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幕間 : オブリビオ



小さな妹が、ふさふさの尻尾を持って生まれたのは、オブリビオが十六の時の事だった。

生まれ持った魔術量が多く、異形として生まれ落ちたのだ。


王宮の多くの者達が沈痛な面持ちで項垂れる中、オブリビオは軽薄な義憤に駆られ、憂い顔の大人達などに負けず、その妹を生涯愛すると誓った。



「おにいさま!」



その小さな妹は、オブリビオによく懐いた。



魔術王である父や、その魔術補佐を行う母は忙しい。

国は高度な魔術に守られ安定しているが、この国は大陸一の大国として、他国には出来ない人間の筆頭組織としての責務を負わねばならないからだ。


人ならざる者達との交渉は難しいものが多く、けれども、富める者が責任を持ち、それ以外の者達を守るというのが、多くの魔術を有する事で怪物として迫害された過去を持つ、この国の者達の総意と矜持だ。


そんな中で生まれた妹は、かつて、この国の者達が迫害される理由の一端となった、身に余る祝福から、障りとなってしまった魔術を持って生まれた子供であった。



なかなか時間を取れない父や母の代わりに、年の離れた小さな妹に毎日会いに行けば、可愛い妹はいつだって嬉しそうに笑う。



「おにいさま、……………あのね、このお花、おほしさまみたいに、きらきらなの」

「ああ、美しい花だな。もしかして、私にくれるのか?」

「うん。……………でも、ルーカが触ると全部枯れちゃうから、取ってもらった」



小さな小さな妹を、膝の上に持ち上げて抱き締めてやると、淡い陽だまりの匂いがした。

それでも、この可愛いばかりの妹を抱き締めてやれるのは、国内でも上位十人程の魔術量の人間しかいないのだ。


その中に自分が入っている事は幸いではあったが、オブリビオとて、この子を一晩抱いてあやせば、翌日には酷い熱が出てしまう。

庭園に咲く可憐な花など、触れただけでひとたまりもなかった。



「だから、籠に入れて貰ったのか。有難う、ルーカ。とても嬉しいよ」

「ほんとう?」

「ああ。こんな美しい花がある事を私は知らなかったが、ルーカのお陰で、星屑のような花に出会えてしまった」



オブリビオがそう言えば、小さな妹は、目をきらきらさせて嬉しそうに口元をむずむずさせる。


優しい妹は、自分が異形であることも、他の人間とは同じように生きられない事も、こんな幼い頃からよく理解していた。



(いや、生きる為には、理解せざるを得なかった)



どれだけ我が子を愛していても、父や母は、何も知らない我が子が悪意なく誰かに触れ、その相手を殺してしまうような事だけは、何としても防がねばならなかった。


まだ幼い子供が、自分が触れるだけで誰かが死んでしまうかもしれないという事を、どんな思いで理解したのだろう。

そして、それを語らなければいけなかった両親は、どんな気持ちで、ルーカにその話をしたのだろう。


伝えられた事実を理解出来なかったり、嫌がって抵抗すれば、この罪なき子供は、幽閉されたり殺されたりすることになる。


どれだけ我が子を愛していても、その子供を自分達の手の内だけで守り切る事が不可能である以上、それは王族としての最低限の責務でもあるのだった。




「どうか、お前だけはせめて、あの子を、ただ愛してやってくれ。……………酷な事を言っているのも承知している。すまないな、オブリビオ」

「父上、何をおっしゃるのですか。私は、心からルーカが可愛いのですよ?酷な事など、一つもありません」

「……………オブリビオ。あの子の魔術素養は、人間の体に収まるには高過ぎる。……………恐らく、生まれ落ちる前に多くの人外者の祝福を受け過ぎてしまった事が原因なのだろう。あの子を愛し、誕生を待ち侘びる者達が多かった事でこのような運命を背負ったのだと思えばそれも残酷な事だが、……………あの子は、もう半年も生きられないだろう」

