚約破棄の話をしてくれて安心しているんだ。」
「そうなの?」
リーアス理事長の言葉に戸惑いと疑問の表情を浮かべる。
「あぁ。マイがルエダ君に気が向いていないのは気が付いてたからね。オルネラスの為にと我慢してるんだろうと思っていたから。」
その言葉にマイが申し訳なさそうに目を逸らす。
「何度か無理しなくて良いと伝えようと思ったけれど、アンナに止められていたんだ。私たちの子はちゃんと自分で正しいと思ったことを選べるって。それにもしかしたら、ルエダ君と結婚したいと思うかもしれないし、マイを助ける王子様が現れるかもしれないって。」
優しく微笑み、リーアス理事長は私を見つめる。どこか揶揄うようなその目線に、少し動揺してしまう。
「きっと流石のアンナもこの事態は想像していないだろうけどね。」
完璧イケオジのイタズラスマイルに感心すら覚える。これその界隈の人たち卒倒してるんじゃない?
何となく心配になってイレアを見ると、クスッと笑いながら私を見ていた。
イレアがイケオジ好きではないのは判明したけど、不服だな。その笑い不服だな。
抗議の目線でジトーと見つめてみるが、いつも通りイレアは全くものともしてませんでした。
「なによりもだけれど。」
リーアス理事長がマイに優しく語りかける。
「フェルバーグがどうこう、オルネラスがどうとか以前にマイは僕たちの大切な子供だ。そんなことを気にして自分の気持ちを蔑ろにしないでほしい。誰が何と言おうとマイが幸せにならないことを強制しないし、させない。」
優しくマイを見つめるその瞳は優しく細められ、目の横の皺が濃くなる。その大樹の様な大らかな優しさにお父さんというのはこう言うものなのかと目を奪われる。
「マイが生まれた時にアンナと決めた事なんだ。」
その言葉にマイの口がきゅっと結ばれる。顔を隠すように下を向き、肩が震える。
ゆっくりリーアス理事長の顔を見上げて、硬く結ばれた口が開かれる。その瞳にいっぱいになった涙が、微笑みで溢れ出す。
「ありがとう。お父さん。」
ここ数日、マイはたくさんの感情を見てきた。きっとその中で一番綺麗な表情だった。春を知らせる花のように美しくて可憐。そんな表情についこちらも笑顔になってしまう。
「母さんにも言ってあげてくれ。」
照れたように微笑むリーアス理事長は完全に理事長ではなく一人の父親の顔をしていた。
話を終えて、マイは実家に帰ることになった。
リーアス理事長の仕事を手伝った後、一緒に帰るとのことなので、私とイレアは先に理事長室を出ようと立ち上がる。
「じゃあ、マイ、私たちは先に帰るね。」
「ええ。…アマミさん。」
「ん?」
マイは私の首をチラッと見つめ、辛そうに目を細める。
「たくさん大変な事に巻き込んでしまったわ。その、首も…。ごめんなさい。」
「あぁ、これ?ちょっと引っかかられただけだから、大丈夫だよ。」
「それだけじゃないわ。今回のことでたくさんアマミさんに迷惑をかけてしまった。いくら謝っても足りないくらいに…。」
マイは目線を逸らし、自分の両手をお互い絡めるように握りしめる。
まーた、この子はそんな顔して。そんな顔して欲しくてやってるわけじゃないんだなぁ。
暗くなってしまったマイの表情を、両手で持ち上げる。私に頬を引っ張り上げられ、自然と目線が上がり、ラベンダー色の瞳が私をパチリと映す。
「マーイー。ごめんねならいらないんだよー。くれるんだったら、ありがとうが欲しいなー。」
文句を言うように不服そうに伝えると、マイは微笑みを浮かべ、照れたように口を開く。
「そうね。ありがとう。アマミさん。」
そう言いながらさりげなく私の両手を取る。
これカシアちゃんだったら、ずっとむぎゅってされたまんまだっただろうなぁ。
「どういたしまして。」
マイの笑顔に釣られて頬が上がる。