「……………父上?………ルーカはまだ、至って健康で」



言葉を失うという事が、本当にあるのだと、オブリビオはこの日初めて知った。


何かを言おうと口をぱくぱくさせても、上手く言葉が紡げない。

目の奥が熱くなり、わぁっと声を上げて叫びたくなって初めて、オブリビオは、自分が小さな妹を思っていたよりも遥かに慈しんでいたのだと知った。


そんなオブリビオを見て、父は苦し気に微笑む。

鮮やかな紫の瞳は決して冷静ではなく、執務用の机に置いた手は、僅かに震えていた。



「体が健やかで、成長してゆくからこそなのだ。同じように育つ体内の魔術量が、……………いずれ、あの子の体を壊してしまう」

「…………では、それをどうにかする術を見付けられたなら、あの子は救えますか?」

「……………探しているよ、オブリビオ。私も、私達以外のあの子を愛する多くの者達も、中にはあの子に祝福を与えてしまった人外者さえいる。だが、すくすくと育つ花に蕾を付けるなと願う事は難しい。体の成長だけを止めても、食事をし、心を育てていけば魔術量はやはり増える。食べ物も与えず、愛情も与えなければもう少し長らえる事は出来るが、我々の執着だけの為に、そんな残酷なことをあの子に強いるつもりはない」



父の声は、とても静かだった。

王として発する力強く美しい声が、今日ばかりは僅かに掠れている。

どうあっても生かす事が叶わず、少しでも長くと思えば、その願いですらあの子を傷付けるのだと知ったオブリビオは、その日、どんな思いで部屋に帰ったのかを覚えていない。


伴侶のスレイシアにその話をしたかもしれないし、項垂れる肩を、幼い頃より共に歩んできた彼女が抱いて慰めてくれたかもしれないが、ただただ、胸が苦しいばかりであった。



魔術の障りに飲み込まれる子供は、最終的には人の姿を失い異形となる。


人の心をなくし、身を苛む過分な魔術に狂い、大いなる災厄となるのだ。

そうして現れる怪物を人間の手で制御するのは難しく、もしルーカにその日が来たら、家族の手で眠らせてやるより他にない。


その兆候が現れると、ルーカには、悪変を防ぐための魔術薬が投与される。

やがて、その薬の治癒効果が彼女の中で悪変していく魔術の煌めきを一つずつ殺してゆき、眠るような最期を迎えるのだ。




「おにいさま!」



むちむちとした小さな手足は健康そのもので、大きな水色の目を輝かせてにこにこと笑う。


小さな小さな妹は甘えん坊で、オブリビオに駆け寄ってきて、背の高い兄に抱き上げて貰うのが大好きだ。

妹を抱えてくるりと回してやり、きゃあっと上がる声に唇の端を持ち上げると、オブリビオは、何の罪もない温かな命を抱き締めた。



ああ、この子に花を摘ませてやりたい。



友達を作り、その友達と手を繋ぎ、何の不安もない未来を見て欲しい。

当たり前のように誰かに触れ、動物に触れる事だって体験させてやりたい。

それなのになぜ、なぜ、こんなにも運命は無情なのか。



「すれし!」


発音が難しいのか、こちらに気付いてやって来たスレイシアの名前をそんな風に呼んで、ルーカがまた笑顔になる。


スレイシアは、ルーカに触れられる数少ない人間の一人で、まるで自分の妹のようにルーカを慈しんでくれた。

或いは、婚姻の儀より何年か経っても尚、授かる事のない我が子のように、ルーカを愛しているのかもしれない。


得てして、互いの魔術量が高い夫婦には子供が授かり難く、オブリビオと吊り合いが取れる令嬢がスレイシアしかいなかったとはいえ、彼女にどれだけの我慢を敷いているのかは想像に難くない。

それでも愛を育み、互いを思いやれているのは、二人がこれまでに沢山話をしてきたからだろう。


だから、オブリビオとスレイシアは、ルーカの事も沢山話した。

ルーカとこんな風に過ごしたと話す時のスレイシアは、いつだって幸せそうで、オブリビオも嬉しくなる。


頬を寄せて頭を撫でて貰い、嬉しそうに足をぱたぱたさせる妹の姿に、そんなルーカの拙いお喋りに耳を傾け、くすくすと笑ったスレイシアの幸せそうな微笑みに、オブリビオはまた胸が苦しくなる。



ああ、どうかこんな日が一日でも長く、少しでもいいから長く、続いてくれますように。

そう願いはしても、叶う事はないのだと知っていたのだけれど。




ルーカが魔術の障りに飲み込まれたのは、精霊の障りによる大きな水害があった日の事だった。


それは、青い青い空の日で、父とオブリビオは、被害を受けた土地を訪れていた。

騒ぎを起こした精霊は階位が高く、国王とその息子が二人がかりで何とか障りを鎮めなければ、どうにもならなかったのだ。


やっと荒ぶる精霊を宥め終え、数千人規模の交易路を有する街の民達の安全を確保し、二人揃って疲弊しきって、その街を収める貴族の屋敷に戻って来た時のこと。

魔術通信を受け取った一人の騎士が、顔色を変えてこちらに走ってきた。



「ご報告いたします。……………ルーカ様が」



その声を聞いた時に、膝から力が抜け、息が止まってしまうような気がした。

けれども、同じように蒼白になった父と共に、僅かばかりの護衛を連れて急ぎ帰った王都では、もう全てが終わっていたのだ。



あの日のことを、オブリビオは生涯忘れないだろう。



ルーカが大好きだった庭園は焼け爛れていて、我が子を止めようとした母は、片腕を失った。

魔術の障りに飲み込まれて現れた怪物に、多くの城勤めの者達が食われ、あちこちで苦痛の声とすすり泣きが聞こえる。


べたべたとした真っ黒な液体がこぼれたようなその災いの痕跡の真ん中で、血が滲み、ずたずたになったドレス姿で蹲っていたのは、スレイシアであった。



「……………スレイシア?」

「……………ごめんなさい。……………ごめんね、オブリビオ。私が、あの子を……………」



囁くような声でそこ迄を言い、わぁっと泣きじゃくったスレイシアに、ああそうだったのかと理解する。

父とオブリビオが不在にしている王宮で、母である王妃に次いで魔術を多く有するのは、このスレイシアではないか。


弟や、叔父や従兄もその資格を持つが、弟はまだ幼く、叔父達は王都にはいない。

だからこそ、母が倒れた時に、スレイシアがたった一人で怪物になったルーカに向き合う羽目になってしまったのか。



それなのに、蹲って子供のように泣く彼女に、オブリビオは何もしてやれなかった。

ただ、へなへなとその場に座り込み、顔を両手で覆って泣くばかりで、血が滴るくらいに拳を握って感情を収め、その場の指揮を執り、負傷者の確認や治癒にあたったのは父であった。



「その小さな星屑は、スレイシア様が、とても綺麗だからとルーカ様に贈ったものだったのです」



まだ猶予があったのに、なぜそんな事になったのだろう。

その理由は、甚大な被害を出してしまった王家としても調べざるを得ず、調査が行われた。


その結果、スレイシアが、これならルーカでも触れられるだろうと考えて、必死に探して手に入れてくれた星屑の祝福石が、ルーカの手のひらの中で粉々に砕けた事が、ルーカを酷く動揺させ、悪変が始まる切っ掛けとなった事が判明した。



まだ小さな子供だったのだ。



初めて、自分の手でも触れられるかもしれないと思ったきらきら光る星屑が、手の中で粉々になった時、あの子はどれだけ悲しかっただろう。

ずっとずっと我慢してきた小さな子供が、父や母、オブリビオの名前を呼んで泣きじゃくってしまっても、何の不思議もなかった。


また、その星屑を与えたスレイシアにも罪がない事くらい、オブリビオにも分かっていた。


ルーカ程ではないが、高位の魔術を持ち、出来る事が限られて生まれてきたスレイシアにとって、ルーカの孤独や悲しみは、どれだけ親しみのあるものだったことか。

もしかしたら我が子のようにも思っていたかもしれないルーカを少しでも喜ばせてやりたいと、王子妃である彼女が、従者達と共に泥だらけになって森で探したという星屑の祝福石は、それは美しい輝きだったのだそうだ。



多くの国民を貪り食らった怪物の葬儀を行う事は出来ず、空っぽの棺で、家族だけで弔いを行った。

母は受けた傷が原因でまだ起き上がれないが、魘されるようにルーカの名前を呼んでいるという。


本当の名前を墓標に刻む事も出来ないまま、空の棺が葬られるのは、王家の墓地ですらない森の中で。

ざざんと、棺に土をかける音に、心がぼろぼろになりそうだ。



(……………ずっとずっと、愛しているよ。ルクレティカ)



それは、とうとう本人が一度も知る事のなかった、ルーカの本当の名前だった。

障りを持って生まれた子供に祝福を込めた名前を授ける事が許されてはいなくても、家族だけでこっそり定め、心の中だけで呼び続けてきた、王家の有する王女としてのルーカの名前であった。