やっぱりマイの笑顔は破壊力満点だなぁと感心しているとリーアス理事長が微笑みを湛えてこちらを見つめていた。
「アマミさん。君は私と初めて会った時の会話を覚えているかな?」
リーアス理事長と初めて会った時の会話…?確か生徒会が不安って話して…、マイを大きな世界に連れて行ってほしいと言われたことを思い出す。
「はい、まだ1ヶ月ほど前のことですから。」
「そうですか。」
リーアス理事長は何かを考えるように目線を床に這わせ、やがて私を見つめる。
「君はたった1ヶ月程度で約束を果たしてくれましたね。ありがとう。」
瞳の横のシワがゆっくりと濃くなり、温かさにあふれるその表情は父親の顔だった。
娘を心配し、見守り、幸せを願う。見返りを求めずに与えるそれをきっと愛情と呼ぶのだろう。
その愛情を注がれている本人は何の話をしているのかわからないようで、私たちを見比べている。
「そんな大層なことはしてないです。それに、まだ、始まったばかりなので。」
そう、私たちの生活も、活動も、関係もまだ始まったばかり。マイのこともまだまだ知らない事もたくさんある。これから知っていければいい。
そんな今がちゃんと続いて行く。そのことが何よりも嬉しくて、安心する。
「それもそうだね。引き続きよろしくお願いするよ。」
そう言ってリーアス理事長はイケおじスマイルを惜しげもなく振りまく。
会話を優しく見守っていたイレアが、リーアス理事長とマイに挨拶をする。
「では、私達はこれで。マイ、また明日。」
「ええ、イレアもたくさん心配かけてごめんなさい。それと、ありがとう。」
「良いのよ。心配かけされるのはこの子なんだから。」
そう文句を呟きながらイレアは優しくこちらを見つめていた。その瞳が先ほどのリーアス理事長の物と重なる。何だか嬉しくて、こそばゆかった。そう感じていることが恥ずかしくて、隠すように不服そうな表情を浮かべる。
その様子にイレアが、まったく…と呟きながら帰るわよと二人に挨拶をして部屋を出る。
それに置いていかれないようにマイとリーアス理事長に向かって挨拶をする。
「じゃあ、マイ、また明日。」
「ええ、明日また、いつものところで待っているわね。」
そう返してくれるマイに胸が高まる。また明日から日常が始まる。それが当たり前で、奇跡のようなことだった。
「うん!」
喜びを二文字に乗せて返事をする。
イレアと自宅に帰り、夜ご飯を二人で食べる。
今日もまたたくさんのことがあった。研究室や理事長室でのこと。思い出すと大変なことばかりだったけれど、今がまだ続いている。それだけで充分だった。
そんな事を考えているとイレアが私をジッと見つめていた。
「な、なに?」
「いえ、別に。いつ研究室でのことを説明するつもりなのかしら、なんて思ってないわ。」
…。
思ってんじゃん。そう聞いてくれてもいいじゃないの。すっかり終わった気になってた私がいけないんだけどさ。
「ごめんて…。」
責められたことに気まずさを覚えながらボソボソと謝ると、イレアが大袈裟なため息をつく。呆れるように目線を下げ、息を吐き終わるとジッとこちらを見つめる。
「別に一から十まで全て教えてなんて言わないわ。私の元にも事情聴取の内容と検査のデータは送られてきているから。ただ、それ以外のことであの人たちに何か言われたり、変なことされてないでしょうね?」
「変なこと…。」
あの時の出来事を遡る。できるだけ抽象的に薄く、輪郭だけなぞるように記憶の上澄を思い出す。鮮明に思い出すと身体がまた反応してしまうから。
「何かされたの?」
イレアが探るように私を見つめる。
イレアのこの目は私の様子を確認するときの目。何か隠し事をしないか見つける時の目だった。
「いや、特に。」
「本当に?」
「ほんとほんと。」
今回は本当に何かされたわけじゃない。検査結果はイレアに行っているのなら追加で何か言う事なんて…。