そして、葬儀が終わったその日の夜に、オブリビオは、スレイシアが自ら命を絶ったという知らせを聞いたのだ。




ばらばらと、砕けてこぼれる星屑のように。



願っても願っても、指先から零れ落ちてゆく。

幸せだった日が確かにそこにあるのに、そこにはもう二度と戻る事が出来ない。



愛する人達には、もう二度と会えない。



ただ目を覚まして執務を終え、当たり障りなく微笑むと毎日が暮れてゆく。

何を食べたのか、今の季節がいつなのかをあまり心に入れる事がないまま、一年が経った。


父から何度か、静養をしてはどうかと言われたが、あれだけの痛ましい事件を起こしてしまった王家の者が、その遺族達の悲しみも癒えない内に、休む事など出来ようか。




そしてその日、父が、あの最後の日に繋がる報せを持ってきたのだ。



「……………オブリビオ。北方の国で、怪物が現れたそうだ。その国を滅ぼし、今は隣国を脅かしている。周辺諸国が自国の被害を隠そうと情報統制を行った為に、我が国に情報が入るのがだいぶ遅れてしまった」

「怪物が……………?」

「ああ。その中の一国が、我が国に、亡命者や難民の受け入れを申請してきたことで、この問題は様々な国に知れ渡った。今後は、……………より大きな影響が、大陸全土に及ぶだろう」

「それは、人外者の障りでしょうか。それとも……………」

「……………人間の、……………恐らくは少女であるらしい。既に人の形は成していないが、あまり自我は残っておらず、国を喰らい、人を喰らい、もう随分と成長してしまった。せめてどうして怪物になったのかが分れば封印も出来るのだが、その国の者はもう、一人も生き残っていないのだ」

「……………一人も?………ですが、まさか………たったの一人も?」

「ああ。その少女の怨嗟の対象は、国そのものだったのかもしれないな。……………封印や討伐が叶わぬ場合や、あまりにも土地に残る怨嗟が強い場合は、私かお前のどちらかが、時戻しの禁術を使う事になるやもしれぬ。人間が住めないままに残されるにはあまりにも広大な土地であるし、人間の咎でそれだけの土地を損なう事を、人外者達は許さないだろう」



その禁術の名前を聞き、僅かに心が震えなかったと言えば嘘になる。

実際に、スレイシアが命を絶った後、国内でも何度か、その魔術の使用について議論が行われた。


だが、それは、魔術の成果であるのと同時に、世界の均衡を崩しかねないもの。

人間の手の中に残す事を了承する代わりに、世界を揺るがす程の災厄が現れた時にのみ使うという約定を、多くの人外者達と交わしているような魔術だ。


使えば術者が死ぬというだけで済む話ではなく、世界そのものに与える影響の大きさから、決して個人の為などに使っていいものではなかった。


もしそれを、父やオブリビオが身勝手に使ったら、あの小さな妹が、懸命に耐え、誰も傷付けないように生きてきた日々を否定する事になる。

自分の立場と責務を理解し、歯を食い縛って愛する者を自分の手で殺したスレイシアの絶望と覚悟に、この手で泥を塗る事になる。


だからこそ、オブリビオは何度も手を伸ばしかけた禁術への未練を、断ち切る事が出来た。



(……………だが、その怪物の為に時戻しを使うのであれば、或いは)



「……………父上。もし、その禁術が必要になる場合は、私が行います。万が一、術式の展開が叶わなかった場合は、これからの混乱が予測される大陸を纏めてゆくことが出来るのは、父上しかいないでしょう。また、観測者として最後までその場に残るのも、父上の魔術資質の方が向いている」

「……………はは、酷な事を言うなぁ、オブリビオ。…………私に、二人目の我が子の死を見ろと言うのか。……………だが、お前の言う事が正しいのだろうな。……………こんなに辛い事はないが、それを必要とする日が来たら、……………私は、我が子を魔術の贄にしなければならない」