「じゃあ、帰ってきてから言っていた、“約束”って何だったの?」
「あ、それか。」
イレアが気にしているのは。
私の反応にイレアが大きなため息をつく。その様子に慌てて説明する。
「なんか、安心しちゃって、忘れてた。ごめん。」
「安心って…。」
「説明するよぉ、説明するからぁ。」
文句を言いたそうなイレアの言葉を遮り、口を開く。
「えっと、もともと能力検査をする事になったのはってとこからだね。事情聴取が終わってから室長が私にとってマイが側に置いておく必要があるのか知りたいって言ったから。マイは私が何度か治癒能力を使って治したことがあるからさ、どれだけ私の能力向上に貢献しているか、検査結果でわかるだろうって。まぁ、暗に、検査頑張ればマイをそばに置いてやるって事なんだよ。」
ご飯を口に運びながらチラッとイレアの表情をみる。
悲しそうに目を細め、手は止まっていた。黙って話を聞いているイレアに言葉を続ける。
「きっと思惑はバレてたんだろうね。いつもの手足の治癒をやったら、やっぱりいつもより早く綺麗に治せてさ。でも、それじゃ大した成長じゃないって、目の作りは覚えているのかって言われてそこから眼球治癒をやることになった。無我夢中で治して、そこからは記憶がないから気を失ったんだと思う。で、起きたら私の部屋だった。ちゃんと研究局からの抗議がはいって今に至るって感じ。」
「…そう。」
イレアは口を小さく開き掠れるような声で相槌を打つ。その悲しそうな表情に昨日の頬の痛みを思い出し、罪悪感がちくりと胸を刺す。
「イレア、ごめん。私、イレアがいつも言ってくれるみたいにできない。自分でどうにかできることは自分でやってしまいたい。それで全部終わるなら。」
「…そうみたいね。」
「ごめん。」
ご飯を食べ終え、席を立つ。流しで洗い物をする。部屋には水の流れる音が響く。
泡が汚れを包むのを見つめながら、理事長室でのイレアの瞳を思い出す。リーアス理事長がマイに向けていたものと同じ瞳。父親が娘を見つめる瞳。そこには愛しさが込められていた。
きっとマイが傷付いたらリーアス理事長は自分以上に痛みと苦しみを感じるんだろう。
多分、イレアも同じ。だからいつも怒ってくれる。心配してくれる。悲しんでくれる。
私はそんな気持ちを蔑ろにしている。
最低だ。きっとバチがあたる。いやあたるべきだと思う。
そんなことを考えていると椅子が引かれる音がした。ギシギシと床が小さな音をたてる。流しの横に食べ終わった食器が置かれるのを横目で見つめる。
「置いといてー、一緒に洗っちゃうから。」
「ありがとう。」
イレアが返事をしたのを洗い物をしながら、いいよー、と応える。
泡に包まれた食器を水で洗い流し、元通りきれいになったお皿を見つめる。
さっきまで汚れていたのはまるでなかったかのように真っさらだった。どこが汚れていたのかも、何で汚れていたのかも想像がつかない。
そうなるんだったらそれでいいと思う。洗えば綺麗になって、また使うことができる。
私の身体もそれと一緒。自分で治す事ができて、普通の生活に戻ることができる。他の人はそうじゃない。なら、私が傷を負う方が良い。治せば良いだけだから。
洗い物を終えて、手を拭き振り返る。
「うぉっ。」
すぐ後ろにイレアが立っていた。
「びっくりしたぁ。全然気が付かなかった。」
「また、ロクでもないこと考えていたんでしょ。」
「え、いや、そんな事ないよ。ただぼーっとしてただけ。」
「うそ。スイが人の存在に気が付かない時はロクでもないこと考えて、そっちに集中している時だもの。」
真っ直ぐに私を見つめるイレアの瞳は悲しみの残滓が佇んでいた。その瞳が下げられ、首のところに止まる。イレアの長い指がそっと首筋に触れる。
「…怖かったわ。あれだけの憎悪があなたに注がれていた時。あなたの首が締め付けられている時。血の気が引いて、全身に寒気が走った。それなのに私はあなたを助けることもできずにいた。」
引っ掻かれただけの傷。治す必要も感じなくてそのままにしていた。
イレアの指が傷に触れないように撫でる。
「私は何もできない。権力もなくて、力もない。咄嗟にあなたを助けることができない。私にできるのはあなたに降りかかるリスクを想定して予防することだけ。」
抑揚なく紡がれる言葉は懺悔のようだった。
触れていた指が離れ、ゆっくりと腰に手を回す。私の肩に顔を埋めてイレアは言葉を続ける。
「ごめんなさい。私があなたを守る力がないからお願いするしかないの。せめて、あなたが何を考えているか、どうしようとしているか相談して。そうしたら、あなたの傷が少ない方法を見つけられるかもしれないから。」
この人は優しすぎる。イレアは何一つ悪くないのに。
「…うん。次からは相談するよ。傷つけてごめん。」
私の返事にイレアがゆっくりと顔を上げ、悲しみの残った眼差しで私を見つめる。
「約束よ。」
「うん。」
微笑みながらイレアに返事をして、イレアはこちらを心配を浮かべたまま探るようにじっと見つめる。
「でもね、イレアは今日私を守ろうとしてくれたでしょ?何もできないなんて事ない。イレアはたくさん私を守ってくれてるよ。」
今、私が壊れずにいれるのはイレアがいたから。あの研究室でたった一人、あなたがそばにいてくれた。充分すぎるぐらいあなたは私を守ってくれてる。
この気持ちが正しく伝わってほしい。
イレアの瞳が少し大きく開かれ、先ほどまで強張っていた頬はフッと力が抜けるように和らいだ。目を細め柔らかく微笑むイレアに安心する。
「守ろうとしたのにあなたによけられたんじゃない。」
責めるように、からかうように紡がれた言葉に、笑いがもれる。その様子にイレアが私をジトーと睨みつける。
「ごめん、ごめん。だってあの時、イレアの顔に手が伸びててさ。」
イレアの頬にかかる滑らかな髪をそっと避け、肌に触れる。
イレアがいつも通りの様子に戻ったことが嬉しくて、つい笑顔になってしまう。
「イレアの綺麗な顔に傷がついたら大変だと思ったんだよ。」
「…っ。」
イレアの瞳が大きく見開かれ、息を呑むのを見つめる。
お、どうした。
予想外のイレアの様子にキョトンと目を丸くしていると、両頬に衝撃が走る。
イレアの両手が勢いよく私の頬を挟み込む。
「いったーー!」
衝撃を和らげるように自分の両手で頬を包む。
「何すんの!」
「そういうことに関しても、何度も注意してるわよ!」
「どういうことに関して?!」
抗議と疑問を乗せた言葉はイレアの睨みによって華麗に避けられてしまった。
「いいわ…。ほんとにあなたは、注意もお願いも聞かないんだから…。」
大きなため息と一緒に紡がれた言葉に解せない顔をしていると、またキッと睨みつけられた。
もう怖いよ…。
「まったく…。私はもう帰るわよ。」
「わかったよぉ。」
イレアを玄関まで送っていくと、靴を履き終えたイレアがこちらに向き直る。先ほどまでのふざけた様子ではないイレアの表情をじっと見つめる。
「スイ、リーアス理事長も言っていたけれど、今回は本当に危ない事なのよ。あんなに感情をむき出しにした人を煽るなんて。ルエダさんもああいう反応をするかもしれない。対策は考えるけれど、あまり火に油を注ぐ真似は控えてちょうだい。」
真っ直ぐ向けられるその視線に、何となく耐えられなくて目を逸らしてしまう。
「うん。ごめん。」
「何かあったらすぐに教えて。ちゃんと相談するのよ?」
そう言って頬を和らげるイレアが綺麗で、その瞳が優しくて、頬が自然に持ち上げられる。
「うん。ありがとう、イレア。」
「わかったならいいわ。おやすみ、スイ。」
「おやすみ、イレア。」
そう言ってイレアは自分の部屋に戻って行った。