「何を言うのですか。私だって、王家の一員としての責務を果たせますよ。…………とは言え、討伐や調伏が叶い、そのような事にならなければ、いいのですが」



そう言えば、父はどこか悲し気に微笑んだ。

きっと、オブリビオなどが及びもしない偉大な魔術師でもある父には、その日が避けようのない事であることも、分かっていたのだろう。




最後の日は、星の降る流星雨の夜だった。



オブリビオは、父と共に今はもう滅びた国に入り、焼けただれ、森や湖、壮麗な王都の建物の残骸すら残らない荒野を呆然と見回す。


既に、高位の人外者達と話し合い、時戻しの魔術を使う事は決まっていた。


人間の引き起こした災厄は、人間の手で回収するようにと言われた時、オブリビオは、時戻しの魔術が人間の手に残された本当の理由を知ったのだと思う。

あれは元々、このような時のために作られた魔術なのだろう。




土地の穢れが強く、その国の中に入れたのは、父とオブリビオだけで、その手には、時戻しの禁術を使う為に必要な道具や、魔術式を記した古い魔術書がある。



だが、大きな怪物だと、聞いていたのだ。

街を滅ぼし、国を喰らった、悍ましい怪物だと。


確かに、そこにいたのは、捩じれた角や、折れ曲がり茨のような棘のあるぼろぼろの大きな羽を持つ、竜によく似た真っ黒な怪物であった。


二足歩行で後ろ立ちしているので、どことなく人間だった頃の面影もあるが、こうして夜闇に隠されていなければ、目を背けたくなるような怪物なのかもしれない。



でも。




「……………おとうさま」



でも、その怪物は、空いっぱいに降り注ぐ星に歪な手を伸ばし、わんわんと声を上げて、小さな子供のように泣いていた。

それは、想像していたよりも遥かに小さな手で、オブリビオが細いなぁと笑ったスレイシアよりも細く、ずっと小さい。



「おかさま、……………おにいさま」


まだ幼い少女の声で、けれどもどうしようもなく狂っていて、泣きじゃくりながら必死に家族を探していた。



「助けて」

「……………どこにも行かないで」

「私を、一人ぼっちにしないで」

「ジュリウス」



その名前は誰のものなのだろう。

その名前を何度も呼んで、もうどこにもいないであろう誰かに助けを求める哀れな生き物は、国一つとそこに暮らした全ての人々を喰らった怪物には、到底見えなかった。



「……………子供ではないか。……………あんなもの、ただの……………怯えて傷付いた、ただの子供ではないか………」



呆然としてそう呟き、振り返ると、父は顔を覆って泣いていた。


ルーカが死んだ日も、自分の娘のように可愛がっていたスレイシアが命を絶ったと聞いた日も、一度もこんな風に泣かなかった人が、地面に膝を突き、顔を覆って泣いている。



そこにいたのは、ただの怯えた子供のような、紫紺交じりの黒い毛皮に水色の瞳の怪物で、……………そして、夜色の髪と水色の瞳を持つルーカにそっくりな怪物だった。



怪物は、星の降る空を見上げては、何とか地面に落ちて来る流星を拾おうとするが、身に持つ穢れが強過ぎて、拾い上げても拾い上げても、星は灰になって崩れてしまう。


その度に怯えて泣き、おろおろと星を集める怪物の姿に、オブリビオは胸が潰れそうになった。



(……………ああ、ここに居るのは、あの日、私や父上が会う事の叶わなかった、ルーカだ)



そして、ルーカのように殺して貰えず、彷徨い続ける哀れな怪物だ。




「……………ジュリウス」



誰かの名前を呼ぶ怪物の手の中で、また一つ、落ちてきた星が灰になる。

その姿を見ているのが耐えられなくなり、振り返ったオブリビオに、涙を拭って立ち上がった父が頷いた。



(……………私の、最後の夜を始めよう)



魔術書を開き、魔術の道を敷き、持ち込んだ儀式道具を配置する。

空から次々と落ちる星が眩しい程だったが、それはまるで、願い事を叶える為に降り注ぐ祝福ではなく、この怪物の手が届かないままに壊れてゆく願いの欠片のようであった。



星の光に照らされたページを読む低い詠唱に、不思議と声は震えなかった。


命を対価とし、結ばれたなら即座に自分を殺す術式なのに、体の内側に宿る熱に触れると、不思議な安堵と歓喜がある。


しゅわしゅわと煌めく魔術の光に触れ、その向こう側にルーカやスレイシアの微笑みを見た時、オブリビオは、自分がとうに生きる事に疲弊していたことに気付いた。


きっと、あの日にルーカの手の中で砕けた星は、オブリビオの願いも連れ去ってしまったのだろう。

けれども、王族としてやるべきことが多過ぎて、とっくに心が欠けている事に気付かなかっただけで。



(そうか。……………だから父上は、…………私がこの術式を使う事を、止めはしなかったのだ)



歯を食い縛って、涙を堪える。


愛していたのだ。

可愛い妹も、優しい妻も。

ルーカの小さな手を握り、スレイシアと微笑み合う。

そんな日々を、オブリビオはどうしようもなく愛していた。


それなのに、そんな愛する者達が泣いていた時に、オブリビオはいつだって側に居られない。

一番大事な時に、彼女達を抱き締めてやる事が出来なかったのが、死んでしまいたいくらいに悲しかった。




「……………きらきら、……………きれい」



魔術の結びのその最後の詠唱の時に、煌めく魔術に魅せられたように、怪物がこちらに寄ってきた。

どこか不安そうな足取りと、真っ黒な毛並みの中でこちらを見ている瞳の無防備さに、オブリビオはまた泣きたくなる。


オブリビオが詠唱を揺らがせた事に気付いたのか、後方に立つ父が、繋ぎの詠唱を始める。

僅かな猶予を貰ったオブリビオは、少しだけ詠唱を止め、こちらにやって来た怪物にそっと手を伸ばした。



「……………おいで。ほら、星の光のように綺麗だろう?……………ここに来たら、私が君の願い事を叶えてあげよう。きっとまた、家族に会えるよ」

「ジュリウスにも会える?みんな、私を置いて死んでしまったりしない?」

「……………ああ。きっと」

「きらきら、おほしさまみたい」



伸ばした手の中に小さな毛皮の生き物が収まった時、その小ささに胸を打たれた。


とは言え、怪物となった者の魔術の障りに触れ、皮膚が燃えるようだ。

込み上げる血を飲み込み、指先から炭化してゆきながら最後の詠唱を終える。

結ばれた魔術と運命の糸が、複雑に枝葉を伸ばし、リースのような輪を描けば、オブリビオと怪物の周囲を、時戻しの魔術の術式陣が取り巻いた。



(…………父上)



振り返った先で、涙を流しながら微笑む父が見え、もう大丈夫だと頷いた。

この魔術が無事に結ばれて時が戻るのなら、父とはまたそこで会えるだろう。


そして、戻されたその先からどんな人生を歩むのだとしても、きっとこの怪物にもまた会いに来よう。




「……………有難う、私に君を救わせてくれて」



そう言えば、抱き締めた怪物が小さく震える。


残酷な事だが、オブリビオは、最後に、この怪物の命を絶たなければならない。

もうこんなに傷付いているのに、それでも無防備に身を寄せてくれた生き物を殺すと思うと堪らなかったが、ここで、この怪物の命を絶っていかねば、時戻しの魔術に正しく添う事が出来なくなってしまう。


用意してあった怪物を殺す為の術式に触れると、顔を上げた怪物が、冬の湖のように澄んだ水色の瞳でオブリビオをじっと見つめ、ほろりと呟いた。



「有難う、お星さま。……………私を殺してくれて」


(…………っ!!)




ぱちんと、終わりを告げる魔術が弾けて、星の光の中に真っ逆さまに落ちてゆくような感覚と共に、オブリビオは、その最後の言葉を抱き締めて声を上げて泣いた。


ここは魔術の戻り道だから、きっとこんな風に泣いても許される筈だ。


愛する者を一人も救えなかった惨めな王子が、救ってやるつもりで救ってくれた哀れな怪物のあまりにも悲しい願いを抱き締めて、どうか今度こそは、みんな幸せになれたらいいのにと泣いても、この慟哭はもうオブリビオ一人にしか聞こえない。



ああ、この手で殺し、腕の中で崩れて灰になった怪物は、どこに帰るのだろう。

そして、降り注ぐ星の雨は、どれだけの願いを叶えてくれるのだろう。


もし、また彼女達に出会えたなら、今度こそ一人でも多く、幸せにしてやろう。

もう二度と、誰も一人ぼっちで彷徨わないように。





はらはらと、薔薇の花びらが舞い散る。



婚姻の儀式を終えたばかりの王都は、清しく甘い、花の香りに包まれていた。



「……………いい、儀式でしたね」

「ああ。いい婚姻の儀式だった。あの王子が共にいれば、ルクレツィアは大丈夫だろう」

「………父上は、いつの間に、彼女の事を名前で呼ぶようになったのですか」

「報告書の上での事ではあるが、ずっと成長過程を追いかけてきたんだ。お前だって、師匠と呼ばれてすっかり兄気分ではないか」

「……………それはまぁ、アルコルのお陰ですが」

「まさか、あの、ダーシー辺境伯の一人娘だとは思わなんだ」

「ええ。…………まさか、友人の妹だとは思っていませんでした」



訪れた王都では、惜しみなく花びらが振り撒かれ、辺境伯の娘と第二王子の婚姻を祝う人々の賑わいが、そこかしこから聞こえてくる。



かつて、怪物としてこの国を滅ぼした少女は、どうやら今は、多くの人々に愛されているようだ。

婚姻の儀式では、彼女との縁を望んでも叶わなかった令嬢達がさめざめと泣くという例のない場面もあり、どれだけ愛されているのだろうかと何だか笑ってしまった。




オブリビオ達が時戻しの禁術を使い戻った先は、妹が生まれるひと月前の事だった。


あの日の悲劇は起こらず、その代わりに、大きな奇跡が起こる事もないまま、最愛の妹が旅立ったのは、夏の日の夜のこと。


今回は、悪変の切っ掛けとなるような事件が起きなかったので、父が立てていた予測通りの年齢で体が限界を迎え、悪変を抑える為の魔術薬の影響で衰弱し、妹は亡くなった。


オブリビオは、以前と同じようにルーカを溺愛したが、もう一度、スレイシアにルーカとの別れを経験させるのは偲びなく、今回は彼女を伴侶に選ばなかった。


それでも、運命のようにまた縁があるのだろうかと思う事もあったが、彼女は、あっさりと従兄の伴侶になってしまい、今では幸せに暮らしている。

二人の婚約を聞いた時は少し寂しかったが、娘を産んで輝かんばかりの幸福に微笑む彼女を見た時、ああ、これで良かったのだと思ったものだ。


様々な研究や対策を重ねたものの、やはり妹を生き長らえさせてやることは出来なかったが、家族に看取られて眠るように亡くなった妹は、父が魔術で描いて見せてやった夢のお陰で、最後まで、明日は家族で海遊びに行くのだと信じたまま、幸せそうに微笑んでいた。


小さな棺には花が溢れ、多くの国民に惜しまれ盛大な葬儀が執り行われ、あの子は今、王家の墓地に眠っている。


どうにか妹も救えたならと思う日もあったが、魔術の恩恵とは、所詮人間の手で選べるようなものではない。

あの時戻しの魔術は、多くの人ならざる者達の承認を得て、あの怪物を生み出さない為にと使われた物なのだ。




あの流星雨の日に泣いていた怪物は、当時の状況とジュリウスという名前から、第二王子と婚約していた筈の辺境伯令嬢ではないかという仮説を立て、父と共に、信頼の出来る者達にのみ真実を明かして調べさせた。


同じような名前の者は他にもいるだろうが、あれだけの災厄になる素養を持つ人間はそういない。

オブリビオと同様か、或いは少し劣るくらいの魔術を身に宿す人間であるのだから、古くから魔術を扱える一族に生まれると考えるのが妥当だったのだ。



そう考えた時、オブリビオには思い当たる人物がいた。


それが、ほんの数ヶ月だけ、オブリビオの国に魔術を学ぶ為に訪れ、身分を隠して学生として過ごしていたオブリビオの友人になったアルコルだ。


彼の豊かな魔術の資質を思えば、その身内に過分な魔術を持つ少女が生まれても不思議はない。

そして、彼の妹は確か、その国の王子と婚約していた筈だった。


そう考えて推論を重ね、ルクレツィアが六歳になったところで、彼女に違いないという結論が出た。

であれば後はもう、二度とあのような悲劇が起こらないように心を配るばかりだ。


屋敷に入り込ませた部下から、なぜだか六歳の子供が突然大人顔負けの魔術鍛錬を始めたと聞き、居てもたってもいられずにアルコルの仲介で異国の辺境伯家を魔術師として尋ねたオブリビオは、魔術の教師としてルクレツィアの教育に当たった。


父は呆れていたが、あの流星雨の夜に抱き締めた小さな怪物の事だって、オブリビオは幸せにすると誓ったのだ。

彼女が、迷ったり途方に暮れたりするような事がないよう、導いてやりたかった。




「僕ね、すごくすごく強くなるんだよ。竜なんかぺしゃんこにするから、先生は、沢山魔術を教えてね」

「……………ルクレツィア」

「あのね、僕はもうベルのお兄ちゃんだから、ルークって呼んでね」

「……………ルーク」



運命が重なるかのようによく似た名前の響きに、心が震える。



ルクレツィアは、可愛い女の子だった。

まるで妹がもう一人増えたようだなと思えば、不思議なくらいに心が弾む。

夜色の髪をふんわりと波打たせ、水色の瞳を煌めかせたルクレツィアは、元気一杯の優しい子で、けれども、こんなにもルーカそっくりの色を持ちながらも、その気質は少しも似ていなかった。


だからこそオブリビオは、安心して、その子供を大事に出来たのだろう。

亡くなった妹の代わりとしてだけではなく、もう一人の新しい妹のようだと思えたから。



(それでも私は、君に妹の姿を重ねているだけなのかもしれない…………)


そう思う事もある。

でも、どんな理由であれ、オブリビオはただ、この子を幸せにすればいいのだ。



「………わぁ、きらきらして綺麗だね」

「昨晩の夏至祭で、星が流れたのだろう。こんなに質のいい星屑が拾える事は滅多にない。星屑を持っていると願いが叶うそうだぞ。持っているといい」

「……………ううん。僕、そういうのはいいや。もっと素敵なきらきらするものが沢山あるし、もう、お星さまには、最高のお願いを叶えて貰ったからね」

「そうなのか……………?」

「そう。だから僕、ベルのお兄ちゃんになったんだよ」



一瞬どきりとしたが、そう笑ったルクレツィアに、目を瞠ってから小さく頷いた。


この子はもう何も覚えてはいないだろうが、あの怪物が星の輝きのようだと手を伸ばしたオブリビオがいる限り、これからも沢山の願いを叶えられるように、この手を差し伸べよう。



あの日のオブリビオを、ここに戻してくれた、優しくて悲しい怪物の為に。



「では、今日も鍛錬をするか」

「うん!あのね、先生。僕、ベルに見せてあげる格好いい技を覚えたい!」



やがて、ルクレツィアが単身で竜を狩るようになると、やりすぎだと父に叱られ国に呼び戻されてしまったが、可愛い教え子がどんなものにも損なわれる事はないよう、その後も部下を国に残し、ルクレツィアの成長を見守った。


幸い、その部下はこちらの国で伴侶を得て、すっかり気に入ってしまったお嬢様の側で、馬番として今日も働いている。


ルクレツィアが嫁いだ今日からは王都と辺境域とで住まいを分けるが、彼がこの国に残っているだけでも充分に頼もしい。



花びらの降る街を眺め、微笑みを深める。



願い事の全てが都合よく叶いはしないが、きっと、人生はこのようなものなのだろう。

努力をし、届かずに悲嘆に暮れても、踏み留まれる一線を越えなければ生きてゆける。



「これからは、あの王子がルクレツィアの願いを叶えてゆくのだと思うと、…………こう、妹を取られたようで少し寂しいですね」

「……………ああ。私もなぜか、娘が嫁いだような気分だ」



父とそんな話をして、くすりと笑った。

一人ぼっちだった怪物が星に祈らずに済んだやり直しの先には、どんな未来があるのだろう。



何も知らないルクレツィアからすれば迷惑な話だが、ここにいるのは見知らぬ国の王子というだけではなく、幼い頃の魔術の師でもあるのだから、これからもずっとその幸せを祈らせて貰おう。


そう考えて微笑んだオブリビオは、その二年後に、ダーシー元辺境伯が、怒りに身を震わせて自国に殴り込んでくるのを知らない。



どうやら父は、ルクレツィアとジュリウスの子供に、過ぎたる贈り物をしたようだ。


何の血縁関係もないのに、私より祖父感を出してくると怒り狂っている元辺境伯を必死に宥め、オブリビオは、母と共にルーカの墓参りに行っている父の帰りを気の遠くなるような思いで待つ羽目になったのだった。

















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― 新着の感想 ―
涙ボロポロしながら読みました。 薬の魔物の継続理由の何度目かの読み返し中、明日の更新は「かいぶつは星に祈らない」の幕間のお話となりますとラストにコメントがありました。 670話です 作者様死去後の読…
[良い点] 控えめに言って、号泣しました。 すごーく、すごーく、いいお話でした! [気になる点] スレイシアと結婚しなかった今回で、オブリビオにも新しい愛があるんですよね…?
[一言] 主人公二人が大団円で終わって良かったね!って思ってたところにこのお話が来て、号泣しました。 オブリビオ王子が、人の幸せで幸せを感じられる優しい人が幸せになれますように。
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